それからの50年なんて、ほんと掃き散らすようなもの
ここ数年で身内が大勢死んだ。わたしと妻の両親を含めて親しい親族が8人死んだ。その中でもいとこの死は前触れのないものだった。
そのひとは二つ年上であった。連れ合いの具合が悪くほかの心労も多かったし、本人の入退院も一度や二度ではなかった。それでも、遺児となった二人の男の子から電話で「母が、昨晩亡くなりました」と聞かされても、その声が言葉に変換するまでにしばらくの間があったように思う。
どこからと決めつけるものは何もなかったが、母がが亡くなってからの往来は、あまり行わなかったように思う。向こうから寄越すことがないから此方も出向かない。そうした往復が続くうちに尻すぼみになっていく。
お互いそんな時間が何年という単位で降り積もっていく。
何もうちに限ったことじゃない。どこのだれだって齢を取れば縁遠くなる。それを否定する気までは起きなかったが、連絡を受けて車を走らせてる間中、彼女は遺体に変わってしまった、ふたつしか変わらないのになんてむごたらしいことかと、何かがふつふつと沸きたぎっていた。
お互いに一人っ子だったのだ。
おばが5人もいるのに、いとこは彼女ともうひとり関西にいる真ん中のおばの子の2人だけ。社交性のない母と往来のあったのは亡くなった彼女の母だけの、もともとが縁の薄い一家だった。
おばさんは、夫の死別、再婚、離婚と、順に並べれば波乱万丈の人生を親娘ふたりで生きてきた。でも、それは、あとになって遡って並べた系譜でしかない。わたしの記憶は、先の夫と死別し、ふたり暮らしを始めた親娘が住み出したアパートに母と二人で訪ねるところかた始まる。
それは、わたしが保育園へあがる前の「記憶の緒」として残っている。
保育園から帰ってきた彼女が外階段を登ってくるのを待ち受けている。手すりを掴んで一歩一歩あがってくる橙色の帽子を被った顔が近づいてくる。保育園が終わるまでの長い時間、わたしはずっと待っていたらしい。お隣の同じ未就園児の男の子と遊んでいたのは覚えているのだが、うじうじした内弁慶のわたしは、いとこの帰りを待ち望んでいた感覚しか残っていない。
その男の子の「遊び相手」と別れがたい様子は覚えているのに、いつものように知らない子と遊んでいてもすぐに親の影に隠れたりしたのだろう、そんな気恥ずかしさが邪魔してか、その男の子の顔は黒い楕円の中に隠れている。
だから、縁が崩れず残っている記憶の映像は、その一枚だけだ。
こうして急な死に顔と対面すると、その間に、子どもの時の思い出だけを挟んだってもっと随分あってもいいはずなのに、送り出すのはその一枚だけ。湧き出すものはそれよりほか上がっては来なかった。
死んで終わりにしてしまった顔を目にすると、知らない男の子とずっと遊んでいた「裸ん坊」の恥ずかしさ切なさを救ってくれたあのときの顔、階段から上がってくるあの笑顔に比べたら、それからの50年なんて本当に掃き散らかせるほどかすかなものに感じられる。
その死に顔に、わたしが正直に対峙できるのは、親の影に隠れていた内弁慶の顔だけなのかもしれない。