② ひび割れた鏡 (後編)
「こっちおいでよ」
愛花は一人ぼっちで教室に残っていた加奈に声をかけた。
「…………あたしを入れてくれるの?」
おずおずと加奈は返事をしたが愛花は笑顔でそれに答えた。
「当たり前じゃん!さあ、早く!」
小学校の教師の柏木聡子は、自分の受け持ちのクラスのカギをかけに行くときにその光景を目にして、安どのため息をついた。
ずっと心配していたのだ。どうしても誰かひとりクラスからあぶれる子ができる。
力を持っている子たちと何度話をしてみても、状況はそう簡単には変わるものではない。
だがここ数か月、教室は…………いや、世の中も実に健やかに落ち着いているように見えた。
世間が共通の標的を持ったからかもしれない。そのことで、ストレスに押しつぶされ、形があろうがなかろうが他者への暴力に逃げ込んでいた者の心が癒され、思いやりの心を持つようになった。
佐藤の存在はある意味、存在意義のあるものとなった。
そして、佐藤自身のために断っておくが、佐藤は、かつての誰も自分に関心を寄せないという非常な孤独感がもたらす、鬱積する不満を覆すほどの注目の的となったのだ。
佐藤は今や世間の憎しみを一心に受け、国民の心を一つにまとめていた。毎日の佐藤の病状報告に勝るニュースはない、という日々がもう何か月も続いていた。
柏木聡子は自分がこんなにも誰かを憎むとは、誰かの苦痛を願うとは、考えたことはなかった。
自分の中にこんな醜い気持ちがあるということに自分で驚きおののいていた。
ただ…………その気持ちは、まるでいままでずっと一緒に暮らしてきた家族のように自然に実にぴったりと、ある日気づくと自分の隣に体を寄せて歩いていたのだ。
そして聡子は、自分の中のその残虐性を引き出した佐藤という存在を、結局のところその存在に支配されているということを認めざるをえなかった。
聡子はそれでも寄り添った自分の悪意を拒否するように首を振りながら、誰もいなくなった教室にカギをかけ、廊下を歩いて去っていった。
子供たちのいたずらでひびの入った廊下の鏡は、柏木をいくつにも分け、たくさんの柏木の姿をそこに映した。
数年が経ち、ある時、ひっそりと佐藤の死亡記事が載った。佐藤の医療チームの看護師の一人があまりの佐藤の哀れさに人工呼吸器を止めてしまったのだ。
それはまた、ある意味、人間としての『善』でもあり、また………単に独りよがりの思い込みでもある。
佐藤がそれを望んでいるなどと、それが真の望みなどと決めつけるのは、自由に動く体を持った者の思い上がりというものだ。
佐藤の望みがあるとすれば、かゆみがなくなること、そしておそらくは、元の体に戻ってまた同じことをしたいだけなのだから。
だが、一番のホラーは、『世間』という、この世の中の善意であり規範に満ちたはずの存在が、佐藤のニュースにもう飽き、ほとんど関心を無くし、心の奥底で、次の、自分にかかわりのない範囲で、と限定付きの、より凄惨な事件の幕開けを望んでいることかもしれない。
柏木聡子は、と言えば、そのころ海外ボランティアに志願しミャンマーにいて、現地の子どもたちの教育活動に余念がなかった。日本のその、小さなニュースに気づく由もなかった。
お読みくださってありがとうございました。