第十話 生還と変貌
サーシャは目の前の光景に涙を流しそうになっていた。
ジルベールが拐われた事を知っているのは船団の中でも一部のものだけであり、彼女もその一人だった。
ディナリスが無茶苦茶な手段で救出に向かったと聞いていたが、無事を祈るのは分の悪い賭けのようなもので、どこか諦めてしまっていた。
なのに彼は無事な姿を見せて、しかも自分の命を救ってくれた。
サーシャは恥じた。
自分の主君は強く、またその天運も常軌を逸している。
勝手に諦めてしまっていた自らの浅はかさを恥ずかしく思ったのだ。
「よくぞご無事で!!」
「うむ。他の者たちはどこだ?」
「森の外に拠点を作っているところです。
レプラ様やシウネもそちらに」
「そうか」
ジルベールは素っ気なく返事して背後を振り返えると、のそのそと近づいてくるディナリスの姿があった。
「ディナリス殿! お手柄でございますね!
まさかあんな無茶苦茶な方法で上手くいくとは!」
サーシャは大袈裟なくらいに声を張り上げてディナリスの功績を労う。
が、彼女は反応せず俯いたままだ。
ジルベールは静かに問いかける。
「……もう、俺に追いつくほどの余力も残ってなかったのか」
ディナリスの口元が少しだけ緩み、喋り出す。
「緊張の糸が切れたってヤツだな。
多分、大丈夫だ。
ヤツは追ってきていない」
「過保護過ぎだ。
もっと早く警戒を解いていれば」
「結果論はよしてくれよ。
私が威嚇気味に気を放って無ければ追撃されていたのかもしれないんだ。
……ま、あなたを侮りすぎていたのはたしかだな。
ナイフ一本でソイツを狩れるって、大したものだ」
そう言ってディナリスはジルベールの頭を撫でた。
ジルベールは歯噛みして、
「お前の足元にも及ばない……」
と悔しそうに呟く。
神経をすり減らしボロボロになっている彼女の姿にジルベールは不甲斐なさを痛感させられる。
彼女と肩を並べられるくらい強ければ、と思わずにはいられなかった。
「ホント、バカがつくくらい生真面目で……綺麗だな。あなたは————」
糸が切れるように倒れ込むディナリスをジルベールが抱き止めた。
サーシャが声を上げて取り乱す。
「ディナリス殿!? お怪我を!?」
「怪我はしていない。
過労だ。不甲斐ない男を守ろうとした結果だ」
意識を失ったディナリスを抱き上げたジルベールはサーシャに連れられて、森を脱出した。
「ジルベール様が戻っていらっしゃったぞ!!」
海岸からほど近いところで掘立て小屋を建てている男たちや食糧の加工を行なっている女たちが群がるようにして声の聞こえた方に集まっていく。
情報統制はされていたが、陸地についてから一度も姿を見せないジルベールの安否は皆が心配することであった。
どういう経緯でジルベールが森の奥に行っていたのかも分からない。
ただ、一部事情を知っている人間の弾む声と久しぶりにご尊顔を拝謁できることに酔わされるように2000人の民は色めきだった。
元々、ジルベールを慕って集まった者たちなのだから当然の反応とも言える。
「ジルベール様だっ!!」
若い男が通る声で叫ぶと歓声が上がる。
婦女子に至ってはキャーキャーと黄色い悲鳴すら上げている。
だが、現れた彼の姿を見て人々は息を呑んだ。
モンスターとの戦闘や野宿を繰り返し、身体も服も泥や傷で汚れ切っていた。
特に狙撃者から狙われてからの道中のストレスで顔はこけ、目はギラギラしている。
そして、何よりも大衆の気を引いたのは彼が両腕に抱えたディナリスの姿だった。
恵体である彼女の肢体を華奢なジルベールが優しく抱き抱えている。
童顔で姫と見紛う美貌の貴公子————というのがジルベールの容姿に対する形容だったが、今歩いてくる彼には内に秘めた獰猛さや逞しさが滲み出している。
彼の元に集まった人々の群れは彼の通り道を開けるため自然と二手に分かれていく。
それは聖典の一説にある海を割って間を歩いた亜神の如き様相だった。
ジルベールは何も言わずに人々の間を通り過ぎ、浜辺から小舟に乗って沖に停泊させている大型船に向かっていった。
「今の……本当にジルベール様ですか?」
宮廷料理人のエミリーは驚きを込めてそう言った。
ジルベールが幼少の頃から王宮勤めをしており、その成長を見守っていた人物の一人だ。
その彼女にとってもディナリスを抱えて悠然と歩くジルベールの姿は今まで見た事がないほど荘厳で迫力があるものだった。
「でも、素敵だったわぁ!」
「わかります! お美しさの中に危険な殿方の香りが漂っていてとてもセクシーですわ!」
ジルベールを恋い慕う元貴族令嬢達は色めきだった。
愛人志願と自ら名乗り、ジルベール目当てで亡命についてきた彼女達にとっては美貌に加えて色気を放ち始めた彼の変貌は嬉しい誤算である。
「アレは…………ヤったな」
「ああ。娼館に連れて行った後の新兵があんな顔をしていた」
王宮の警備兵を務めていた中年の男達は下世話にもジルベールとディナリスの仲を勘繰った。
大正解である。
「やっぱ王妃と不仲というのは本当だったんだなぁ」
「案外手も握らせてくれなかったりしてな。
アレは性悪女だよ。
俺も落とされた扇子を拾い上げたら『貴様の手に触れたモノなど触りたくもない』とか言われてさ」
「うわ、キッツイなあ……
世継ぎに恵まれなかったのはそういうことか」
「何はともあれ……ジルベール陛下、童貞卒業おめでとうございます!」
彼らは生暖かい目でジルベールを見送った。