第十六話 胸の熱を抱いて
シウネ・アンセイルは王都の下層階級出身だった。
飲んだくれの父親と二人暮らし。
母親は彼女が5歳の時に病気で亡くなった。
生活力のない父親を見て「こんな風にはならないぞ」と下層階級を抜け出すために学びを重んじた。
才能あふれる彼女に援助と環境を与えてくれたのは王国の福祉制度だった。
聖オルタンシア王国の王都は世界屈指に栄えた都市であり、非常に教育・文化水準が高くまた秀でた人材に対しての優遇が厚かった。
その方針を引き継いだジルベールは成績優秀者向けの奨励金制度を拡充。
下層階級の身でありながら王国教養大学という最高学府にまでシウネは進学し、さらに給金まで得ることができた。
自分の人生に活路を与えてくれたジルベールにシウネは出会う前から感謝していた。
実際に対面した時には自分とほぼ同い年の少年が国政のトップに立ち堂々たる振る舞いをしていることに感銘を受けた。
また自分のことを高く評価してくれている彼に対して期待に応えたいという想いは募った。
度重なる苦難に見舞われるジルベールを見つめ続けてきた。
憧れた王が一人の人間であることを知り、支えるためにできることを探し続ける日々。
学者として思考を生業とするような彼女にとって、自分の思考領域を常に埋め続けている存在が特別なものであると気づくのに時間はかからなかった。
その感情に名前をつけることが出来なかったシウネを後押ししたのはジルベールとディナリスが肉体関係を持ち始めたことだ。
聖オルタンシア王国においては中間層以下の階級においては一夫一妻制を適用している。
故にシウネの価値観として男が愛を注ぐ女は一人だけというものが根づいている。
まして彼女は色恋とは縁のない生活を送っていた。
ジルベールの胸にディナリスが抱かれている限り自分の恋慕は片想いを超えることはないと考えていた。
「ジルベール様……」
新築した自宅のベッドの上で下着姿で寝転がるシウネ。
一人暮らしにも関わらず彼女は特別に一戸建てが充てがわれているが、ベッドの下は本や紙資料で溢れかえっていて、荒んだ生活を思わせる。
船の解体計画が始まってひと月。
住民の移住計画は着々と進行している。
シウネ発案の集合住宅も次々に完成しており、予定より10日ほど早く全ての住民に住居を与えられる見込みだ。
仕事では成果を上げながらも彼女の気分は重かった。
夕刻ごろ、ジルベールは護衛を申し出るサリナスを追い返し一人森に向かい、日が沈んでしばらくしてから彼は一人で帰ってきた。
スッキリしたような満足したような幸せそうな顔からディナリスの家に転がり込んでいたことは明白だった。
その様子を見てしまったシウネは妄想する。
ジルベールの細くて長い指が体に這わされ、整った唇が相手の唇を求め押し付けられることを。
美しく整った姿形をしたジルベールがケモノのように息を荒くして男を以って女を従える光景を。
それは絵画のような芸術性と戦争のような暴力性が混在していて、シウネの胸を焦がした。
私がなりかわりたい……
欲しがられたい。
求められたい。
犯されたい。
愛されたい。
心も身体も全部捧げさせてほしい。
でも叶わない。
今まで恋も愛も知らずに来た自分は新兵のようなものでディナリスさんは歴戦の猛者。
だからあんな風にジルベールさまを夢中にさせられたのだ。
恋を知らなければ恋の仕方を学べないという仕組みはどう考えても理不尽だ。
シウネはこの矛盾に対していつものように解を求めようとはせず、諦めて吐き捨てた。
コンコン、とドアがノックされた。
あまり頭の回っていなかったシウネは不用意にドアを開けてしまう。
「……し、シウネっ!?」
「は………………あ、」
玄関先に立っていたのはジルベールだった。
「ひぇぇぇぇぇぇぇっ!!?
ジ、じ、ジルベーっ————」
「お、大声を出すなっ!!」
ジルベールはシウネの口を手で覆うともつれ込むようにして家の中に入り、扉を閉めた。
彼としては夜分に申し訳ないことは承知で訪問したのだが、現れたのは下着姿のシウネで、その上大声を上げられたのだ。
後ろめたいことは何一つ無いのだがさしもの彼も混乱した。
ドタドタと音を立ててもつれ合った二人。
木張りの床にジルベールは手を突いて体を支え、その隙間にシウネが収まっている。
「ジ、ジルベールさま……こ、これはどういうことでしょう?」
期待と羞恥の混じった瞳で訴えかけるシウネだったが、
「書物を借りたいと思って来たのだが」
「ショモツ?」
「ああ、今日狩りをしていたら見慣れないモンスターがいてな。
ディナリスも知らんというし、そなたならばと」
「あー……なるほどなるほど。
お任せくださいな。
こんなこともあろうかと古今東西のモンスターについて書き記したモンスター大全全四篇を持って来ております。
もしそれで足りなければ別の方向からのアプローチも」
「うん。分かった。それはいいから、その上着を着てくれないか?」
ジルベールは申し訳なさそうに口元を押さえて顔を背けた。
この時シウネは自分が下着姿だということを思い出した。
スカートを履き、カーディガンを羽織ったシウネはぬるいお茶を淹れてジルベールに差し出した。
「ありがとう」
と口にするジルベールは散らかった部屋の中にあったモンスター大全なる書物に目を通している。
「見つかりましたか?」
「いや……どうだろうか。
この本、情報の量は多いが信憑性はどうだろうな。
よく見るモンスターの挿絵は写実的だが目撃情報の少ないモンスターは抽象的というか、想像で書いているだろう」
「そう! そうなんですよぉ〜。
というのもこの本は王都の学者が大学内の資料をかき集めて編纂したもので、直接モンスターを見たり、目撃者の証言から姿を起こしたものではないんです!」
「いわば総集編ということか。
勿体無い。辺境で実際にモンスターと戦っている者達から情報収集すればもう少し内容の精査もできるだろうに」
「おっしゃる通り!
とはいえ、王国教養大学内の蔵書の中でもモンスターに関わる情報量が最も多いのがこれなんです」
シウネの気持ちは沸き上がっていた。
ジルベールに頼られ、力になり、同じ話題で共感し合えるこの時間に喜びを覚えているからだ。
「よろしければリファレンス致します。
それの中身は頭に入っていますので」
「本当か!? つくづく凄まじいな、そなたの頭脳は」
ジルベールから向けられた手放しの賛辞にシウネは照れて顔を赤らめる。
「そ、そんな大したことじゃないですよぉ……
これしか取り柄のないつまらん女でございますから」
「謙遜するな。
そなたの頭脳は王国史上最高峰のものだし、そもそもお前の取り柄はそれだけでなかろう」
「へっ? 他には————」
「おっと、話を進めようか。
あまり夜遅くまで邪魔するのも申し訳ないからな」
シウネの問いをかき消し、やや急に話を戻したジルベールは彼女に自身が目撃したモンスターについて語り出した。
「あと考えられるのは二巻の226ページにあるコーンレオですかねえ……
額の間に角がある」
「いや……獅子の額から突き出していたのは蛇だ。見間違えではない」
「そうは申されても額に蛇を飼っているモンスターなんてねえ。
蛇が共生や寄生しているのだと思いますけど……新種かもしれませんねぇ。
できるなら実物を見てみたいものです」
知的好奇心に目を輝かせるシウネを見てジルベールは微笑んだ。
「そなたは好きなのだな」
「えっ!?」
「学ぶことが」
「え……ああー……はい」
ジルベールの唇から溢れた『好き』という音を拾って幸せに浸ったシウネは取り繕うように言葉を探す。
「もっとも勉学なんて腹の足しにもならないのに馬鹿げてる、とクソ親父には罵られていたものです」
「あの御仁か。たしかに仲が良い風には見えなかったな」
「もちろんですよ。
飲んだくれの甲斐性なしで娘の金で暮らしているような輩ですから。
今頃、のたれ死んでいるのかもしれませんね」
フン、と鼻息を吐いた彼女を見てジルベールは複雑そうな顔をする。
「それよりもですね。
今、ふと思い出しましたよ。
額に蛇のついた獅子型のモンスター」
「まことか? 何ページだ?」
「あー、それには載っていません。
というか、モンスターという分類が正しいかどうか……お待ちください」
シウネは椅子を引っ張って本棚の一番上の段に入った本を引っ張り出し、さらにその奥に隠すように置かれていた古めかしい本を取り出す。
表紙には皮が使われており、年代物であると同時に高給なものであったことが窺える。
「なんだ、その本は?」
「これは……ちょっとジルベール様にお見せするのは気まずいんですがね。
プレアデス教の聖典です」
「何故、気まずいんだ?
聖典なら俺でも頭の中に叩き込んでいるが」
「あー、だから気まずいんですよ。
なぜならこれは国教会が禁書指定している旧式の聖典なので」
「旧式……100年以上昔の聖典ということか?」
聖オルタンシア王国の国教はプレアデス教という多神教である。
空の星々を崇めるこの宗教において神の代行者や見守り人とされる聖人たちの言行録が聖典であり、かの宗教の基本理念や倫理観を記した拠り所とされるものである。
「オルディン猊下は異端派や派生した邪教を取り締まるために活版印刷により廉価に大量に刷られた聖典を世界中にばら撒くと同時に、旧式の聖典の使用を禁じました。
要するに異端の書とされるものの一つです。
ジルベール様のお目に入れるのは憚られますが」
「構わん。国王を辞めさせられたのだから同時に国教会の祭祀長の座も降ろされているだろう。
そもそも国教会の天地解明の詔を覆してこの地にいるんだ」
「言われてみればそうでしたね。
で、話を戻しますがここに額に蛇がついた獅子の描写があるんです」
「聖典にか……教徒として不信心かもしれないが、記録としての信憑性は低いだろう」
「たしかに歴史学者のほとんどは聖典は証拠資料になり得ない、とバッサリ切り捨ててますね。
あくまで参考に」
ふむ、と息を吐いてジルベールはシウネが示した箇所を黙読する。
『両の目の間から生えるのは毒蛇の首。
腋より覗くは山羊の頭。
神の作りし命の中で出来損なったものを混ぜて作られしは合成獣。
悪しき妖精はキマイラを使って人を襲う。
自らの叡智が人に勝ると宣うように』
訝しむような顔でジルベールはパラパラと聖典の他のページを捲る。
「これは異端の書というより、怪談の類ではないか。
妖精が人を襲うなどと」
「実際に襲われた方が何をおっしゃられているんですか」
鋭いシウネのツッコミが刺さったジルベールは唸りながら口を開く
「山羊の頭は生えていなかった。
だけど複数の生命が結合したものがキマイラとするなら、間違ってはいない」
「共生ではなくそもそも融合している……それは常識の範囲外ですね。
多頭のモンスターはいますよね。
ヒュドラやオルトロスみたいな。
ですが、それらの頭は同種族のものでこれに描かれているような別種族のものではないです」
「どう思う? そなたはこの文献を信じるか?」
「うーん、半分ってところですかね。
昔はモンスターの事を学術的に研究している人は少なかったですし、空想上のモンスターとしてキマイラを書いたのかもしれません。
それがたまたまジルベール様の見たモンスターと相似していただけ、という可能性もあるでしょう。
ですが、そのモンスターとキマイラが同一の生物だとしたら、この旧式聖典の信憑性が跳ね上がります。
この地の謎を紐解く鍵となり、私たちの道標になることでしょう」
芝居がかった言い回しでシウネはジルベールの興味を煽る。
「面白そうだな。分かった。
キマイラの件については結論は保留だ。
捕らえることができればそなたに見せよう。
それからこの本は貸してもらっていいか?」
「構いませんよ、すでにココに収めておりますので」
シウネは自分の頭を指さす。
ジルベールはふっ、と微笑すると、
「そなたは実に役に立つな。
本当に優秀だ」
そう言って彼女の髪を柔らかく撫でた。
瞬間、シウネの体に電気が走った。
「へ!? 陛下っ!?」
思わずかつての呼称である陛下と呼んでしまうほどに彼女は冷静さを失い、顔を真っ赤にして立ちすくんだ。
「……おっと。すまないな。
ついクセで……」
詫びるジルベール。
彼はジャレついてくる恋人にそうするようにシウネの頭に触れてしまった。
ここに来る少し前までディナリスの家で彼女にそうしていたように。
「あっ……はぁ、いえ……だ、大丈夫ですぅ……」
急速に頭に血が上り、首から上がお湯に浸かったように熱くなったシウネはフラフラとしてベッドに尻餅をついた。
その様子を見たジルベールは戸惑いながらも、おやすみ、と告げて家を出た。
取り残されたシウネは冷めやらない熱に泣きたい気持ちになってしまっていた。
「ちょっと……髪を触られただけで、こんなに……バカじゃないですか。
どうあっても、報われるはずない想いなのに!
勝てるわけないのに!」
枕をボスっボスっと叩く。
頭で考えれば考えるほど自分が非合理で滑稽なことをしていると思い知らされている。
それでも暴走する恋心を持て余してシウネは夜長を過ごした。