6.「普通」のお手入れ(2)
「んーっ! ようやく快適に座れるわ」
フレンツェル辺境伯の屋敷の応接間、質素ながら広々としたソファに案内され、使用人たちが茶を淹れるために去っていくと、イレーネは大きく伸びをした。
彼女の背後に控えているエルマは、とくに疲労の色は見せず、淡々と周囲を見回している。
設定として、イレーネは男爵令嬢にしてルーカスの隠れた恋人、エルマはそれをごまかすための平民の侍女仲間、ということになっているので、イレーネはソファに座れても、エルマは壁際に立ったままとなるのである。
ちなみにルーカスはといえば、この突然の訪問に目を見開いた領主ヨーナスを巧みに誘い出し、地下のセラーでフレンツェル自慢のワインを試飲させてもらっている。
エルマの洗脳技術ほどではないが、軽妙ながら嫌味のない言葉選びでするりと相手の懐に入っていく話術はなかなか巧みで、ひとまず屋敷の人間は、彼らの訪問を設定どおりのものと信じた様子である。
すなわち、ルーカスは最近の恋人イレーネとその友人を伴い、ワインで有名なフレンツェルに足を伸ばした。最初は通りすがるだけのつもりだったが、あまりにぶどう畑が見事なので、数日滞在して豊かな自然を堪能したい。
ついては、身分を隠して数日、屋敷に滞在したく、それを領主に頼みに来たと。
「人たらしよねえ、殿下って。概要だけ聞くと荒唐無稽な設定なのに、ああも堂々と、肩なんかすくめながら笑って仰ると、なんだかそれっぽく聞こえるもの」
「そうですよね。自己開示返報性と好意返報性を巧みに織り交ぜつつ、フットインザドアテクニックを用いてアサーティブに要求を伝える様は、なかなか堂に入っていたと私も思いました」
「……もしもし? ルーデン語で話してくださる?」
イレーネがもはや反射的に突っ込む。
この友人の口からは、時折呼吸するように難解な用語が飛び出すのだ。
本人は日々「普通」を目指して精進しているつもりのようだが、その傍から、エルマ自身が目標を踏みにじっている気さえするイレーネであった。
「あなた、『普通』を学びたいというのなら、まずは言葉遣いから変えていった方がいいのじゃない? 城に戻ったら、私が聖書を貸してあげるから、それで勉強したらいいわ」
彼女の言う聖書とは、正規のものではなく、もちろん薄く仕立てられた本のことだ。
エルマはこの申し出に対するアサーティブな回避方法はなにかを考え、
「……そういえば、今回は聖書を持ってこなかったのですね。久々の休暇ですし、てっきり、馬車の中でも読みふけるのかと思っていましたが」
話題を微妙に逸らすことでそれに応じた。
するとイレーネは、いよいよ呆れたような顔になる。
「もう、エルマったら! あなた、なんにもわかってないのね。本を読むときには、『尊い、無理』って後ろに倒れ込むスペースが必要なのよ。馬車なんて狭い場所で読書ができるわけないじゃないの」
「そうなのですか」
シャバの読書というのは、なかなかややこしいようである。
とそのとき、ドアが開き、応接間に二人の人物が踏み入ってきた。
上質なワインを堪能し、少々ご機嫌のように見えるルーカスと、彼を案内する壮年の男性――この屋敷の主にして領主、ヨーナスである。
肩のあたりで整えた白髪の目立つ髪、そして皺の刻まれたいかめしい顔。
年はたしか五十に届かぬはずだが、感情を削ぎ落した顔つきと相まって、ひどく老け込んで見える。
彼は、言葉少なにルーカスをソファに通し、イレーネの隣に座らせる。
使用人を呼び、エルマも含めた三人に茶を振舞わせると、ひどく億劫そうに告げた。
「……改めて、ご挨拶を。ようこそ我が領へ。殿下および、侍女殿の事情には踏み入りませぬゆえ、ごゆるりとお過ごしください。使用人も含め、屋敷内のすべてを随意にお役立てくださいますよう」
低姿勢であるし、大層鷹揚な内容ではあるが、それはルーカスたちを歓迎しているからというよりは、心底興味がないからというようであった。
王家からの詮索を疑うでもない。
「過分な配慮、感謝する。なにぶん王都では、伸び伸びと過ごすことの難しい身の上なのでな」
ルーカスが色男そのものの仕草で、傍らのイレーネの肩にさりげなく手を回してみせても、ヨーナスは非難の色を浮かべるでもなく、淡々と「さようですか」と頷いた。
ちなみに、エルマも道端に生えるぺんぺん草を見るような、特になんの感情もにじまぬ視線を向けてきたため、それに気付いたルーカスは一瞬遠い目になり、そっとイレーネから手を外した。
ヨーナスは抑揚の少ない声で、近々行われる収穫祭にも参加されては、などと形ばかりの誘いを口にすると、最後に、応接間に彼の子どもを呼び寄せた。
「私の子どもたちを紹介いたしましょう。なにかあれば、遠慮なくお命じになられればと」
謙虚な申し出であるし、自慢の子どもたちを信頼しているかのようにも聞こえる。
しかしながら、部屋に呼び寄せられてきた二人の子どもたちは、どう見ても客人をもてなすには適さないような人物であった。
「ごきげんよう。フレンツェル辺境伯ヨーナスが娘、デボラと申します。ルーカス殿下におかれては、ようこそこの辺境のぶどう畑へ。わたくし、心より歓迎いたしますわ」
一人目、次期領主たる息子を差し置いて挨拶を寄越してきたのは、娘のデボラ。
たるんだ肢体とむくんだ顔に、浮ついたピンクのドレスを宛がい、上目遣いでお辞儀をするさまは、醜悪を通り越して滑稽ですらある。
ルーカスに呼び掛ける声こそ、甘くしとやかだが、「辺境のぶどう畑」の言葉にむっとした使用人たち――おそらく、彼らの家族がぶどう畑で働いているからだろう――には、ぎろりと険しい視線を向けた。
「あなたたち、もう下がってよくってよ」
と、領主すら差し置いて、勝手に使用人たちを下げてしまう。
それから彼女はくるりとこちらに向き直り、媚びた笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。このように躾も行き届いていない使用人たちですから、屋敷でお困りの際には、なんなりとこのわたくし、デボラにお申し付けくださいませね。ええと……そこの、ノイマン男爵の娘? と、そちらの眼鏡は平民の侍女かしら? 本来下の身分とはいえ、あなた方も大切な客人。なんなりとわたくしを頼ってくださっていいのよ」
そう告げる様は一見しおらしくもあるが、その実、自宅の使用人たちをこき下ろし、客の身分が自分より下であることを強調してみせている。
イレーネがむっと顔を強張らせたところで、今度は息子のほうが名乗り出た。
「息子のケヴィンです。このような外れの、魔物まで出る領地へようこそ、殿下。でも、愛人を連れ込むには、人目もないしうってつけだと思いますよ。――ねえ、そこの金髪、あんた、愛人なんだよな? そっちの眼鏡はさすがに違うだろ? もしそうだったら、殿下の趣味を疑うけど」
年の頃は、十を少し越えた頃か。
デボラとは異なり、見た目はなかなか愛らしいし、聡明な話しぶりだが、枝のように細い手足と、生意気な態度が、彼の魅力を台無しにしていた。
「……申し訳ない。倅は生まれつき病弱なもので、甘やかしすぎた結果すっかり生意気になってしまって」
ヨーナスはぼそりと謝罪を寄越したが、それ以上特に注意をすることはなく、むしろデボラが「ああ!」と小太りの身体を嘆かわしそうに揺すった。
「ケヴィン、その失礼な口を閉じなさい! まったく、うちの家族ときたら! 殿下、申し訳ございません。このデボラ、お詫びにぜひ、殿下の案内役を務めさせていただきますわ。明日には、ささやかながら感謝祭前の市も立ちはじめます。屋台や道化、いろいろな催しもありますから、きっと観光を楽しめると思いますわ」
実際には、謝罪に見せかけた誘いだ。
ルーカスは、彼女からの情報収集と、街の視察のどちらを優先すべきかを素早く計算したらしく、「いや、その楽しみは感謝祭当日に取っておこうか」などと如才なく断った。
街の様子は自身の目だけで確かめることにしたようだ。
デボラは残念がっていたが、最終的には引き下がり、弟のケヴィンを連れて部屋を辞した。
ヨーナスも、ぼそぼそと謝罪のような、社交辞令のような言葉を残して去っていく。
結果、応接間にはルーカスたち三人だけが残った。
「――なんと、まあ」
最初に呆れたように声を漏らしたのは、一応身分の最も高いルーカスである。
彼は整った眉をくいと持ち上げ、肩をすくめながらカップに口をつけた。
「フレンツェル家の、子どもたちを含む一家の人望の無さは聞いていたが、まさかこれほどとは」
「私たちをさして詮索もせずに受け入れてくださったのはありがたいですけれど――単純に彼ら、私たちを放置して嫉妬して攻撃してきただけでしたものね」
道中で、すっかりルーカスに気安く接するようになっていたイレーネも、相槌を打つ。
侍女ではあるが、一応男爵令嬢として育てられてきた彼女は、王子に対して堂々と媚びてくるデボラや、暴言を向けるケヴィンの態度が信じられないようだった。
「私だってかつてはルーカス殿下に媚びた視線を向けたものだったけれど、さすがにあそこまでではなかったわ。辺境伯の感情の読めない態度といい、子どもたちの向こう見ずな態度といい、……もしや、彼らはなにか深い考えでもあるのかしら。ねえ、エルマ?」
彼女が水を向けると、周囲が去ったのをいいことに、自身もちゃっかり紅茶を楽しんでいた眼鏡姿の同僚は、ことりと小首を傾げた。
「さて。少なくともデボラ様とケヴィン様におかれては、特別、お言葉以上のお考えがあるようには見受けられませんでしたが」
要は、彼らはその振る舞い通り、単純な性格の持ち主だということだ。
エルマは淡々と、
「デボラ様はルーカス殿下に夢中のようでしたし、ケヴィン様も、イレーネに突っかかりながらも、瞳孔がほんの少し開き、呼吸が浅くなっていましたので、わずかな肉体的興奮――つまり、ほのかな好意を感じているようです」
お二人ともモテモテですね、と、なんでもないことのように付け加えた。
「それより、気になったのですが――」
「なんだ?」
眼鏡をきらりと光らせるエルマに、ルーカスがごくわずかに緊張しながら問う。
エルマは紅茶のカップを置き、神妙な様子で尋ねた。
「明日は、収穫祭に向けた市が立ちはじめるというのは、本当ですか?」
「…………は?」
「屋台や道化、いろいろな催しが用意されているらしいですが、これは、私どもも参加してきてよいのでしょうか。一応今現在は『非番』という扱いなので、よいのですよね?」
「……………は?」
思わぬ問いに、ルーカスがつい怪訝な声を上げる。
彼はそれからまじまじとエルマの顔を見つめ――といっても、ほとんどが眼鏡で覆われているのだが――そのガラスの表面が、いつもよりやけに、きらきらと輝いているようであることに気が付いた。
おそらく、……すごく、わくわくしているのだ。
というか毎度思うが、持ち主の感情を無機物の域を超えて表現しにかかるこの眼鏡は、いったい何物なのだろう。
「……市に行きたいのか?」
「いえ別にそういうわけでは」
「市に行きたいんだな?」
「いえ別に――はい」
重ねて問うと、エルマはとうとう頷いた。
「はい。ものすごく、行ってみとうございます」
その、まるで子どもが真剣に挙手するかのような様子に、横で聞いていたイレーネが思わず吹き出す。
彼女はくすくす笑いながら、エルマの手を取った。
「やだわ、エルマ。あなたって結構ミーハーなのね。いいわ、行きましょ! どうせ私たちは殿下の視察の『添え物』ですもの。情報収集は殿下に任せて、私たちは収穫祭恒例、市場でのショッピングとしゃれ込みましょ」
「はい。ぜひ」
「おい待て。せめて申し訳ながる姿勢くらいは見せないのか」
ルーカスは仏頂面で突っ込むが、唇の端はわずかに持ち上がっている。彼とて、目を掛けている少女が、普通の娘らしく市場に興味を示したことを歓迎しているのだ。
三人はそれぞれの役割を確認し、明日はイレーネとエルマで買い物に専念することを約束したのだったが――
しかし、エルマの市場デビューは、残念ながら阻まれることになる。