35.シャバの「愛」はもどかしい(5)
「あらまあ、どうしたの?」
言葉を失い、その場に立ち尽くすだけのクレメンスの腕に、ハイデマリーは優しく手を添えた。
「皇帝から大貧民への命令よ。あなたの隠している素敵な真実を、すべてさらけ出して頂戴?」
「……彼女に……妻に、手出しだけは――」
「クレメンス? わたくしは、話して、と言っているの」
久々に老侯爵が紡いだ言葉には、懇願の色が滲みはじめていたが、ハイデマリーはそれをぴしゃりと封じる。
高貴な猫のような瞳、そこにはまさに、ネズミをいたぶって愉しむような、酷薄な光が浮かんでいた。
「忘れないで、あなたはわたくしたちの玩具。あなたは命じられれば素直に語り、歌い、踊り、わたくしたちの無聊を慰めるの。そのためにここにいるのよ」
「――…………っ」
かつて人を駒としか見ず、思いのままに操ってきた彼にとっては、あまりに皮肉な状況だった。
クレメンスは恥辱に頬を染めたが、それを無理やり飲み下し、相手を睨みつけるのをやめた。
それは、肉体的にも精神的にも、今の自分が、周囲を取り囲む彼らには歯が立たないことを理解していたためであり、また、己の尊厳よりも優先したいものが、彼にはあったためだった。
が、それでも口の重いクレメンスに、呆れたような声を上げた者があった。
「――やれやれ、いつまでこの男のペースに付き合っているのですか、【色欲】。このままでは夜が明けてしまいますよ」
【怠惰】の名を持つ詐欺師、モーガンである。
日頃穏やかな笑みを絶やさぬ彼は、珍しくその若草色の瞳に冷ややかな色を浮かべていた。
彼はその出自から、もともと貴族という生き物が大嫌いなのである。
剣呑な雰囲気を感じ取った周囲は、ある者は興味深そうに片眉を上げ、ある者は思わし気に一瞥を向けたが、当のハイデマリーは軽やかに肩を竦めると、
「そうねえ」
と、蠱惑的な笑みを浮かべた。
そのまま、白く細い指先で、ついとクレメンスの頬をなぞる。
彼女は、吐息がかかりそうなほどに唇を寄せると、そっと彼に囁いた。
「奥手な殿方を相手にするときは、わたくしがリードしてさしあげなくてはね」
まさに、手練れた娼婦の発言。
彼女の藍色の瞳は、今や噎せ返るほどの色香をまとい、完璧な形の唇から紡がれる言葉は、どろりと甘い蜜のようだった。
「――…………っ」
さしものクレメンスも、体を強張らせる。
それでも拳を握り、なんとか呑まれぬよう踏みとどまっている彼を、娼婦は愉悦をにじませて見守ると、とん、と指先でその胸先を押した。
ただそれだけで、クレメンスの身体はぐにゃりと力を失い、ソファに崩れるように座り込む。
目だけを見開き、冷や汗を浮かべる彼の傍らに、ハイデマリーはそっと腰かけ、まるで虚勢の衣を一枚一枚剥いでいくように、ゆっくりと話しかけた。
「フィーネ様は、形式上はヴェルナー王から『押し付けられた』ことになっているけれど、本当は、側妃であった彼女を、あなたが強く望んだために行われた下賜だったのでしょう?」
「…………」
「家族の強い期待にもかかわらず、王の子を孕めず、あげくあっさり側妃の座を追われてしまった彼女は、ずいぶん自分の体質を責めていたそうだけれど、あなたは二回目の『初夜』に怯える彼女に、子どもは要らぬと言い放ったとか」
「なぜ……それを……っ」
誰も知らぬはずの私的な出来事まで詳らかにされ、クレメンスが衝撃に言葉を詰まらせる。
ハイデマリーは問いには答えず、にこりと二通目の手紙を谷間から取り出した。
「そうそう、それと『理知的な宰相』像とは裏腹に、新婚当初、心を閉ざしていたフィーネ様に対してあなたは毎夜のように情熱的な詩を捧げたそうね」
「いやだから、なぜそれを!?」
「ちなみに、わたくしの一押しはこれね」
ついで彼女は、鈴を鳴らすような美しい声で、情熱の詩を朗読してみせた。
恥じらうおまえは まるで妖精
薔薇の唇は たったひとつの 輝きの旋律 歌うよ
You’re singing…
宿命のように この地に生まれたふたり
そう 運命…… ディスティニー……
Yeah…… 世界に ありがとう……
「やめぬか――――!」
クレメンスは顔を憤怒の朱色に染め絶叫する。
その傍らでは、囚人たち全員が死んでいた。
短くてすみません。
なにか、ここで切っといた方がよい気がしたもので。