23.「普通」のお見舞い(2)
いつもより視点が随分低いので、エルマは自分が夢の中にいることに気付いた。
遥か頭上で葉を茂らせる木々、遠くに見える星、ときおり耳をかすめる獣の声や、感じる森の呼吸。
きっとこれは、子どものころ、実際に彼女が目にした光景だ。
いったいいつだったのか。
(……でも、監獄の外にはあまり行かないようにしていたから、……森ということは、たぶん、……数年前……)
成長に伴って、ドラゴンを一撃で倒せるくらいにまでなると、【暴食】の父イザークはよく狩りや泳ぎに連れて行ってくれたから、たぶんそのときだ。
――いや、しかしそれにしては視点が低すぎる。
もっと昔、エルマがさらに小さかったころということだ。
(……それはおかしい……【貪欲】のお兄様が、小さい子はお外へ行っちゃいけないよと、言っていたのに……)
珍しく記憶が曖昧だ。
でもそう、たしか、「兄」のホルストが自分を心配して、小さい頃は、けして外に出してくれなかったはずだ。
(……なぜ、あそこまで心配されていたのだっけ)
ふと覚えた疑問は、さあっと砂のように、思考の網からこぼれ落ちていった。
思い出せないが、まあ、いい。
だって、ホルストが心配性なのは、いつものことだ。
一番歳の近い家族であった彼は、いつもエルマと一緒に行動し、誰よりも甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
過保護な彼がエルマに与えてきた言いつけは、数えきれないほどだ。
ひとりで外を歩かないこと。
強い酒や、香りの強い花は口に入れないこと。
泣き顔や怒り顔、寝起きの顔は、「家族」以外の誰にも見せないこと。
特に瞳を見せてはいけない。
それらのときに他人がいたら、心の中で十を数えてから目を開けること。
なぜなのか、と幼いながらに疑問に思う言いつけもあった。
けれど、それが「普通」なのだと言われれば、そういうものかと頷くだけだった。
「――さあ、もう大丈夫」
ふと、懐かしい声が聞こえた気がして、エルマはきょろきょろと周囲を見回した。
誰もいない。
けれど、声はうわんと響きながら、エルマを優しく包み込む。
「もう起きても大丈夫。目を開けてごらん。大丈夫だよ、ここには僕しかいないから」
優しい、ちょっと笑みを含んだような、楽しげな声。
ああ、とエルマは、安堵の溜息を漏らし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「【どんよく】の、おにいさま……――」
目を開けてみればそこには、懐かしい兄の姿があった。
赤黒く染まった夕陽を背後に、いつもと同じ、清潔な白衣をまとって、にこやかにこちらを見下ろしている。
監獄にいるはずの彼がなぜここに、とぼんやりした頭で考えて、やがて結論付けた。
そうか、――まだ、夢の中にいるのだ。
夢であっても、大切な家族と会えたことが嬉しくて、エルマはふんわりと微笑んだ。
「うれしい」
ホルストは、そっと「妹」の前髪を撫でてやりながら、穏やかに頷いた。
「僕もだよ、エルマ」
繊細なメス捌きを見せる彼の細い指は、それからすっと、エルマの目じりを撫でた。
「怖い目に遭ったんじゃないかと、ずいぶん心配したから」
彼女の夜明け色のはずの瞳は――まるで滴る夕陽のような、深紅に染まっていた。
ホルストは優しい手つきでエルマの目を覆い、子どもに言い聞かせるような口調で諭した。
「ほら、お姫様。ずいぶん気を緩めているね? さあ、目を閉じて、十まで数えてごらん」
エルマは素直に十を数え、再び瞼を持ち上げる。
そこに現れたのは、未だとろりとしている、けれどいつも通りの、紫がかった紺色の瞳だった。
「――…………」
「解毒鎮静目的で打った薬液が、弛緩方向に効きすぎちゃったかな? 瞳のことを忘れるなんて、珍しい。やっぱ、僕の『言いつけ』なんかよりも、家に連れ帰って【嫉妬】あたりに暗示を掛けてもらった方がいいか……」
「――…………」
いつまでも夢見心地のまま、ぼんやりと視線をさまよわせているエルマを見て、ホルストは眉を寄せる。
このまま攫ってしまうか、とあっさり彼が結論づけたその時、エルマがぽつんと呟いた。
「……お兄様」
「なに? エルマ」
再び彼女を拉致軟禁しようとしている過保護な彼は、しかしその方針とは裏腹に、大層優しく聞き返す。
いや、実際彼にとっては、どちらもエルマへの愛情から生まれる行動なのだ。
大切に思うから優しく接する。
大事だから閉じ込める。
しかし、エルマが続けた、
「わたし……魔族、なのでしょうか」
その問いには、彼は即座に答えを返すことができなかった。
「……どうして、そんなことを?」
「わたし……、強い……聖水の原料となるような、お酒や、……おまじないに使う、草花の香りが……苦手、のような気がして……」
「…………」
ホルストは押し黙った。
彼が――というより、エルマの母が隠し通してきた真実が、少しずつ綻びを見せている。
それを理解した彼は、微かな動揺とともに、そうさせた周囲に対する強い苛立ちを覚えた。
なんということを。
エルマは――彼の大切な大切な妹は、いつまでも、この温かな揺りかごの中にいるべきなのに。
「……もし、そうなのなら、わたしは……滅ぼされなくては、いけない存在で……罪の子で、もしかしたら……だから、お母様は、囚われ――」
「――ふふ、おかしなことを言うね、エルマ」
だがホルストは、それらの感情をおくびにも出さず、愉快そうに笑ってみせた。
「お酒に弱くて、嫌いな花があるだけで魔族だというなら、この世はきっと魔族だらけだ」
きっぱりと、断じる。
同時に頭の中では、帰宅次第早急に【怠惰】や【嫉妬】に暗示を強化してもらうべく算段を付けはじめた。
この場でエルマに麻酔を仕込んででも連れ帰り、まずは彼らに、エルマの正体を打ち明けなければ。
いや、それよりもハイデマリーに、自分がエルマの正体に気付いていることを告げなくてはならない。
それとも、彼女はそのくらいとっくに見通しているだろうか。そのうえで放置している?
忙しく思考を巡らせていると、いまだ夢見心地のエルマが「でも」と続けた。
「……それも、いいかもしれません」
「え?」
「だって――」
彼女は小さく微笑んでいた。
「きっとそれなら、お兄様を、心配させずに、すむから……」
「――…………」
ホルストは大きく目を見開いた。
「……なんだって?」
「魔族は、強いから。簡単には、死なないというから。それならば……もう【貪欲】のお兄様を、悲しませることも、……ないでしょう?」
「…………」
完全に意表を突かれて、ホルストは言葉を失った。
エルマは優しい笑みを浮かべたまま、徐々に声を小さくしていく。
「それなら……私が、元気でいれば、……ちゃんと……お兄様の『妹』の……代わりが……――」
できるはずだから、の言葉を告げる前に、彼女はすうっと、再び眠りの世界へと落ちていった。
ホルストは寝台の傍らで、呆然と佇んでいた。
それから、ゆっくりと掌を持ち上げ、口元を覆った。
「――…………は」
零れた笑いは、かすかに震えていた。
代わり。
彼女はたしかにそう言った。
見透かされていたのだ。
ホルストが彼女に、自身の肉親を重ねていることを。
ホルストが彼女を「エルマ」としてではなく、「庇護すべき脆い妹」としてしか見ていないことを。
彼は、かつて実の妹を失ったことを、けしてエルマには話そうとしなかったのに。
「……やられたね、これは」
聡明な彼は、幼かったエルマが、自分自身ではなく、常に他者を重ねられることでどんな思いをしただろうということを、即座に推測することができた。
愛されている、大切にされている、見つめられている――けれどそれは、自分をではない。
自分をすり抜けた先の、別の誰かをだ。
切なかったろう、虚しかったろう。
なのに彼女は、そんなホルストを気遣いすらしていたのだ。
ちゃんと代わりをしてみせる、と。
「……どっちが保護者なのやら」
ホルストは自嘲の笑みを刻んだ。
かつてハイデマリーには、もはやエルマは赤ん坊ではないと諭された。
その通りだ。
幼かった彼の大切な少女は、いつの間にかホルストよりもよほど先を歩き、彼を守ろうと手を差し伸べさえしていた。
――あんたもいい加減、エルマ離れしたほうがいいわね。
ふと、直前に獄内で交わした会話が蘇る。
――あたしは、エルマを強引に連れ帰そうだなんて思っていないもの。彼女を信じているから、ね。
「…………」
ホルストはわずかに唇を噛み、寝台に横たわる少女をじっと見つめた。
エルマ。
彼の大切な大切な「妹」。
離れたのはたった二か月ほどだが、瞳を閉じたその顔は、最後に会ったときよりもずいぶん大人びたように見える。
いや、本当はずっと前からそうだったのに、自分が気付かなかっただけかもしれない。
しばらくとっくりと寝顔を見つめ、やがてホルストは溜息を漏らした。
「――……オーケー、わかったよ」
それから、ひらりと両手を上げた。
「君を連れ帰るのは、今回はやめにする。僕だって……君を信じているから、ね」
唇を片方だけ持ち上げて告げると、彼は外していた眼鏡を装着し、再び前髪を下ろして冴えない外見へと戻った。
そうして、名残惜し気にエルマの滑らかな頬をひと撫でしてから、部屋を去っていった。
と、ルーカスに言われていたことを思い出し、ちょっと引き返して、隣の扉をノックする。
すぐに出てきた彼に、ホルストは言葉少なに告げた。
「完了しました」
「ああ、そうか。ありがとう。容体は? じきに目覚めるんだよな?」
「ええ。もともと疲労していたところに、苦手な香りを嗅いで参ってしまっただけのようなので……」
適当なことを告げると、さすがにルーカスは怪訝そうに首を傾げた。
「本当か? 香りで気絶することはなかなか無いように思うし、ずいぶん長く眠っているようだが」
「はあ……。珍しい症例ですが、アナフィラキシーの一種とも取れますね。通常、アレルギーというのは、微粒の粉末状の成分を経口または経皮接種することで発現しますが、彼女の場合、特定の香りの成分がそれに該当するようで。過去に同様の症状を経験したなら、二回目以降は体の防衛反応でより強烈な症状を見せてもおかしくはありませんから。それに彼女の場合極端に嗅覚が優れているようですし。以上ご理解いただけましたか?」
面倒になって、早口ででっち上げを捲し立てる。
理論もへったくれもないが、門外漢のルーカスは、一応の納得を見せたようだった。
「……まあ、あの娘の身体の構造が、いろいろ特殊そうだということは理解できるな」
口元を歪めながらの、訳知り顔の相槌に、若干の苛立ちを覚える。
なにが、理解できるだ。
だいたいからして、大切なエルマの傍に、こういった女癖の悪そうな害虫がいること自体、ホルストからすれば腹立たしいのだった。
(まあ、こいつらが監獄に近接した森で騒いでいたからこそ、エルマのことに気づけたのだとはいえ)
ちらりと、ここに至った経緯を思い出し、一瞬はそんなことを考える。
ホルストは時折気分転換に、監獄に接する森や、そこに棲む魔獣たちの生態を観測していた。
今回、ゲーム中の苛立ちを紛れさせるべく、森を「散歩」していたら、魔蛾が一斉に飛び立った気配が確認されたのだ。
気になって現場に急行したところ、ルーカスに背負われて山を下りるエルマの姿を見つけた。
まさかの邂逅。
だが、それに躊躇うホルストではない。
すぐさま獄内に引き返して諸々の準備を整え――中には、本物の医者を気絶させ記憶を混濁させるための薬品も含む――、ようやく屋敷に駆けつけたと、そういうわけだった。
「……これもフレンツェルの因縁かな」
「なんだと?」
ぼそっとした呟きに、聞き取れなかったらしいルーカスが眉を寄せる。
その精悍な顔をじっと見つめてから、ホルストは、いかにも言い直すためであるかのように、大きく口を開けた。
そして、
「もしあの子が次に倒れることがあれば、麻酔無しでおまえらの眼球をえぐり取ってやる」
地を這うような声で恫喝した。
「…………!?」
相手がぎょっと目を見開く。
ホルストはにこりと笑うと、口調をもとに戻した。
「――というくらいの気概でもって処置しましたので……、ご安心ください」
「……あ、ああ……?」
ルーカスは引き気味だ。
正体を追及される前に、ホルストはくるりと踵を返した。
「では、失礼いたします」
そうして、さっさと部屋の前を去っていく。
ルーカスに八つ当たりを決めたことで、多少すっきりした彼は、その後いくつかの野暮用を済ませ、獄内に戻る頃にはいつもの落ち着きを取り戻していた。
「――あら、お帰りなさい、【貪欲】」
彼らの溜まり場と化している最上階の部屋に足を向ければ、すぐにハイデマリーが気付いて視線を上げる。
彼女はちょうど、持ち札を整理しているところだったのか、左手にカードを扇状に広げ、右手の細い人差し指で、考えを巡らせるようにとんとんと唇を叩いていた。
「おやまあ、相変わらずえげつないまでのカード運だね、【色欲】」
「あら、運などではないわ。努力と実力の賜物よ」
ホルストが上から覗き込むと、ソファに座ったままのハイデマリーが、いたずらっぽく彼を睨んでみせる。
妖艶な上目遣いに、しかしホルストはちらりとも心動かされた様子を見せず、それどころか、彼女の胸の谷間にすいと指先を差し込んでみせた。
「あん」
「たしかに、胸元に強い札を仕込んでおくのも、努力っていうのかな?」
そう言って、彼はぴらりと周囲にカードを見せつけてみせた。
ジョーカー。
最強のカードだ。
「ちょっとお、マリー! あんた、やっぱり仕込んでやがってたわね!?」
「あら【嫉妬】、大切にしまっていただけで、使ってはないわ?」
「身体の一部にカードを隠し持つこと自体が問題だっつーの!」
リーゼルがきゃんきゃんと吠えるが、ハイデマリーは気にした様子もない。
新入りのクレメンスが最も激しく反応するものと思ったが、それもなかった。
彼はとっくに平静を失い、追い詰められた者の形相でカードを睨みつけていた。
そこには、先ほどまで辛うじて残っていた、理性の色はかけらもない。
(おや、まあ。僕のいない間に随分むしり取られたようで)
哀れな姿に、ホルストは皮肉気に笑う。
それから、麗しい簒奪者に、せめてもの公平を期すべくこう告げた。
「ゲームにいていいジョーカーは一枚だけだ。場違いのカードは、大人しく引っ込んで、見守り役に回ろう、ね――?」
そうして、ほくそえむ悪魔の札を、びりりと引き裂いた。