10.「普通」のお手入れ(6)
予約投稿の日時が間違ってました!
1日先を生きてた…更新、微妙に遅れてすみません!
それから一時間の間に起こったことは、すべてデボラの想像をはるかに上回るものだった。
というよりは、その場に居合わせたすべての人間の理解の範疇を超えていた。
そのために、平民の侍女が、素早く部屋中のカーテンを閉め切り、眠くなるような香りを放つ灯りを整え、デボラをシュミーズ一枚の姿に剥き、香油と薔薇の花を散らした寝台に押し倒す頃になっても、誰もが呆然とそれを見守るばかりで、身動き一つ取れずにいた。
いや、いつの間にか用意されていた見学者用の小椅子に、しっかり座らされていた。
「わ……わ、わ、わたくしに、なにをしようというの……!?」
「増大・増悪したドーシャおよびアーマを体外に排出し、トリ・ドーシャの調和を取り戻します」
「は…………?」
あられもない恰好にされたデボラが、ようやく弱々しく問い詰めるも、エルマがあまりに堂々と意味不明なことを宣言するので、気勢をそがれる。
自分がなにをされようとしているのかさっぱりわからないまま、ただ少女の放つ気迫に呑まれていると――ちなみに少女は、「施術者は清潔が第一ですので」と、お団子眼鏡姿に戻っていた――、相手は、ずい、と、小さなグラスを突きつけてきた。
「まずはこちらをお飲みください」
デボラは寝台に身体を押し付けられたまま、冷や汗を浮かべてグラスを見た。
今、これはいったいどこから、いつの間に合成されて出てきたのだろうか。
突如現れたグラスの中では、どろりとした緑色の液体が揺れている。
爽やかなレモンの香りもするが、草の汁のような青い匂いはごまかしきれない。
まさか毒では、という懸念も頭をよぎり、デボラは慌てて顔を逸らせたが、馬乗りになった少女に、
「さあさ、どんどん」
くいと景気よくグラスを傾けられ、反射的にごくりと飲み下してしまった。
「――…………っ!」
その瞬間、身の毛もよだつ悪臭と味わいが襲ってくる――かと思いきや、意外にも飲み口は甘く清々しい。
さっぱりと癖のない野菜の風味に、はちみつやレモン、林檎の酸味や甘みがほどよく加わり、美味と言って過言ではなかった。
そして後味に、どこか今までに味わったことのないような不思議な余韻があった。
デボラは思わずごくごくとすべてを飲み干してから、問うてみた。
「……これはなに?」
「特製デトックス酵素ジュースでございます。代謝を高め、老廃物の排出を促す作用があります。材料としては、厳選した緑黄色野菜に、りんご、はちみつ、レモン――」
「意外に普通の材料ね」
「あとは、ミドリムシですね」
「ぶっふぉお!」
なんでもないように付け足された言葉に、思わず盛大に吹きだす。
エルマはくいと眼鏡のブリッジを持ち上げながら、
「池に湧いていたので、採集し加工させていただきました。環境がよいのか、大変けっこうな生育でして」
大層生真面目な口調で、フレンツェル家産のミドリムシの質を褒めていた。
「ミ……ミド、ミドリムシって、虫……わたくしに虫を飲ませたというの!?」
「まあ虫といいますか……まあ、虫ですかね。動植物の境界をさまよう生物であるうえに、池の環境のせいなのか、これらのミドリムシについては微量な瘴気までまとっており、通常の虫かどうかの定義も悩ましいですが」
「な…………っ!?」
無頓着に小首を傾げながらエルマが告げた内容に、デボラは顔色を失った。
瘴弱の自分が、瘴気を帯びた虫、つまり魔蟲など摂取したら、命にかかわる。
彼女は青褪め、慌てて胃の中身を吐き出そうとしたが、それよりも早くエルマが「さて」と呟くと、デボラの額をとん、と押した。
「それでは、これより施術に入ります」
「――――!?」
不思議なことに、額を指先で押されているだけだというのに、デボラの身体はまるで寝台に縫い付けられてしまったかのように、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「な…………っ」
「術は主に手技によります。今回は短期間での効果獲得を目指すため、好転反応も相応に強く迅速に展開されるかと思いますが、それらはすべて老廃物を出しきるためのものですのであしからず」
「な……、――だ、誰か……!」
淡々と説明するこの侍女の言っていることが、先ほどからさっぱりわからない。
わからなすぎて恐ろしい。
デボラは、とうとうなりふり構わず、周囲に助けを求めようとしたが、
――す……っ
滑らか、としか言いようのない手つきで、エルマが彼女の身体をひと撫でした。
途端に、まるで湖底にこびりついていた藻が、流れに押されてほどけてゆくように、心の内でくすぶっていた醜い物思いがみるみる収まっていった。
――すっ、す……っ
筋肉に、骨格に沿い、優しく撫でられるたびに、全身の力が抜けていく。
「あ……――」
気持ちがいい。
デボラは、凝っていた氷が、温かな日差しを受けて溶け出すさまを思い浮かべた。
いつも身体のどこかに感じていたこわばりが、みるみる溶けて消えてゆく。
苛立ちが、焦りが、かすかな吐き気が、重さが、すべて輪郭を揺らがせていった。
(温かいわ……)
この手だ。
ほっそりとした小さな手のはずなのに、掌はうっとりするほど温かい。
それはデボラに、幼い日に感じた母の抱擁を思い起こさせた。
フレンツェルの太陽と呼ばれていた母。
常に快活な笑みを浮かべていた彼女に抱き締められ、手を引かれ、世の中すべては光り輝いているのだと信じていたあの時代。
自分に欠けたものなどなにもなく、ただ、目の前の母のように、この聖なるぶどう畑を守っていくのだと、誇り高く畑の葉を見回した日々――。
(懐かしい……眠ってしまいそう……)
夢見心地のまま、本当に眠りの世界へと誘われそうになり、デボラの太い首がかくんと寝台に反り返る。
そのとき、ばん、と慌ただしく扉が開き、部屋に踏み入ってきた者があった。
「おい、なにが起こっている!?」
真剣な表情を浮かべたルーカスである。
彼は、昼前で一度情報収集を切り上げ、宛がわれた部屋に戻ろうとしたところ、廊下に点々と腰を抜かした使用人たちが残されているのを発見して、緊急事態を察知し、やって来たのである。
憧れの騎士に、しかも下着一枚でいるところに踏み込まれたにもかかわらず、恍惚の境地に差し掛かったデボラは、もはやそれを気にするどころではなかった。
(ああ……世界は……温かい……)
陶然とした眼差しで横になっている伯爵令嬢を見て、ルーカスはぎょっと目を見開く。
座ったまますっかり硬直してしまっている侍女軍団の中から、イレーネを見つけ出すと、ルーカスはその肩を揺さぶり、鋭く問うた。
「おい、イレーネ、しっかりしろ! いったいなにが起こっているんだ!?」
「――……はっ。殿下……!」
呆然と事態を見守っていたイレーネは、それで我に返る。
彼女が額に手を当てながら、
「ええと……デボラ様が、花瓶をガウージ痕で……エルマがぷんぷんで、デボラ様の言説を覆すべく、トリ・ドーシャの調和を取り戻しているのですわ」
もごもごと言葉を掻き集めて説明すると、ルーカスは胡乱な眼差しで「さっぱりわからん」とそれを一刀両断した。
が、彼もさるもの、二か月という期間にわたって常識圏外生命体と接してきただけの順応力を発揮し、かなりニアに迫る状況理解を披露した。
「……よくわからんが、デボラ嬢が仕掛けたなんらかの行動に対して怒ったエルマが、なにかを賭けてデボラ嬢にマッサージを施しているということか?」
「それです!」
マッサージ、という単語でまとめるには、エルマの行動は突飛だったし、デボラの表情はうっとりとしすぎているが、イレーネはひとまず頷く。
なぜなら、ルーカスと会話している間にも、事態は大きく変化していたからである。
ゆったりと、エルマは見ているだけで溶けてしまいそうな手つきで優しくデボラを撫でていたのだが、彼女がおもむろに両手を掲げると、次の瞬間、
「はぁっ!」
――ぶわ……っ!
掛け声とともに、すさまじい風が巻き起こったのだ!
「きゃあ…………っ!」
「な…………っ!」
デボラは悲鳴を上げ、ギャラリーと化したルーカスたちも腰を浮かす。
風の発生源は、エルマの手である。
人間の手であるはずのそれが、視認すらできないスピードでデボラの身体の表面を縦横無尽に撫で擦り、それにより生じた風が、あたかも竜巻のように部屋中を蹂躙しているのであった。
いや、縦横無尽――一見なんの規則性もないかに見えるその動きは、実は綿密に計算しつくされており、その指先や掌、関節の出っ張りまでもが、髪一筋のずれもなく、デボラの血流に沿っている。
手が力強いストロークを刻むたびに、デボラの中で溶け始めたものたちが、今度はすさまじい勢いで体の外へ向かって躍動しはじめていた。
「す……すごい風……っ!」
「皆の者、頭を下げろ! 座っているものは椅子の足を持ってかがめ! さもなくば持っていかれるぞ!」
ごうごうと吹き荒れる風にスカートをはためかせる侍女たちに、ルーカスが毅然と指令を飛ばす。
手近な数人をかばいながら、彼は目を眇め、風に歯向かい寝台を見つめた。
騎士として古今東西の武術や体術に精通し、動体視力にも恵まれた彼は、この場で唯一、エルマの腕の動きと、それがもたらしつつある効果を認識することができた。
脳裏では目まぐるしく大陸中の修行法に関する知識が展開され、やがて彼ははっと息を呑む。
「そうか、あれは……」
「なんですの!? いったい今、なにが起こっているんですの!?」
「アーユルヴェーダだ!」
「はっ!?」
必死に椅子にしがみついているイレーネが、戸惑いの声を上げた。
一方、寝台の上では、デボラもまた大いに混乱していた。
(な……なにが起こっているの……!?)
嵐の渦中にいるような手技。デボラは今自らの肉体に生じている未知の感覚に、ぶるりと全身を震わせる。
いや、これは身震いではない。
全身が、大地が鳴動するかのようにぶるぶると波打っているのだ。
それはまるで、地殻変動。
冷え固まって不毛な大地と化していた己の肉体――ありていに言えば脂肪――は、今まさに、神の轟かせる雷鳴のごとき衝撃によって罅を受け、内に秘めたる熱い血潮という名のマグマの突き動かすままに、頭を持ち上げんとしている。
荒蕪せる暗き大地――ありていに言えば脂肪――は、徐々にマグマの濁流に蝕まれ、呑まれ、細かな破片となりながら、やがて大きなうねりとなって、デボラの全身を激しく駆け巡ってゆく――!
デボラが脳裏に天地創造をありありと描ききったそのとき、
――かっ!
閃光を放つ彗星を思わせる素早さで、エルマが今度はデボラの秘孔を突いた。
「ああああああああ!」
デボラの絶叫にぎょっとしたイレーネは、思わず傍らのルーカスにしがみついた。
「今度はなんなんですの!?」
「デボラのチャクラが開いた!」
「はいっ!!??」