20.「普通」の探し物(8)
白く小さな顔に、すっと通った鼻梁。
薄めの唇に、淡く色づいた頬、長い睫毛。
華奢な顎を、前髪から垂れた水滴が伝い、ぽたりと胸元へと落ちる。
それに気付いて軽く目を瞬かせた、その大きな瞳は――まるで夜明けを迎えた空の色。
「――…………っ、…………っ、…………」
なにか言いたい。
この美を称えたい。
けれど――魂ごと奪われてしまったように、ケヴィンは一言も告げることができなかった。
こちらを指さしたまま、ぱくぱくと口だけを動かしているケヴィンに、エルマは眼鏡を拭きつつ怪訝そうに首を傾げる。
表情から「予想外だ!!」との思いだけは読み取ったようで、いったいなにをそんなに驚くことがあるだろう、といった風にしばらく首を傾げた彼女は、ついでぽんと手を打ち合わせた。
「失礼しました、指摘されたのは衣服のほうでしたね」
なにか、そのように処理されたらしい。
エルマはためらいもなくスカートの裾を掴むと、水気を絞るべく、艶めかしい曲線を描く白い脚を惜しげもなく晒して持ち上げ――
「ままままま待ったああああああ!」
持ち上げようとして、女性陣に必死の形相で止められた。
――ぶわっ!
同時にルーカスが、素早く彼女の腕を掴み、上着をかぶせる。
彼は剣呑な表情でエルマに顔を寄せると、
「この馬鹿、十歳の坊主に道を踏み外させるな!」
と叱りつけた。
エルマはきょとんとして――その表情がまたあざといくらいに可憐で、周囲は呻き声を上げる――、「え、あ、はい……?」と素直に頷くが、時すでに遅かったらしい。
「――…………」
ケヴィンは、ぼんっと体中の血が沸騰してしまったかのように顔を赤らめ、その場にふらりと倒れ込んだ。
神ではない。
やはり神ではなく――彼女は人を誘惑し篭絡する、魔性だ。
そんな思いを、身の内で何度も何度も反芻しながら。
「あの、ケヴィン様……? 大丈夫ですか……?」
エルマが心配そうに眉を寄せ、話しかけてくる。
それを聞き取ると、今度はケヴィンはばっと立ち上がり、盛大に言葉を噛みながら叫んだ。
「だだだだ大丈夫だ! 大丈夫です! まったく問題ない! まったく! 問題ありません! ただちょっとその、なんだ、あの、…………っ」
動揺のあまり口調も定まらない。
だいたい、ずっと屋敷に籠って過ごしてきた彼は、そもそも家族以外の女性に接することすら少ないのだ。
この美しい少女相手に、なんと答えれば、一番心配させずにすみ、スマートに見え、いや……好感度を上げることができるであろうか。ケヴィンは素早く思考を巡らせた。
「そ、その……っ! や、やっぱり気分がすぐれない気がするので、薬草を取ってくる! いや、本当のところ全然大丈夫なのだが! むしろ元気なのだが! ただ、あなたも一緒に飲むと丁度よいかなと思って! 一緒に! そう、一緒に……!」
エルマのためになにかしたくて、けれど気を遣わせたくもなく、かといって心配もされたくなかったケヴィンは、結果そんなよくわからない言葉を口にしてしまう。
これ以上動揺している姿を晒したくなかった彼は、それからぱっと踵を返し、森に向かって突っ込んでいった。
「す、すぐ戻る!」
そんなセリフまでをも、思い切り噛みながら。
「――あーあ……」
一連のやり取りを見守っていたイレーネは、そっと手で目を覆った。
やってしまった。
この友人は、偏屈な辺境伯令息をも、一瞬で忠犬に変えてしまった。
デボラは「さすがエルマエル様……」と陶然とした眼差しを寄越すだけだったが、ルーカスは至極不機嫌そうである。
彼はエルマの両肩を掴み、くるりと自分のほうに向き直らせると、低い声で告げた。
「……おまえ。俺がなにを言いたいか、さすがにわかるな?」
「――…………?」
エルマは不思議そうにルーカスを見上げる。
表情から苛立ちは読み取りつつも、それが一体なにに由来するものなのかはわからないようだ。
エルマはしばらく思考を巡らせていたが、やがて「ああ」と声を上げた。
目をきらめかせ、頬を紅潮させる。
その顔には、まぎれもなく喜色が浮かんでいた。
「頂けるのですね、例の言葉を」
「…………なんだと?」
対するルーカスは胡乱な顔つきだ。
制止にもかかわらず海に飛び込み、あまつさえくじらに乗って帰還し、あげく素顔素足を見せてほかの男を篭絡してみせた彼女に、説教のひとつもしてやろうとは思えど、それ以外を期待される覚えはなかった。
が、エルマはいつになく上機嫌で、興奮気味にまくし立てた。
「まさか殿下から真っ先に、お墨付きを頂けるものとは思いませんでした。予想外に結果を出すのが速いからと、そんな苛立たしそうなお顔をなさらないでください。不肖の弟子の成長を、ともに喜んでいただけますと幸いです」
「…………なんだと?」
「え、ですから、今回のことを褒めてくださるのでしょう?」
エルマは、どこまでも無邪気に微笑んでいた。
「泳ぐのは『普通』ではないと言われたから、泳がずにおりましたし、大海原から指輪を探し出せるはずがないなどと言われたから、自分が探すのではなく、飛び魚の群れに探してもらいましたし」
「飛び魚に探させていたのか!? というかどうやってくじらや魚に頼むというんだ!?」
「え、それは普通に、頼み込んだだけですけれど」
ルーカスが全力で突っ込むと、エルマは目を瞬かせて首を傾げた。
「きちんと頭を下げて、丁寧に頼めば、くじらでも魚でもセイレーンでも、快く協力してくれるものですよね?」
主張の一部に、とんでもない単語も混ざった。
しかしエルマは「まさかシャバの方は、それくらいのこともできない、なんて言いませんよね」と朗らかにシャバをディスるだけだ。
――これは、来るぞ。
やり取りを見守っていたイレーネが、ついごくりと息を呑むと、エルマは期待にたがわず言い放った。
「海に沈んだ失せ物は、魚に探してもらい、泳ぐのではなくくじらの力を借りて帰還する。さすがにこれくらいなら――『普通』ですよね?」
努力屋の彼女の、いじらしく、健気で、かつ最強に傲慢な、問い。
ルーカスはぴきっと硬直し、イレーネはがくりとその場に崩れ落ちた。
――なにそれ……!
両者の魂の叫びが、奇しくもハーモニーを奏でる。
とそこに、
「エルマ、さん! これ! これを見てみてくれ!」
純情少年と化したケヴィンが、両手いっぱいに緑の葉を抱えて戻ってきた。
どうやら本当に、薬草を大量に採取してきたらしい。
彼は、尻尾があったなら盛んに振っているにちがいない様子で、誇らしげに薬草を突きつけてきた。
「これは、昔から我が領にだけ自生するハーブで、クローバーの仲間なのだが! 清々しい香りが魔蟲をはじめとする魔を打ち払うと信じられていて、だからきっと、あなたが浴びた瘴海水にも効果抜群で、かつ、……かつ! 愛らしい形をしたこの葉が、大切な異性を呼び寄せてくれるという言い伝えの……!」
途中からは、頬まで染めている。
完全にエルマの僕と化したケヴィンを、周囲は憐れむような励ますような視線で見守っていた。
「……幼い恋とは、なんと恐ろしい……」
ルーカスなどは、ぼそっと呟いてしまう。
瘴気を帯びた海水がなんだ。
相手はくじらに乗り、魚を使役し、なんならセイレーンまで従えようという娘だ。
その現実が見えぬのか。
「魔を祓う力にせよ、異性を呼び寄せる力にせよ、エルマが草ごときに影響されるはずが――」
ところが、そのとき不思議なことが起こった。
穏やかにケヴィンの話に相槌を打っていたはずのエルマが、ふと動きを止めたのである。
「――…………」
彼女は、きれいに拭き終えた眼鏡を掛けなおそうとしていたが、それをぱたりと地面に取り落とした。
「――……エルマ?」
なにか、様子がおかしい。
この、急に脱力し、まとう雰囲気がふわふわとしだす光景に、過去の記憶が重なって、ルーカスは息を呑んだ。
まさか。
「――……あの」
のろのろとした動きで両手を上げ、頬を押さえたエルマが、ぽつんと漏らす。
その顔は、酒に酔ったかのように淡い薔薇色に染まり、瞳はとろんと輪郭を溶かしていた。
「わたし……むかしから、なぜか……この香りが……苦手、で」
口調も、「あのとき」と同じく、どこか幼いものになる。
「エルマ、待て、おまえ――」
「大変、恐縮ではございますが」
「おい、待て、またなのかおまえ――!」
「これより、気絶いたします」
言うが早いか、ルーカスがとっさに差し伸べた腕の中に、エルマはどさりと倒れ込んだ。
そして、大変恐縮ではございますが、
作者も体調不良のため、これよりしばし、感想返信途絶えます。