27.シャバの「普通」は愛おしい(2)
「――……なんだと?」
今度こそ、ルーカスは硬直する。
フェリクスは先王ヴェルナーの子ではない。
ただし、テレジア王太后の子でもない。
では――彼は、誰の子なのか。
呆然とするルーカスの前で、ホルストは悠々と紅茶を啜ってみせた。
「わからない? まあ、ここから先は、鑑定結果ではなく推測だけど――そこの狐男はね、テレジア王太后サマの妹と、彼女を手籠めにしたどこかの男の子どもさ」
「――……!」
居室に、ルーカスとイレーネの息を呑む音が響く。
ホルストは酷薄そうなはしばみ色の瞳で「ねえ?」とテレジアに笑いかけると、悪戯っぽく小首を傾げた。
「僕たちは探偵ではなくて、罪人なんだ。自供は自分でしてくれる、王太后サマ?」
すべてを見通しているかのような、余裕の表情。
青褪めて黙り込むテレジアの代わりに、フェリクスが珍しく不機嫌そうに眉を寄せて「あーあ」と呟いた。
「悪趣味だねー。女性の秘密を暴き立てるなんてさ」
「僕が暴き立てたのは、あんたの秘密のつもりだったんだけど、フェリクス王サマ? 彼女は巻き込まれただけさ、可哀そうにね」
毒を含んだ抗議は、いけしゃあしゃあとした口調で返される。
「言っただろう? 僕たちは『友人』にはきちんと尽くすし、――逆に、エルマを搾取しようとする人間のことは、きちんと攻撃するんだ」
ホルストは、はしばみ色の瞳を剣呑な笑みの形に細めた。
フェリクスの出自を解き明かすということは、ルーカスの「願い」を叶えることであると同時に、高みの見物を決め込んでいたフェリクスへの意趣返しでもあるわけだ。
室内に、緊迫した沈黙が満ちる。
「――……フェリクス」
やがて口を開いたのは、テレジアだった。
初めて息子の名前を呼んだ彼女は、ふらりと立ち上がると、震える声で問うた。
「……いつから、知っていた?」
彼女は、真実を突き止めたホルストよりも、フェリクスに対して驚愕の表情を浮かべていた。
「さあ」
対して、フェリクスはつまらなそうに応じるだけだ。
テレジアはしばし彼の顔を凝視すると、ややあって、糸が切れた人形のように、再び椅子に座り込んだ。
「――……ああ、そうだ」
それから、それまでの貫禄ある態度が嘘だったかのように、顔を俯け、静かに口を開いた。
「……その通りだ」
力ない声で彼女が語った内容は、以下のようなものだった。
先に告白したとおり、テレジアとクリスタは同時に妊娠していた。
聖力過剰が起こったのは、クリスタが臨月に入ってから少し過ぎた頃。その時テレジアもまた、翌月に臨月を控えていた。
順調に行けば、クリスタの出産の半月後に、テレジアもまた出産を迎える予定だった。
だが、狂ったように雨が降り出したあの日。
隣室でクリスタがこと切れるその少し前、テレジアは、突然激しい腹痛に襲われたのだ。
陣痛かと思うほどの腹部の痛み。
目は眩み、胃は吐き気を訴え波打った。
咄嗟に手を突いたテーブルには、冷めきった紅茶のカップ。
不自然にひりつく喉の痛みから、テレジアはすぐに原因を理解した。
――毒。
「当時、王の第一子を授かった私を害そうとする者は多かった。細心の注意を払っていたはずだったが、実家に引っ込んでからはだいぶちょっかいも減って……油断していたのだ。それが敵の策だったとも気付かずに」
「敵、とは……?」
慎重な声でルーカスは尋ねるが、テレジアは名を口にするのも嫌だと言わんばかりに顔を歪める。
代わりに、だらりと椅子の背にもたれて話を聞いていたフェリクスが、なにげなく答えた。
「下睫毛の母親ー」
エルヴィンの母ということだ。
「王太后陛下によって、聖具なしには生きられない体にされたという、あの……?」
符合した事実に、思わずルーカスが呟くと、テレジアは俯いたままふんと口の端を持ち上げた。
「同じ毒を返しただけよ」
それほど、苛烈な作用を持つ毒であったのだ。
「してやられたと理解した時、既に私の体は毒に蝕まれていた。ふらつく足取りで妹の部屋の扉を開け、……しかし私は、思ってもみない惨状に自身の状況を忘れた。そして気付いたのだ」
体が、楽になっている。
そう。
指を針で突いた程度の、小さな傷がきっかけで気付いたなど、嘘だ。
全身を蝕む毒を、たちどころに癒すほどの「なにか」。
それがあったからこそ、テレジアは妹の聖力過剰に気付いた。
「だが、理屈はわからぬが、聖力は腹の中の子にまでは及ばなかった。結果、健康を取り戻した私の体はその場で産気づいたのだが――生まれてきたその子は、死んでいた。そうとも。私は、落ちるようにして出てくるその子どもを、自分一人で受け止めたのだ」
聖力が胎児にまで及ばないというのは、クリスタも同様だった。
荒ぶる聖力は、彼女の体を急激に老いらせ、滅ぼしたのに対し、その腹の子にはそうした作用をしなかったのだ。
産褥の血を流すテレジアの横で、こと切れたクリスタの腹が、一度だけ動いたように見えた。
テレジアは一瞬だけ逡巡し、ついで、震える手で妹の腹を裂いた。
途端、元気な産声が部屋に響いた。
「ひどい雨の日だ。産声も悲鳴も助けを呼ぶ声も、すべて雷雨に呑み込まれて、薄暗い部屋には結局私一人しかいなかった。目の前には、死した我が子と、老いた妹と、生きた甥。そして、いまだ血を流した私。私は……混乱していた」
正しくあるべきだ、と最初彼女は思った。
毒を盛られて、我が子は死んだ。聖力を暴走させて、妹は死んだ。
二つの事実を明らかにして、正しい道を進むべきだと。
「だが……それをしてどうなる? 正しいから何になる? 私は実際に子どもを失ったばかりか、それを認めれば、あの女に勝利と権力を許すことになる。甥は母親を失い、父親のわからぬ子として、どこぞの孤児院に預けられることになる」
だが――自分と甥が、同時にその憂き目を避ける方法が、一つだけある。
二つの秘密を足し合わせ、嘘と噂で塗り固め。
そうするだけで、テレジアには勝利が、甥にはこの世で一番の富と権力が手に入る。
よせ、と、頭の片隅で誰かが叫んだ。
どうかしている。
それは甥と妹と自身と、そして我が子、四人もの尊厳を踏みにじる行為だ。
だが同時に否定した。
いや違う。
甥を助け我が身を守り、我が子と妹に償うための行為だ。
「認めよう。そこには打算があった。野望も、憎しみも。ただ、同時に……私なりの、罪滅ぼしの意味もあった」
徐々に収まってきた雷鳴が、最後の悲鳴を上げた時、テレジアは震える手を、赤子へと伸ばした。
――フェリクス。
そのとき初めて呼んだ、我が子の響き。
それが、彼女の罪の名前。
――フェリクス。おまえを、絶対に育てる。なんとしても、王にしてみせる。
それが、彼女の贖罪。
テレジアは顔を上げ、フェリクスをじっと見つめた。
「その後……私は、おまえを育てるのに躍起になった。第三王妃への復讐を果たし、ほかの側妃も牽制し、間違ってもおまえに手出しをするような愚か者が出ぬよう、心を砕いた」
その結果の一つが、ルーカスの母ユリアーナに対する嫌がらせと言うわけだ。
告白を終えたテレジアは、最後、体に残った過去の残滓を吐き出すように、長い溜息を漏らした。
「……黙っていて、すまなかった」
「あーあ」
そこに、気だるげな様子で耳を傾けていたフェリクスが、ひらりと両手を翻す。
「ぜーんぶ言っちゃった。せっかく、人が隠してあげてたのに」
その一言で、ルーカスは悟った。
「……義兄上が黙秘していたのは、このことを隠すためですか。父王の実子でないと早々に認めてしまえば――テレジア陛下と親子でないことまでは、探られずに済むから、と?」
「孝行息子でしょー?」
慎重な問いは、ひょうひょうとした口調で認められた。
「なぜかみんなには信じてもらえないんだけど、僕ってこれでも、かなり義理堅くて優しい男だからさー。僕のためにがんがん孤立していく母親を見てたら、その願いの一つ二つ、叶えてあげなきゃって思ったわけだよ」
「私の、願いだと……?」
初めて「息子」の真意に触れたテレジアが、眉を寄せて問い返す。
フェリクスはそれには直ぐには答えず、ひっそりと笑った。
「……十一年前でしたよ、母上」
「え……?」
「先ほどの問いの答え。僕があなたの――いや、僕たちの秘密に気付いた年。僕は、十一歳だった」
突然の告白。
テレジアは息を呑んだ。
「十一年前に……なぜ?」
「さあ。……誤魔化すわけでなく、自分でもなぜその日だったかはわからないのです。でも、そんなものでしょう? 日々一滴ずつ溜まっていた疑問の水が、たまたまその日になって閾値を超え、溢れ出してしまった。それだけのこと」
フェリクスは昔から、聡い子どもだった。
日々強く緊張している母親を見て、王宮を恐ろしい場所だと理解するほどには。
有能な政敵を次々と叩き潰してゆく母親を見て、なるほどあからさまな有能さなど、害にしかならぬと理解するほどには。
そうして、剛腕で冷酷な母親の存在感に隠れ、惰弱な王子の仮面を被り、のらりくらりと王宮生活を紡ぐ内に、彼の内側には日々、微かな違和感が蓄積されていった。
本来は実直な性格のようにも思える母。それがこうも、冷酷非道な烈婦を演じているのはなぜだ?
側妃たちの能力を推し量り、それに見合った、実害とならぬぎりぎりの牽制を仕掛けてきた母親。第三王妃に限って、重篤な症状に追いやったのはなぜだ?
昔は仲の良かったと評判の、修道院送りにされたという母の妹。どれだけ調べても、一向に存在が確認できないのは――なぜだ?
「慎重なあなたは、懊悩を日記にすら残そうとしなかった。実家にあったはずのクリスタの肖像画もすべて処分した。ただ唯一、最も美しいと呼ばれる肖像画だけは処分できなかったのでしょう。『微笑みの少女』とあだ名されるその絵画を、あなたは王宮の宝物庫の奥深くに秘蔵して、ときどきこっそりと見に行っていた」
「微笑みの少女」。
監獄にあるのを見て、テレジアが強く反応した作品だ。
「でも、隠されると見たくなるのが僕の性分だからさー」
そこでフェリクスは口調を砕けたものに戻し、ルーカスを振り向いた。
「その日、なんでだか僕は思い立って、その絵を見に行ったわけ。で、なんか色々悟っちゃった。昔から、この手の勘は鋭いんだよねー」
すっかり冷めてしまった紅茶を一口すすると、フェリクスはその淡い液面を見つめた。
「それで、思った。そうかー、僕はフェリクス王子じゃなかったんだ。もともと『フェリクス』が座るべきだった魂の席に、しれっと腰を下ろしている赤の他人。それが僕か、って」
壁いっぱいに金銀財宝や宝飾品がひしめく空間。そこでぼんやりと膝を抱えながら、しばらく彼は考えた。
十一年。
知らずとはいえ、十一年に亘って、自分は他者の玉座を略奪し、浴びるように富と権力を享受してきたわけだ。
それはなんだか――
「ちょっと、悪いかなって」
少しマナーを違えてしまった、くらいの軽い気まずさを浮かべ、フェリクスは肩を竦めた。
それで次に、彼はこう考えた。
ならば、返そう。
次の十一年、同じ年月だけ、自分は「彼」に、これまで受けた分の富と権力を返す。
いや、それ以上のものを約束しよう。「彼」が守りたかったであろうルーデンを富ませ、最も権力ある国にしてみせる。
だって、自分のためにいくつもの罪に手を染めた「母」は、願いを込めてこの名を授けたというから。
フェリクス。
ルーデンを興した賢者のようであれと。
「ほんとは、僕の誕生日までに、シュタルク併合と、近隣への種蒔きまで済ませておきたかったんだけどなー。ちょっと遅延」
ぼやく彼は、来月二十二歳になる。
――時間がもったいないんだ。
――王たる僕の時間は、この国の誰のものより貴重。
フェリクスが口にしていた言葉の意味をようやく理解して、ルーカスは目を見開いた。
強硬なまでの富国策が、そんな理由にあったとは。
そのありようは、一途というよりは、いびつだ。偏執的なようでいて、どこか気まぐれでもある。
だが、その奇妙さがむしろ、彼らしいようにも感じた。
「――とまあ」
フェリクスはそこで空気を切り替えるようにして笑い、小首を傾げてルーカスを見やる。
「これで君は、ルーデン最大の秘密を握ってしまったわけだけれど。僕たちを――ルーデンを、どうする?」
その悪魔のような微笑みで、ルーカスはようやくフェリクスの意図を悟った。
彼は委ねたのだ。
これまで頑なに隠していた真意を突然明らかにして、彼の処遇を、ルーデンの命運を、異母弟に押し付けた。
「せっかく一人で抱えてやってたのに、しつこく聞き出そうとしたのは君だよ、ルーカス。……さあ、僕たちを断罪する? それとも事実を封殺して、民を欺く? どうしよっか」
フェリクスは無邪気な子どものように尋ねる。
全面的に身を委ねたようでいて、その笑みはやけに攻撃的だった。
そう、彼は、きっと委ねたくなどなかったのだ。巻き込みたくなかった。
とびきりプライドの高い彼は、「弟」に事情など知られたくなかったし、手など間違っても差し伸べられたくなかったのだ。
「……義兄上」
「よくお考えよ、ルーカス。どちらが合理的で真っ当か、要領のいい君ならすぐにわかるでしょー? 血縁もない罪人二人を庇って、全国民を欺くだなんて、狂気の沙汰――」
「楽しそうなお話ね」
が、フェリクスが手綱を握ろうとした会話は、涼やかな声によって遮られた。
「マリー!」
「あんた、もう起き上がってよかったの!?」
ハイデマリーである。
彼女は、締め付けの少ないドレスをまとい、ゆっくりとこちらにやって来た。
「ごきげんよう、皆さま。このたびはどうもありがとう。おかげで、母子ともども健康よ」
「子どもはどうしたのよ?」
「ギルが付きっきりで見ているわ。隙あらば子どもの愛らしさを詩にしようとするものだから、閉口してちょっと抜け出してきたの。あれって、クレメンスの影響かしら。――わたくしにも紅茶をくれる、エルマ?」
優雅に椅子の一つに腰を下ろす彼女は、とても産後すぐとは信じられない。
艶麗で、泰然たる、まさに監獄の女王だ。
甲斐甲斐しく世話を焼こうとする周囲を慣れた素振りであしらい、ハイデマリーは悪戯っぽくテーブルに身を乗り出した。
「それで、なんのお話をしていたのかしら。一人の女性の秘められた過去について? それとも、とある青年の秘められた決意について?」
まるで恋愛話に目を輝かせる娘のように笑みを浮かべる。
「それとも、兄を殺すか国を騙すかの葛藤とか? ――ふふ、失礼、そんなありきたりなテーマで、長々と盛り上がれるはずもないわね」
言外に、一国を揺るがす秘密や、それにまつわる懊悩を、些事だと言い捨てる。
絶句したルーカスたちに、ハイデマリーは優しく目を細めてみせた。
「だってわたくしたちは、罪人なのだもの。嘘も秘密も、罪も、歪んだ正義も、すべてわたくしたちの世界に属する、ありふれたものたち。それらを恐れる理由なんて、ひとつも無いわ」
彼女は、すべてを見通すかのような藍色の瞳をルーカスに、そしてテレジアやフェリクスに向け、慈愛深く語りかけた。
「ねえ。だからなにも躊躇うことなどない。悩んでいるなら、わたくしが背中を押して差し上げる。だってわたくし、心から思っているのだもの」
白い指が、優雅に紅茶のカップを持ち上げる。
「友人であり恩人であるあなた方に、なにかお礼をしなくては、とね」
完全に以前の姿を取り戻した女王は、ゆっくりと立ち上る紅茶の湯気越しに、そっと目を細めた。