睡蓮の騎士 02
シアン・ドゥジエム侵入事件以降、明らかに行動が変わってしまったアルティリアだったが、レオンハートが皇宮を去った後、さらに溌剌さが失われてしまった。
よく晴れた、その日。皇帝である父と兄である皇太子は、揃って現れた。
「アルティリア、お父様と庭で遊ぼう」
「ほら、兄もいるぞ」
そう言ってジークフリードはアルティリアを抱き上げ、皇帝と共に妹を連れ出した。母である皇后は「時間が解決してくれるでしょう」と言っていたが、男二人は小さな姫がしょんぼりしている姿に居ても立っても居られないのだ。
蝶が舞う南宮の庭園。以前なら、喜んでアゲハ蝶を追いかけていたが、アルティリアはジークフリードの腕の中から離れようとはしない。
「アルティリア、空を飛びたくないか?」
「おそら?」
ジークフリードは幼少の記憶を辿り、父との思い出の中で最も楽しかった遊びを思い出した。それをしてもらうと、ジークフリードは勉学の疲れも忘れられたのだ。
「おお、懐かしいな。ジークフリード。やってやるといい」
皇帝は良い考えだと言わんばかりだが、周囲の者達は考えた。「空を飛ぶってどうすんの?」まさか、姫君を天高くぶん投げるのではないか?そのまさかである。
チャングリフがいれば、一言「なりません」で終わっていた。だが、タイミング悪く、皇帝に物申しまくりの侍従がいない。側仕え達は、表情を変えずに動揺した。
「お待ち下さ……」
意を決して最年長の騎士と、乳母が同時に止めに入ろうとした、その時。庭園に一人の婦人が現れた。穏やかな微笑みを浮かべ、皇帝と皇太子へと歩み寄るのは、南宮の侍女長、モンスレー夫人である。夫人は皇帝の乳母でもあり、一時、皇太子の教育係もしていた。
夫人は何も語らず、春の木漏れ日のように温かな、包み込むような慈愛に満ちた表情を二人に向ける。皇帝も皇太子も知っている。この聖母の若き顔はめちゃくちゃ怒っているのだと。
夫人はその微笑みで語る。
「この南宮で危険な遊びは許さぬ。忘れたとは言わせぬぞ」と。
ジークフリードは思い出した。父にぶん投げられた時、最高に楽しかったが、同時に、モンスレー夫人に父と共にビシリと叱られたのだ。
「にいさま、おそら、どうやってとぶの?」
ジークフリードは妹を高く掲げると、その場でくるりくるり回転する。常識的なスピードで。皇太子は誤魔化すことにした。
「ははは!どうだ、アルティリア!」
今一楽しめないアルティリアであったが、すでに気配りを覚え始めているので「つまんない」などとは言わない「おそら、もう、いいよ」と伝えて下ろしてもらう。
「ありがとう、にいさま」
ちゃんとお礼も忘れない。
ジークフリードは幼児に気を遣わせた事に落ち込んだ。
「殿下。お時間で御座います」
空回りする皇太子を側近の一人が迎えに来た。長い美しい銀髪を後ろで束ねており、ジークフリードの側近達の中では珍しく華奢な体付きをしている。
「いや、まだ時間はあるだろう」
「いえ、今から南宮から執務室にお戻りになると、予定よりも5分遅れの開始となります。お急ぎ下さい」
アルティリアは初めて見る男に興味を持ったようで、トコトコと近いてきた。第三皇女に気が付いた男は膝を突き、アルティリアと視線を合わせる。
「ルヴァランの輝かしき星にお目見えします。ジークフリード皇太子殿下の側近筆頭ゲオルグ・ヴァルケルスと申します。お見知り置きを」
南宮は限られた者しか出入りを許されない皇族の私的空間である。そのため、出入りを許可された者達は正式な挨拶を簡略化して良い決まりがあるが、ヴァルケルスは生真面目な様子でアルティリアと言葉を交わす。
小さな姫はヴァルケルスの顔をジッと見ていると、彼の眼鏡の奥にある目の下にうっすらとした隈を見つけた。眠いのかもしれない。
「おひるね、する?」
姫君の言葉にヴァルケルスは少し表情を和らげたのを皇太子は目ざとく気付いていた。この男は自分には厳しいのに、子供には優しいようだ。
「ご提案は有り難いのですが、この後、皇太子殿下と執務がございます」
「しつむ?」
「お仕事でございます」
「おしごと?」
アルティリアは「おしごと」を知っている。ルヴァランを守る事が父や母、兄達の責務であると。それは応援せねば。くるりとジークフリードに体を向ける。
「にいさま、ばいばい」
頑張れ、にいさま。気持ちを込めて小さな妹は手をふる。
「アルティリアよ、まだ、兄の休憩時間は終わってないぞ」
「ばいばい」
「もう少し、兄と遊びたくはないか?」
「ばいばい」
それからアルティリアは手をふると、皆がとても喜ぶ事を知っていた。自分が手をふると、皆、顔を綻ばせて手をふり返してくれるのだ。ジークフリードが手をふり返してくれるまでアルティリアは「ばいばい」をやめることはない。
「皇女殿下も、こう仰っていますよ。さあ、参りましょう」
側近筆頭に引っ立てられた皇太子は南宮を後にした。その姿を見つめていたモンスレー夫人に皇帝は声をかける。
「申したい事があるのではないか」
アルティリアの外遊びの時間を見計らって、わざわざ出向いてきたのだ。何かあるのだろう。
「恐れながら、陛下。この老体は、南宮は安全であるべきだと愚考致します」
皇族の私的空間を守る一端を担うモンスレー夫人は、幼いアルティリアが侵入者と遭遇してしまった事に心を痛めていた。
皇宮は強固な警備態勢が取られているが、一部、警備が緩められている箇所がある。それらは全て罠であった。
目敏い者ならば、それらに気付く。時には非常に分かりやすく設定することもある。今回、シアン・ドゥジエムが通った場所はそれであった。他国の間者であれば決して踏み入れない。
そして、それらの緩みを利用する者、注意喚起をする者、何かしらの意図を汲み取り、素知らぬふりをする者。皇族は全て監視している。
それを叶えているのが影の長であるチャングリフだ。大陸随一を誇る影の軍団を率いて皇帝アレクサンドロスは皇宮の危険を制御している。
臣下の監視も行っているが、愚か者の炙り出し、幼い皇族に対しての危機管理能力の向上もその目的の一つだ。
だが、モンスレー夫人は疑問に思う。果たしてそれは皇族の育成に必要なものなのか。悪戯に幼い姫君の心に傷を残したのではないか。確かにチャングリフの配下は姫君の身を守った。
「姫君の御身はご無事でした。ですが御心は?」
幼い姫は、その身も心も、まだ守られて然るべきだろう。
「モンスレー夫人、皇族は生まれた時から皇族なのだ」
乳母や遊び相手の少女達と戯れる第三皇女アルティリア。
皇族として様々な人間と関わってきたアレクサンドロスの直感は言う。
アルティリアは聡い、しかし皇族として生きるには優し過ぎる。幼い皇族を利用せんとする者は後を立たないはずだ。アルティリア自身がそれらを跳ね除け、ルヴァランの皇族たる生き方を学ばねば、いずれ破滅が訪れる。
「世界は、赤子だからと、甘やかしてはくれんよ」
ルヴァランは強大だ。だが無敵ではない。アレクサンドロスは己の無力さを知っている。ならば取れる対策は全て行うしかない。ルヴァランと危険に晒されている家族を守るために。
「浅はかな事を申しました」
彼が最善と考えるならば、自分はそれを支えるのみ。
「いや、そなたには感謝しておる」
「勿体なき御言葉で御座います」
アルティリアをただの末娘として、可愛がることができればどんなに幸せか。皇帝アレクサンドロスには、ただの父親でいることは許されない。
「やはり、反対です」
同じ頃、皇太子と共に執務室に戻ったゲオルグは人払いをし、ジークフリードに申し立てた。
「なんだ藪から棒に」
「第三皇女殿下はまだ二歳です」
「だが皇族だ」
ゲオルグもまた、皇宮の管理態勢に疑問を持つ者の一人であった。南宮を訪れてみれば、第三皇女は想像以上に幼い。赤子だ。乳飲み子だ。あのような子供一人守らずして何が皇国貴族だ。
「皇女ともなると、どうしても温室育ちとなるからな。多少、人の悪意に触れさせる方が良いだろう」
「限度が御座います。見習い騎士とはいえ、成人した男三名に取り囲まれたのですよ」
そばにいたのは12歳の少年しかいなかった。アルティリアも側仕えの少年も、ゲオルグにとっては保護すべき子供達だ。
「アレらは小物に過ぎん。だが怯えるだけでなく、護衛を呼べたのだから、赤子にしては良くやった方だ」
そう言って皇太子ジークフリードは書類に手を伸ばす。この話はもう終わりだというように。だが、ペンを握りつつ口を開いた。
「あまり大事にし過ぎると、世界は思い通りになると勘違いする馬鹿になるからなあ」
それはどなたですか?などとゲオルグは聞かない。
ジークフリード自身だと知っているからだ。
10年前。当時、まだ第一皇子であったジークフリードと学友として皇宮に出入りしていたゲオルグは敵国の間者に誘拐された。
その際、まだ段階的にではあったが、魔力解除を行なっていたジークフリードは自信があった。ゲオルグと共に逃げ切れると。だが、制御しきれずに魔力は暴走する。
皇国騎士団が救助に向かった先には血の海が広がり、間者は全て絶命していた。そして気を失ったゲオルグと魔力の暴走により左目を失明したジークフリード。
「簡単だと思ったんだけどなぁ。上手くいかないもんだなぁ。俺、カッコ悪いなぁ」
ところが見舞いに行けば、ジークフリードはケロリとしていた。
「なんだ、泣いてるのか、ゲオルグ。怖かったのか?ははは!」
ゲオルグは学友ではあったが、自己中心的で身勝手で自信過剰で、デリカシーのないジークフリードが苦手であった。おそらくジークフリードもそれを感じ取っていたと思う。
だが誘拐時、薬で朦朧としている意識の中でも、間者とジークフリードのやり取りを見ていた。常にジークフリードはゲオルグと間者の間にいた。魔力の暴走は間者がゲオルグに手を掛けようとした事が発端だ。
救助された後、鏡を見れば銀色の髪が所々黒く染まっている。魔力が抜け、少しずつ元の色に戻ってきていたが、ジークフリードの魔力によって漆黒に染められていたのだと知る。
漆黒の髪を持つ二人の少年がどちらが、本物の皇子か見分けをつきにくくするためであったのだと推測出来る。
ゲオルグは両親や祖父母から皇族はルヴァランで最も尊ぶべき存在だと聞かされていた。その第一皇子たるジークフリードと共に学べるとは、なんたる栄誉。
「しっかり殿下をお支えするのだ」
そう父に言われていた。
ところがその皇子は自由気ままに周囲を振り回す。
これが皇族か。
ゲオルグは落胆した。
共に学んではいたが、敬意は抱けない。いずれ側近の打診があった時は辞退しよう。そう思っていた。
「おーい、ゲオ。泣くな。もう揶揄わない。頼む、母上とモンスレー夫人に怒られるんだ」
罪悪感なのか、怒りなのか、悔しさなのか、敗北感なのか。
心臓の奥に煮えたぎる強烈なものが何か、未だにゲオルグは理解できない。しかし、彼はこの時決めた。
「許しません」
「許せよー」
「絶対許しません」
「しつこいな」
「一生許しません」
生涯この男と共にあると。
この事件は公になっておらず、皇太子の失明を知る者は少ない。
現在、ジークフリードは魔力によって左目の視力を補う事が可能となっている。本人に言わせると、視力に頼らないので、逆に人、物、魔力の動きがよく分かるとの事だが。
皇太子の右腕と呼ばれるゲオルグ・ヴァルケルスは常にジークフリードの左側に立つ。
ゲオルグが10年前を思い出し、無意識にジークフリードの左眼に視線を送っていると。
「俺は馬鹿ではあったがな」
書類を捌きながらジークフリードが口を開き、その両端を吊り上げゲオルグを見据えた。
「左目一つでヴァルケルスの神童が手に入ったんだ。安い買い物であったよ」
ゲオルグは眉間に深い皺をつくる。
この不遜で尊大な男は、どうしてこんなにも強烈に人の感情を揺さぶるのか。それに惹かれて集まる人間のなんと多い事か。
「では、こちらを」
「この提案書は今日の分ではないはずだが」
「余裕があるようなので、先に進めましょう」
「お前、俺を過労死させたいのか」
「そう簡単には死なせませんので、ご安心を」
これまで貴族間のパワーバランスや、若い皇族への影響を考慮し、皇子や皇女の専属騎士の選定は成人後となっていた。
しかし安全面を配慮するべきだとのゲオルグ・ヴァルケルスの提案により選定を10歳に引き下げられる。
この提案により、専属騎士の選別はより厳しいものとなる。精鋭の中の、さらに精鋭が選ばれるため、必ずしも合格者は一定数を満たすことはなかった。
自然と皇族の専属騎士は少数精鋭となり、ルヴァランの羨望を集める存在となる。
ジークフリード誘拐の報復はしっかりしてますので
ご安心下さいな。
ルヴァランは100倍にして返す主義。




