25.「普通」の対話(2)
「害霊、か……」
ラウル・パヴァリーニは、逃げ惑うほかの候補生たちを冷ややかな目で見つめ、次いで、頭上で唸る巨大な顔に、鋭い一瞥をくれた。
害霊。
またの名を、邪霊や、魔魂とも呼ばれる。
聖なる教えに背いて魔道に堕ちた者、または魔族や上級魔獣と契約した者がなるとされる、忌まわしき存在だ。
その咆哮は禍の雲を呼び、吐く息はかまいたちとなって、生者たちを傷付ける。
のみならず、彼らの放つ、引き攣った声を聴くだけで精神の均衡を崩されるという、まさに聖術師が討伐するに足る存在であった。
今回ラウルたち候補生に与えられた課題は、この害霊を封じ込めること。
聖壺に再び押し込めるならそれもよし、あるいは、存在自体を浄化――すなわち消滅させてしまえば、さらによしといったところだ。
(狙うのは――無論、消滅)
観客席から、ジーノやクロエがこちらを凝視している気配を感じる。
ラウルはそれに、唇の端をわずかに上げることで答え、深い湖のような双眸に、静かな闘志を宿した。
両手を重ね、掌を外に向けるようにしながら、掲げる。
こお……と、聖力が掌で渦巻くのを思い描きながら、彼は口を開いた。
「偉大なる名のもとに請う――」
大国ルーデンの上級導師ですら、聖力を術として発動させるには、長々と請願の言葉を唱えねばならない。
が、聖力保持量が枢機卿を上回るとまで評される「氷の聖術師」ラウルは、候補生の身でありながら、既に詠唱の短縮化に成功していた。
後はもう、術の発動方法を述べるだけだ。
「石畳に触れる者すべてを、氷の盾で遠ざけよ」
彼が端的に告げた途端、ぴきぴきぴきっと鋭い音を立てて、舞台上に一斉に霜柱が立ち、それは見る間に候補生たちの足へと這いあがっていった。
「な……――っ!」
「ど、どうして私たちを……っ!?」
ラウルに下半身を氷漬けにされた恰好の生徒たちは、驚愕に目を見開く。
そのまま、氷の波がゆっくりと彼らを舞台の外周に押し出すのを、ラウルは無表情で見守った。
「邪魔だ」
候補生同士の攻撃を躱せない程度の人間が、害霊と戦えるとは思えない。
精神の均衡を崩して同士討ちを始める前に、彼らにはさっさと退場を決めてもらうのが吉だと判断したためだった。
「僕は聖術師となり、トリニテートの権力を使って新たなアウレリアを拓く。邪魔しないでもらおう」
冷ややかに言い捨て、害霊に向き直ろうとしたラウルは、しかしそのとき、ある人物を視界に捉えて、わずかに目を見開いた。
お団子眼鏡姿の冴えない少女。
ルーデンからの留学生、エルマだ。
彼女は、ラウルの放った氷の聖術を、とっさに床から離れることであっさり躱し、氷の波が舞台上を覆った後――つまり、「床に触れない」状態になった時点で着地したようだった。
ただし、術を回避して、害霊に挑む気なのかといえばそうでもないようで、腕を組んだまま明後日の方を向き、なにやら考え事でもしている様子である。
とそのとき、控え室にいる金髪の侍女と、陰気そうな用務員とが、声を枯らして、
「エルマああああああ! だ、か、らあああああ!」
「徹してくれ!」
と呼びかける。
エルマははっとしたように顔を上げると、素早く周囲を見回し、なぜか不自然なポーズを取って大道芸人のように静止した。
「大丈夫。私も皆さんと同じように硬直しております」
唇を動かさずにそう伝えるところを見るに――腹話術のようだ――、どうやら、氷漬けになって身動きが取れないでいる候補生たちの、真似をしているらしい。
控え室の二人はがくりと壁に向かって項垂れた。
なんだか、悲哀の滲む仕草だった。
(……なんだ、あれは?)
ラウルは思わず怪訝な顔つきになったが、すぐに頭を振ると、意識を切り替える。
この少女、どうも聖力は使っていなかったようだが、自分の術を素早く回避できるくらいならば、少なくとも害霊に呑まれ、自分の邪魔をすることはないだろう。
「砂の害霊か。明確な弱点がないぶん厄介だが、……せいぜい、僕の聖術のお披露目に付き合ってもらうとしよう」
砂は、形も変幻自在。
炎系や風系の攻撃は離散することで回避し、水系の攻撃は、受ければ逆に相手に重量を与えてしまう。雷の類も効果がない。
これといった明確な対処法が定まっていないため、あらゆる攻撃を尽くして反応を探る必要があるのだ。
が、ラウルはそれを好機と捉えた。
(この聖鼎杯は、アウレリア中に、そして諸国に僕の聖力を見せつける恰好の場。あらゆる系統の力を操れることを示して、民意と、圧倒的な権力を――僕は得る!)
気合い一閃、ラウルは短い詠唱とともに、まずは閃光を炸裂させた。
「聖なる光を!」
どん……っ!
『グゥィイアあああああああ!』
轟音すら伴う強烈な光に晒されて、害霊の顔が苦悶に歪む。
あまりの眩しさに、観客を含めた周囲は一斉に目をかばった。
ラウル本人ですら、腕で庇を作り、目を細めていたが、しかし少し離れた場所にいるエルマは、腕ひとつ動かす気配もなく、静止したままである。
「…………?」
思わずラウルが不審の眼差しでエルマを見ると、彼女は「ああ」となにかに気付いたように、今更ながら腕で目をかばい、ぼそっと呟いた。
「失礼。この眼鏡、遮光効果が強いので、少々反応が遅れました」
「――…………?」
ちょっとなにを言っているのかよくわからない。
「レ……レンズは透明では……?」
「そうですね」
答えになっていない雑な相槌を返し、少女はなぜかラウルに向かって、そっと片手を差し出す仕草をした。
「あの、どうぞ私のことはただの考える葦とでもお思いになって、お構いなく続きをどうぞ」
「…………」
なんと返したものか、悩む。
が、
『ドゥア……ァアアあぁああああ!』
攻撃を受けた害霊が、我を失ったように砂塵を撒き散らし、凄まじい咆哮を上げたので、ラウルはすぐに向き直ると、素早く聖術を放った。
「させるか! 聖なる雨を!」
邪悪なる砂塵を浴びれば、物理的にも精神的にもダメージを負うことになるため、まずは雨を呼び寄せて盾代わりにする。
ざああああ……っ!
ラウルの周辺にだけ局地的に降ってきた雨によって、砂塵は泥となり、ラウルの体を傷付ける前に、じゅっと音を立てながら氷の舞台に落下した。
念のためほかの候補生たちに攻撃が行っていないかを、ラウルはちらりと視線を走らせる。
が、
「…………!?」
そこで思わず叫ぶ羽目になった。
「なぜ君の周りは、僕のところより激しく雨が降っている!?」
「え? ああ、先ほどジャンプした際に手榴弾で雨雲を刺激しておいただけなのですが……」
ちゃっかりと自分の周辺に雨を呼び寄せたエルマは、いつの間にか取り出した大ぶりの傘を差しながら、おずおずと答えた。
「すみません、どうぞお気になさらず。我々は物言わぬ貝のように、背景に徹しておりますので」
そんな目立つ背景いねえよ。
ラウルの喉元まで、突っ込みの言葉が込み上げた。
『ズァ……ぁあああァアあああ!』
が、氷の舞台に落ちた泥がぶるぶると震え、おぞましい唸りを上げながら集まりはじめたので、ラウルは今一度害霊に向き直った。
「聖なる炎とかまいたちよ、合わされ!」
今度は高温を誇る炎と、疾風を組み合わせた、攻撃性の高い術だ。
烈火の風は舞台上の氷を溶かしながら吹きわたり、集まりかけた害霊の「顔」を粉々に蹴散らす。
びゅっ! と鋭い音がいくつも響き渡り、そのたびに舞台が、壁が、そして害霊が砕けていった。
「きゃあああああっ!」
「わああああああっ!」
これには、ほかの候補生たちも堪ったものではないのだろう。
足を拘束していた氷が溶けたのを幸いに、悲鳴を上げて舞台上を去ろうとする。
ラウルは煩わしさに舌打ちしつつ、やむなく逃げる彼らの背後に風の防御壁を巡らそうとしたが――
「…………!?」
そこで、またもや目を見開く羽目になった。
「君……っ、いったいなにを使って烈火の風を避けている――!?」
「あ、ただのカーボンナノファイバー製の傘ですので、どうぞお気になさらず」
エルマは、先ほど雨をしのぐのに使っていた傘を前に倒し、炎やかまいたちの攻撃を避けていたのである。
なんの変哲もない傘に見えるのに、凄まじい勢いの炎が、風が、あっさりとそれに撥ね退けられて、エルマの前で二股に分かれてゆく。
よく見れば、ほかの候補生たちは、まるでドッジボールの際に長身の生徒の後ろに隠れるかのように、傘を掲げるエルマの後ろに、おどおどした表情で整列していた。
「カ……カーボン、なにょ……?」
「はい。軽量でありながら、おおよそすべての物理的攻撃を無効化してくれるので、大変重宝しております」
耳慣れぬ単語に舌を噛みながらラウルが復唱すると、エルマは「あ、どうも」みたいな感じで、そそくさと片手を挙げて応じる。
彼女は傘を差したまま、もう一方の手で害霊の方を指し示した。
「ついでに候補生の皆さまには、ただいま耳栓もお配りいたしましたので、精神の均衡を崩すリスクもだいぶ低減しております。我々は完全なモブとして、完全な沈黙を演じる用意がございますので、ラウル・パヴァリーニ様におかれては、どうぞ後顧の憂いなく、ヒーローの役回りを演じていただければと」
ささ、と真顔で勧められても、誰がこの局面で颯爽とヒーローぶれるんですか、という話である。
「き……っ、君はさっきから、いったい何をしている……っ!」
「ほかの候補生の皆さまと同じく、なす術もなく防戦に徹しております」
エルマはそこで、なぜか誇らしげに眼鏡を光らせた。
「聖力のひとかけらも使っておりません。なにしろ、凡人につき、あなた様のような聖力を持ち合わせておりませんので」
「それ以上に異様なことをしてのけているだろうがあああ!」
実際、観客たちの注目は、強力とはいえ想定範囲内の聖術を駆使したラウルよりも、奇抜かつ大胆な方法で攻撃を無効化してみせたエルマの方に集まっていた。
「エルマ……っ。こんの……、エルマあああああ……っ」
「もうあいつは……だめだ……」
ちなみにイレーネやルーカスはといえば、詰る言葉すら失い、がりりと控え室の壁を掻いている。
もはや完全にツッコミの心を折られてしまった二人に代わり――というわけでもなかろうが、ラウルはエルマに詰め寄った。
「いったい君はなんなんだ! さっきからいったい……何を考えている!?」
彼の質問の意図としては、もちろん「どういうつもりだ」といったところだったが、エルマは言葉を額面通りに受け取り、厳かに頷いた。
「『対話』について考えております」
「な……っ、今がどういう局面なのか理解しているのか!? くだらんことを考えるよりも、目の前の光景をよく見てみろ!」
彼の命令の意図としては、もちろん「ふざけるな」といったところだったが、エルマは言葉を額面通りに――以下略。
そして彼女は、眼鏡で覆われた顔をつと持ち上げ、攻撃に咆哮しつづける害霊を、じっと見つめた。
「ぱっと見た感じでは、叫んでいらっしゃるようですね」
「いや、そうではなく――」
「そう。そうではない。その通りですね。実際のところ、彼はただ闇雲に叫んでいるのではなく……なにかを伝えたがっている。あなた様も、そのように思われるのですね?」
「…………は?」
突然の切り返しに、ラウルは絶句した。