睡蓮の姫君 03
その日の散歩の時間もレオンハートはアルティリアを追って皇宮の広い庭園を駆け巡る。そして、二人はまた睡蓮の池へと辿り着いた。
「レンよ!」
水面に浮かぶ花々を見てアルティリアは嬉しそうだ。
「レン、だーいちき」
レオンハートもアルティリアが心ゆくまで池の辺で遊ばせてあげたいところだが、やはり一人では心許ない。
「アルティリア様、一旦、皆んなの所まで戻って、改めて参りましょう」
「みんな、さみしー?」
「そうです。アルティリア様がいないと、皆、寂しいです」
「いーよ」
いつもと変わらぬ庭園への帰り道だ。そう思っていたのだが、想像もしなかった連中と出会してしまう。
「どうして、お前達がここに?」
木々の中から現れたのは、ダーシエの分家である、ドゥジエム伯爵家の子息であるシアンと、その腰巾着の子爵家、男爵家の子息だった。
「皇宮に上がれるのが自分だけだと思うなよ」
舌打ちしつつ答えたのは、小さなお山の大将であるシアンだ。レオンハートは厄介な事になったと思った。何故なら、9歳の頃、ダーシエ家の訓練でシアンを完璧に負かしてしまって以来、逆恨みされているのだ。
シアンは1年ほど前に、家の繋がりを利用してルヴァラン皇国騎士団の騎士見習いとして皇宮に入り込んだと聞いていた。見れば三人とも、騎士団から支給される訓練着に身を包んでいる。
皇国騎士団に入団するには、様々な方法があるが、近道となるルートは二つ。
一つはルヴァラン皇国士官学校への入学。卒業後、見習い期間を通る事なく、準騎士となり、騎士への叙任が早まる。
二つ目がルヴァラン皇国騎士団が主催する訓練に騎士見習いとして参加する事だ。13歳から15歳くらいまでの少年が主に参加し、訓練を積みつつ3年程の見習い期間を経て、準騎士となり、騎士への叙任を目指す。
士官学校は難易度の高い試験がある狭き門だ。もちろん、騎士団の見習いとして訓練に参加するのも簡単ではない。同然、実技、座学共に入団試験はある。ただ、やはり騎士団内での繋がりで時折、コネ入団が出来てしまう者もいる。そういう輩は厳しい訓練に根を上げて脱落するのが殆どらしい。
「今は訓練中だろう、さっさと戻れ。ここは南宮だ。お前達が入り込んで良い場所ではない」
シアン達もその類だろう。普通に考えて皇族の居住区域に騎士見習いが出入りするばすはない。恐らくは教官の目を盗み、訓練を抜け出して、隠れる場所を求めて入り込んできたのだ。
「うるせえ、糞餓鬼。お前に指図される言われはねえ」
「口を慎め、不法侵入者が」
普段のレオンハートはとても口が悪い。「糞はテメーだろうが!」と言い返していただろう。下手したら拳付きで。しかし、そばには姫君がいる。紳士、紳士。レンは紳士。
アルティリアはというと、レオンハートの脚の後ろにくっついて隠れている。分かります。嫌ですよね、こんなバッチイもの。
「いいか、聞けよ。皇族に取り入って侯爵になろうってのは、お前だけじゃねぇからな」
シアン・ドゥジエムはレオンハート・ダーシエが嫌いだった、大嫌いだった。武家であるダーシエ一門の一つ、ドゥジエム伯爵の長男の息子として生まれた彼は非常に恵まれた体格をしており、幼い頃から負け知らずだった。同世代なら、負ける事などなかった。今のレオンハートと似た立場であった。
シアンは13歳になり、ダーシエ家の訓練に参加した際、女のような顔をした子供を見付けた。いつも連れている父の部下の子供に尋ねれば、ダーシエ侯爵の孫であるという。こいつを負かせば、侯爵に目を掛けてもらえるに違いないと、勝負を挑めばアッサリと負けた。
油断し過ぎたのだと二度、三度、四度、五回も打ち合っても勝てない。おまけに、面倒臭そうな顔を隠しもしない。五回目が終了した時は、こちらは息が切れてしまっているというのに、奴は涼しい顔をしているではないか。
しかもだ。周囲にいた大人達に褒められ、良い気になるかと思えば。
「凄くねぇよ。弱過ぎだ、こいつ」
などど言い放った。
あまりに腹が立ったので母に言いつけてやった。これで奴も反省して、態度を改めるだろう。ところが同じ一門でも相手は当主の孫。母が直接意見する事は叶わないと言われてしまう。何故だ。相手は当主の孫とは言え、三男の息子。自分は長男の息子だ。いずれ伯爵家を継ぐが、相手は継ぐ爵位もないのだ。格が違う。
「大丈夫よ、シアンちゃん。母様に任せておきなさい」
しかし母は息子のために動いた。ダーシエ侯爵の孫のレオンハートの振る舞いを親戚の茶会で吹聴したのだ。しかし残念な事に母は高位貴族についての情報に疎かった。
母は茶会で夫人達にこう話したのだ。
「レオンハートは幼いシアン相手に手加減をする事なく痛め付けた」と。
シアンはレオンハートの年齢を伝えていなかったため、母は相手は年上だと思い込んだのだ。茶会に出席していた夫人達も「まあ、そうなの」としか言わなかったという。結果、シアンがさらに恥をかいただけだった。
おまけに不運は続き、この一件がドゥジエム伯爵である祖父の耳に入ってしまったのだ。祖父は激怒した。
「九歳の子供に負け、その上、母に泣きつくなど、如何なることか。恥を知れ」
その日、シアンは祖父に激しい稽古を付けられた。母は泣きながら祖父に抗議した。伯爵家の跡継ぎであるシアンをもっと大切にして欲しいと。ところが、祖父は言うのだ。
「シアンが後継だと誰が言った。ダーシエに連なるドゥジエムは皇族の剣として盾として戦う一族だ。相応しき者が継ぐ。こやつにその資格はない」
これにはシアンの父も物申した。我が息子以外に相応しい者がいるものかと。祖父は深いため息を吐き出すと「明日、朝、訓練場に来い」とだけ言った。
仕方なく、訓練場に行くと、親戚の子供やドゥジエムの騎士の息子達が鍛錬に励んでいた。自分は早朝の練習に間に合うよう、起きることが面倒でいつしか参加しなくなった。久しぶりではあったが、特に心配もなかった。何故ならかつて、負かせた相手ばかりだ。相手にならない。きっと祖父に直接手解きを受けるのだろう。皆の前で当主から特別扱いを受けるのも悪くないと考えた。
ところが祖父一人の少年を呼んで、打ち合うように言った。確か一歳歳下だったはずだ。ならば、こいつでレオンハートに負けた鬱憤を晴らそう。
「負けた者は素振り百回だ。始め!」
祖父の掛け声で、シアンは模擬刀を大きく振りかぶり……負けた。
「はあっ……がふっ」
腹がガラ空きだったのだ。相手の少年はそこに打ち込んできた。
咳き込むシアンに祖父は容赦なく次の相手と戦うよう言う。「途中でやめるなら素振り5000回だ」と言って。
稽古など久しぶりで勘が少し鈍っただけだ。次こそはと打ち明けば負ける。シアンは十人以上の年下の少年達に敗北した。
背後で母の金切り声が聞こえる。
「何故シアンを敬わないのか」
「臣下の息子のくせに生意気だ」
「シアンに怪我をさせて騎士になれると思うな」
「お前達全員追い出してやる」
祖父に「文句があるなら、荷物をまとめてシアンと共に実家に戻れ」と言われて母は黙った。
「お前達にドゥジエムを好きにする権限はない。今後、私の許可なく勝手をすれば家から追い出す。責任を持って妻を監視しろ」
祖父は父に冷たい目を向け言い放った。
シアンは確かに幼い頃は強かった。しかし、その小さな才能の片鱗にあぐらをかき、鍛錬を怠ってきた。気まぐれに訓練に参加すれば、過保護な母がしゃしゃり出る。父は父で息子は天才だと、いずれ伯爵を継ぐのはシアンだと疑いもせず、自分は未来の当主の父だと周りに吹聴していた。
こんな親子に親切に諭してくれる者はいなかった。
同じ屋敷に住む弟達一家にでさえ「面倒だから放っておけ」と言われていた。
シアンの母がレオンハートを知らなかったのも、本人の振る舞いから、親族のご夫人達から距離を置かれていため、教えてくれる者はいなかったのだ。それを裕福な男爵家出身のため、蔑まれ妬まれていると勘違いし逆恨みしているので、余計に嫌われていた。
シアンの父も剣術の腕前も、戦術も、特段優れたものではなかったが、普段からダーシエ一門だと大物ぶっていた。周囲はドゥジエム伯爵に敬意を表して、その息子である彼を表向きは尊重していただけだ。あげく将来息子が伯爵になったら、仕えさせてやろうかなどど、自身よりも腕の立つ騎士に話していたのだから、勘違いした鬱陶しい男でしかなかった。
シアンも父も母も、裸の王様だった。
ここで反省すれば良かった。父はコツコツと努力するよう息子に諭せば良かった。母は息子を黙って見守り応援すれば良かった。しかし彼らは、己を顧みる事なく何故か上を目指した。
ダーシエ侯爵後継者の座である。
本家の当主が「当主の子息、分家の者、遠縁だろうが関係ない」と言うのだ。シアンにもチャンスはある。
ドゥジエム伯爵よりも格上の本家。
ダーシエ一門の当主。
その座を掴むことが出来れば全てを覆す事が出来る。生家での不当な対応や一門の中での軽蔑を含んだ眼差し。ドゥジエム伯爵も己の過ちに気付くだろう。
シアンが本気を出せば、多少の遅れは取り戻せると、父から稽古を付けられるようになったが、似たもの親子は少し調子が戻ってくれば充分だと判断した。
あとは手柄を立てられればと思ったが、10代前半のシアンに武勇を得られる機会はそうはない。騎士を目指していたので、座学は壊滅的だった。士官学校は無理だ。
手をこまねいている間に、あの生意気なレオンハートが後継者候補の最有力者だと噂されるようになった。父との稽古でかつての強さを取り戻したと、ダーシエの訓練に参加してみれば、相手にもされない。きっとダーシエ独自の鍛錬方法があるのだろう、でなければ、あんな化け物じみた強さの説明はつかない。
おまけに学問も優秀な成績を収めているという。親戚の女どもは剣術や武術が優れているだけではなく、顔も頭もいい。レオンハートが当主を継げばダーシエも安泰だと口さがない。
しかし、あのように生意気であれば、さぞや身内からも嫌われているに違いない。レオンハートの従兄弟に接触した。多勢で掛かれば奴の骨を折るくらいは出来るだろう。
ところがレオンハートの従兄弟達からは、奴の自慢を聞かされただけだった。
「あの太刀筋を見たか?」
「魔力の移動の流れも素晴らしい」
「将来はルヴァランの戦女神を超えるかもしれない」
凄い、凄い、誇らしいと我が事のように喜んでいた。馬鹿なのか。
そして、一年程前、さらに耳を疑う話を聞く。
レオンハートが第三皇女のお相手に選ばれたと言うのだ。通常、姫君の遊び相手に男が選ばれる事はない。一部では、婚約者候補に上がっているのではないかとも噂されている。皇女を妻にするとなれば、侯爵家の当主の座も簡単に手に入るだろう。
ならば父の人脈を駆使して、こちらも皇女様のお相手になれるよう手を回して貰おう。赤子相手より美姫と噂される二人の姫の方が良いに決まっている。しかし第一皇女様、第二皇女様は遊び相手を必要とする年齢ではないと断られてしまったらしい。
この際、第二皇子でも良いと言ったが「フェルディナンド様は外国語習得のため、最近は皇国語で日常会話をされておりません。ご子息は何カ国語習得されておりますか?」などと無礼な質問をされる始末。
流石に騎士にもなっていないシアンは皇太子の側近になるのは難しい。
あれやこれやと企んでいたが成果は出ない。
ある時、父が知り合いに頼み込み、皇国騎士団の騎士見習いとして訓練への参加許可を取ってきた。
「これでシアンの才覚が皇族の目に留まるだろう」
「シアンちゃんは素敵な男の子だもの。皇女様に見染められてしまうのではないの?」
父と母はシアンが困らぬよう、子分として連れている、父の部下の子供二人も訓練に参加出来るよう手続きをしてくれた。
あとは訓練中に皇族が来るのを待つだけだ。ところが、いくら待っても皇族の訪れはない。ただただ辛い訓練をこなす毎日。しかも他の者よりも厳しいのではないかと感じる。練習量も多い。教官を問いただしてみれば。
「君は無試験だろう。試験を通過していない者は、一定期間、特別訓練が課せられるのだ」
そんな事は聞いてないと言えば「君の父上は自分の息子なら問題ない」と話していたぞと言われてしまう。
また、シアンの入団は他の者よりも遅かったため、周囲は年下ばかりにも関わらず、自分よりも実力は高い。だが自分が格下だと思われるのは嫌だった。
「俺は伯爵の孫だぞ」
「俺もだよ」
「私もだ」
「僕の父も伯爵だよ」
「自分の祖父は侯爵だが」
違いを分からせてやろうと、祖父の話をすれば、団員にも似たような立場の子供達は多かった。
こんな振る舞いをしてはいたものの、シアンに声をかける者もいた。しかし、その内容は望んだものでない。
「なあ、君はダーシエ一門なんだろう?レオンハート令息と会ったことはあるのかい?」
「まだ12歳だというのに、とんでもない実力があるんだって?」
「今は第三皇女殿下の遊び相手をしているそうだよ」
「姫君の護衛も兼ねているとか?」
「それは、凄いな」
「一度、手合わせをしてみたいなぁ」
ここでも、レオンハート、レオンハート、レオンハートだ。
レオンハートはダーシエの特別な訓練をして、力を付けた卑怯者だ。皆がもてはやす実力は紛い物だ。それなのに何故、奴ばかりがもてはやされるのか。
おまけに今は皇族に取り入り、ダーシエ一門の当主になろうとしている。そんな卑怯な真似をするならば、こちらも、もたついてはいられない。
早く自分も皇族と関係を深める必要がある。とっくに成人した皇太子よりも、女子供の方が操りやすいだろう。ならば、男の餓鬼よりも、皇女とねんごろになる方が手っ取り早い。
騎士団の訓練場に皇女が来ないなら、こちらから出向けば良いと考えたが、皇族の居住区である南宮には、厳重な警備体制が敷かれており、たとえ騎士見習でも立ち入ることは難しい。
何度か訓練を抜け出し、侵入できる経路を探すと、一部警備の緩い箇所を見つけた。南宮の庭に通じているようだ。やはり自分は特別だ、シアンは道は開けると信じて疑わなかった。
大陸の覇者と呼ばれるルヴァランの皇宮。しかも皇族の住まう南宮へと通じる場所に、一部でも警備の甘い箇所があることに疑問を抱くことはなかった。
しかし、その日、出会ったのは、第一皇女でもなく、第二皇女でもなく。
「俺はお前が餓鬼のお守りをしてる間に、皇女もダーシエも手に入れるからな」
レオンハート・ダーシエと、彼の後ろに隠れる幼い第三皇女であった。