肝胆相照
二人で外食。二人っきりとは嶋山さんと一緒に過ごす時間。そんな外食に特別な意味は無い。だから高級フランス料理店をわざわざ予約したのも普通のことである。私を救いあげてくれた天使へのお礼だ。むしろこれくらいじゃ足りないだろう。
少し落ち着け。
何十万もしそうなシャンデリアの下でワインを掲げる嶋山さんを想像する。その微笑みの先にはもちろん私がいた。ちょっと気を抜くとその場で飛び跳ねてしまいそうになる。その約束が決まってからの私は馬鹿みたいに自分の肩を抱きしめ部屋中を転がっていた。何度もスマホの画面を見ては約束が虚像では無いことを確認する。完全にはしゃいでいるではないか。こう見えてもお仕事に身を捧げる大人なのですが。
いやだから落ち着けって。
「ああ〜!無理、緊張する〜!」
頭を抱えてソファに脱力する。その途端、右からストレートに平手打ちが飛んできた。急な出来事に私の役立たずな反射神経は動いてくれない。
「いったぁ!?ちょ、お母さん何してんの!?」
「なんか目の前でうるさかったから」
「実の娘を鬱陶しい蚊みたいに扱わないで!?」
まだじんわりと痛みを主張する右頬に手を当てる。目を潤ませながら母に抗議した。これが虐待に当たらないというのなら私は総理大臣を訴えるだろう。無関係の総理ごめんなさい。
「あんたが蚊ならとっくに蚊取り線香でも焚いてるわよ。まったく、いつになったらこの子は家を出て独り立ちするんだか…」
「今年の夏は雨ばっかで蚊すらみかけないもんんねー。たまに知らずに刺されてるけど、太ももの裏が痒いったらなんのなんの」
ほんと嫌になる。早くジメジメと身体を侵食していくような梅雨からおさらばしたい。そんなことをぼんやり考えている間も母からの攻撃は止まらない。「話をそらさないのー」んぎぎ。自慢のモチモチほっぺを母に虐められながらお役御免の頭を働かせる。
家を出てく、かぁ。一人暮らしも別に嫌なわけじゃないんだけど家事とか毎日ご飯作ったりとか面倒くさ…大変そうだしな、と楽な方向へ思考が泥沼に浸かる。抜けません。
「それに私がいなくなったらお母さんも寂しいだろうし?」
「あんたが居なくなれば占拠されてるテレビで韓国ドラマ見放題」
「そんなことのために私を追い出そうとしてんの!?」
無慈悲な母である。でもまぁ、私もそろそろ真剣に悩まなきゃいけない時期なのかもしれない。本当は前の彼女と結婚して二人で住もうだなんて決めていたんだけどね。プロポーズもさせて貰えなかった。
「あ、今日夜ご飯いらないや。外で食べてくるから」
「あらもう次の人出来たの?ちなみにどっちなの?」
どっち、とは性別の事を聞いているのだろう。そういうのを足踏みせず聞いてくるところが母らしいというかなんというか。
「そういうのじゃないから!女の人、ただの友達だよ」
嶋山さんとはただの"友達"だ。その事実はどこまで伸ばしても平行線。確かに胸を昂らされたことは何度か経験したがそれはあんな状況での吊り橋効果に過ぎない。嶋山さんは私の中であくまでも天使であり続ける。天使に恋はしないでしょ?
「じゃあ行ってくる」
「はいはーい」
ソファで横になりながら韓国ドラマを見る母がヒラヒラとこちらを見らずに手を振ってくる。私がいなくても見放題じゃないそれ?
『今からそちらに伺いますね』
少し業務連絡っぽいかなとも思ったがそのまま送信した。さあ、行きますかと大きく一歩を踏み出した時だった。踏み出しはしたのだがそのまま足は宙を滑る。家の前のアスファルトに容赦なくお尻を削られた。
「っ…たぁ!なに!?」
昔から運が悪い自覚はあった。私が危険に足を踏み入れてるのではない。危機が私に向かってくるのだ。こんな体質なのもあってか朝のニュース番組でやっている運勢や雑誌の星占いなど信じたことも無い。なにがラッキーアイテムじゃい。ついこの間ラッキーアイテムのはずのキーホルダーを身につけていたら裸足で踏んでしまい流血沙汰になったの覚えてるからな。アナウンサーの顔を思い浮かべては関係の無い不満を述べる。
「同窓会?」
私を転ばせた原因の封筒を開けると高校の頃から仲のいい友達からだった。どうやら近いうちに高校のメンツで集まって飲み会をしようと言う話らしい。今の時代に紙で招待が来るのも珍しい。それは前カノの結婚招待状を想起させた。
「気を取り直して…レッツゴー!」
ここまで不運な自分が生きていられる理由は多分このポジディブな性格だからだろう。
「おじゃまします!」
「邪魔するんやったら帰ってー」
「あいよ〜、っそれどこかで聞いたことあるやつ!」
嶋山さんから屈託のない笑みが向けられる。ほわほわとした雰囲気と共に人懐っこい顔立ちで、背丈も私より幾分か低いからだろう。まるで年下と接してるみたいだ。母になったり後輩になったり色々と忙しない人だな。そう言えばお歳はおいくつなのだろう。
「可愛いことしますね」
「ふふ、こういうの一度やってみたかったんです」
確かに歳を重ねてからはこういったなんでもないようなやり取りも減った気がする。それが大人になったという証拠なのかもしれないが。あとうちの母は対象外。
「こちらにどうぞ」とカーペットの上に置かれたクッションの上に誘われる。そのクッションは嶋山さんのスマホに付けられたキーホルダーと同じキャラクターだ。だからなんだよこのおっさん。
机の上に二人分の紅茶を準備した嶋山さんに礼をいい、そのクッションを踏み付ける。なんか罪悪感。
「あれ、猫なんて飼ってましたっけ?」
昨日上がらせて貰った時には見かけなかった。真っ黒な毛並みがとても綺麗で思わず撫でようとする。逃げられた。
「昨日拾ったんです」
一瞬耳を疑った。拾ったって、この子を?大雨の中で見つけた『拾ってください』のダンボールがフラッシュバックする。もしかしたらあの時のかな。黒猫は我が物顔で嶋山さんの膝の上で包まう。それを撫でる嶋山さんの半袖から覗ける二の腕はとても細かった。撫でられている子猫は気持ちよさそうに目を閉じている。少し羨ましい。
「どうかしました?」
嶋山さんが顔を覗き込んできたので、自分がどんな顔をしているのか悟ってしまう。「なんでもないですよ!」と手を横に振った。顔が近い。柔軟剤だろうか、とてもいい匂いがする。
「そういえばこの子、名前なんて言うんですか?」
「実はまだ決まってないんです。ずっと猫ちゃんって呼んじゃってて」
えへへ、とこめかみを掻く嶋山さんにドキッとする。猫ちゃん猫ちゃんと呼びながら黒猫と遊ぶのを想像したのも理由かもしれない。
「じゃあ今決めちゃいますか!あ、私はネーミングセンスが皆無なのでお手伝い出来ませんが…」
昔飼ってたミドリガメに『亀田さん』って名前を付けていたら母にも友達にも馬鹿にされた。いいじゃんね、亀田さん。
「私も昨日から考えてはいるんですけど平凡な名前しか思い浮かばないんですよね。猫太郎とか猫夫とか」
「オスなんですか?」
いやいやいや。つっこむところはそうじゃないだろうと心の中で嶋山さんの胸に右手で「なんでやねん」というポーズを決めた。胸の圧力により跳ね返されてしまったが。
…どうやら私より酷いかもしれないそのネーミングセンスに笑ってしまう。
「あ、いや女の子ですよ」
しかも女の子かーい!嶋山さんのこういった部分には天然を感じる。もしくは私を試しているのか…!?そうだとしたら一体なんの試練だ。
「それならもっと…か、可愛い?名前とかにした方がいいかもしれませんね」
「猫太郎…可愛くないですか?」
わあー目がマジだー!
「それなら、ミナとかどうです?」
「それならマシ…じゃなかった可愛いですね!いいと思いますよ」
「本当ですか?湊さんのミナ"から取ったんです」
なぜこの人はこんなにもあっさりと可愛いことをしでかすのだろう。こうして悶絶している私を見たいがための計画でないのなら相当な天然タラシだ。
「君は今日からミナだよ」と私を呼んでる訳でもないのに背中辺りがむず痒くなる。
「そう言えば嶋山さんっておいくつなんですか?」
気になっていたことを聞いてみる。女性が女性に年齢聞くのはセクハラにならない、よね?
「今年で25になります。福路さんは…?」
「今年の夏で24を迎えますよ!ということは一つ年上ですね」
やはり、なのか意外なのか。年上だと意識してしまえばもうその通りにしか見えなくなる。おっぱいでかいしな。
「私…!」
「へっ?」
急に間合いを詰められて息が止まる。周りの空気がシンっと固まったかのような時間。見上げた嶋山さんの目は真剣そのものだった。
「福路さんの事が知りたいんです!」
「私の事が…?」
「あ、いやその変な意味はないんですよ…!ただもっと仲良くなりたいな、なんて」
ああ、そういうことか。一瞬勘違いしてしまいそうになった自分を戒める。私たちは運命とまでは言わないが奇妙な出会い方をした方だと思う。私としても第一印象があんな惨めな姿のままだと多少困るところがあるし。
「では福路湊特性のクイズ…湊クイズでーす!」
「湊…クイズ?」
「ふっふっふ…普通のクイズではないですよ?」
普通のクイズである。
「私のことについてクイズ出すので答えてください!そしてその後は嶋山さんの番です!」
「面白そうですね」
もうその後はただのクイズ大会になってしまった。予約していた店の時間もうっかり忘れてしまうほどに嶋山さんとの二人っきりの時間は楽しかった。
お姉ちゃんがいたらこんな感じなのかもしれない。
お暇でしたらブクマもしくは評価など…もしくはどちらともとか…