第四話 過去の傷が癒えるまで
遮る雲のない夜空には大きな月と無数の星が散りばめられていた。
主がいなくなった巣の上を占拠しているジルベールとディナリスはあろうことか、その主を晩餐にしていた。
「焼けたぞ。一番美味いところだ、多分」
「多分とはなんだ?」
「こんなデカイ鳥、食ったことないからな。
まあ、モンスターなんてのはゲテモノばかりで王様に食わせるのは気が引けるがね」
「命を無駄にすることはない。
食肉も供養のうちだ」
言葉を交わしながら二人は焼けた怪鳥の肉を貪った。
ディナリスの持ってきた背嚢の中には船団の料理長が持たせた秘伝の香辛料があり、それをかけることで得体の知れない肉でも上等な晩餐と化した。
「そういえばさ、こうやって二人きりで飯を食うのは初めてだな」
二人きりという言葉に意識させられたジルベールは少しよそよそしく「そうだな」と答える。
その様子はディナリスを喜ばせた。
からかいがいがある、と言わんばかりに身体を寄せて耳元で囁く。
「目の前で巨大なモンスターをぶった斬って、それを捌いて食らっている蛮族みたいな女に、何を欲情してるのさ」
「よく…!? ち、違う! そういうのじゃない!!」
慌てふためいて距離を置くジルベール。
するとディナリスはわざとらしく膝を抱えて俯きながら呟く。
「ハハッ、分かってるって。
私みたいな無骨者では、ジル様みたいな高貴なお方の趣味には合うまい」
「バカなことを……」
女にしては背も高く肩幅も広い。
あらわになっている腕やふくらはぎにはしっかりとした筋肉もついている。
歩く以上の運動をしない貴族の御令嬢たちとは似ても似つかない容姿である。
だが、姿勢良く、しなやかな肢体は野生の獣の如き美しさと生命力の強さを感じさせる。
切長の瞳や涼やかな口元は抜き身の刃のような清廉で化粧が無くとも妖しい魅力を醸し出す。
美姫の闊歩する王宮育ちのジルベールでさえ目を見張るくらいにディナリスの美貌は煌めいていた。
焚き火にくべた枝が燃えて割れる。
パチパチ、と渇いた音が鳴ったのに紛れるように、
「初めて会った時から、美しい女だと思っていたさ……」
と、ジルベールは顔を背けて聴こえないように息を吐く程度の小声で呟く。
しかし、
「ジル様。独り言は一人の時にするものだ。
鈍感ぶって聞き逃すような女だと思ったか?」
キッチリと彼女の耳に届いていた。
ジルベールは思わず顔を引き攣らせる。
「いっ…………耳も良いのか、そなたは」
「筋肉だけでやっていけるほど流浪の暮らしは楽じゃない。
遠くに流れる川の音を聞き取って渇きから逃れるような事は日常茶飯事だ。
この距離では面と向かって言われてるのと変わらん。
それにしても……へえ、私も捨てたものではないんだな」
自慢げに胸を張るディナリスに対してバツが悪そうに手に持った肉にかぶりつくジルベール。
主従の関係というよりも歳上の手練れの女にからかわれる不器用な少年という構図になっていた。
だからだろうか。
二人の間にある空気に粘り気のある甘さが漂い出したのは。
食事を終えた後も残った肉を保存食にするために焚き火は燃え続けている。
暖を取るために焚き火を間に挟むようにしてジルベールとディナリスは横になった。
地上とは比べ物にならないほど冷え込む夜。
ディナリスの背中が震えているのを見てジルベールは、
「寒いのか?」
と尋ねるが、
「心配無用だ」
と短く返され言葉は途切れる。
だが、ジルベールはディナリスの背中を見つめ続けていた。
触れたくて、欲しがって。
彼女に気づかれないよう手を伸ばす。
だがその手は届かせない。
心の中の浅ましさと臆病さで独り相撲をとっていることに苦笑するジルベールだったが……
「女の口説き方は英才教育に含まれなかったのか?」
不満そうに頬を膨らませてディナリスはジルベールに向かって寝返る。
ギョッとしたジルベールが顔を逸らそうとするが許さない。
飛びかかるようにして彼の腰に跨り、肩を押さえつけた。
「あなたは国を出ても変わらないな。
欲しいものを欲しいと言えない。
臆病で男らしくないお方だ」
「……分かっているさ」
「なら少しは改めたらどうだ?
好き勝手やるんだろう?
私たちを……使ってさ」
ディナリスの長い指がジルベールの髪を撫で、頬をなぞり、耳に触れた。
「ちょ……ちょっと待ってくれ!」
「随分冷たくなっているな。
暖めてやるよ」
ジルベールの言葉を無視して、耳に噛み付くディナリス。
「いっ?!」
ジルベールの身体がビクッ、と跳ねる。
勿論、痛みを感じない程度の甘噛みだ。
荒っぽいながらも彼女なりの愛撫だったのだが————
「う……うわぁああぁっ!!?」
弾かれたようにジルベールは体を起こしてディナリスを突き飛ばした。
尻餅をついた彼女を見てすぐに「しまった!」と思ったジルベールはすがるように跪く。
「すまない! これは、触られたくないとか嫌だとかじゃないんだ!
これは……」
耳を噛まれた時、悪夢のような記憶がフラッシュバックした。
それは、ジルベールが彼の妻フランチェスカに無理やり犯された記憶。
追放される少し前。
不貞を暴かれ誅伐を加えられたことを恨みに持っていた彼女は、牢屋で拘束されていたジルベールを嬲るように犯し、子種を搾り取った。
『あなたの子供が産まれたらもっと酷い目に遭わせてあげる』
事が終わった後にそう言われた彼の絶望や恐怖は筆舌に尽くしがたい。
ディナリスに耳を噛まれて性的な興奮に紐づいていたその記憶が呼び起こされた。
だからパニックを起こしかけたのだが、
「これは…………」
そんな事、口にできるわけがない。
羞恥と罪悪感でみるみる顔が青ざめていくジルベール。
もし、ディナリスが傷ついて身を引いてしまっていたら?
あるいは怒って理由を追求していたら?
二人の関係は発展を望めないものに成り下がっただろう。
だが彼女は賢く、長年の流浪の旅の中で培った経験から人を見る目に長けていた。
ジルベールの身に何があったのか、大まかに察してしまったのだ。
そして、悲痛な瞳をした脆く傷ついた少年を突き放すことも追い詰めることもできないくらいに情が深い。
座り込んだまま、長い亜麻色の髪をかき上げると、手を前に突き出し、余裕ぶった笑みを浮かべて、
「じゃあ、まずは抱擁からだ」
と誘った。
ジルベールは戸惑いながらも無防備に開かれたディナリスの胸に引き寄せられ、二人は結び合うように互いの腕を背に回した。
「ふぅん……細いけれどちゃんと男の身体だな」
「お世辞は言わなくていい。
自分の身体が魅力に欠けることくらい知っているんだ。
母上譲りの顔だって右目の周りは火傷で傷物にされている」
自虐するジルベールの顔をディナリスは指で掴む。
「初めて会った時から美しい男だと思ってたんだ」
先刻、つぶやいた言葉をお返しされたジルベールは恥ずかしがりつつも、胸に熱いものが込み上げてきた。
「ディナリス……抱いていいのか?」
「ん……」
「俺は……もう王ではないのに」
「見た目も性根も生き様も、今まで会ったどんな男よりも上等。
ずっと狙っていたから、ここまでやってきたんだ」
両手をジルベールの頬に当て、潤んだ目で彼の瞳をまっすぐ見つめる。
「好きにしていいんだ。
私がジル様のこと……好きなんだから。
何をしたって、許してあげる」
これが殺し文句となった。
父王が若くして亡くなったためジルベールは15歳で即位することになり、碌な異性関係を味わう機会がなかった。
思春期に衝動を抑圧された事に対する反発と国王ではなく一人の男としての承認欲求からずっと異性からの愛情を求めていた。
だが、レプラは姉としての距離を崩さず、妻フランチェスカは最初から歩み寄りを見せなかった。
ディナリスは初めて女として彼に向き合い、そして受け止める姿勢を見せた。
持て余すたびに押さえつけてきたジルベールの情欲が溢れ出す。
「ディナリス……!」
「うん、おいで」
鎖を千切ったケダモノのように、ジルベールはディナリスを押し倒し、覆い被さる。
悶えるようにお互いの身体に触れながら、長い長いキスを交わし、ふたりは溶け合っていった。




