過去
「あなた。」
気づくと妻が俺の目を覗き込んでいた。
「どうしたの、急にぼーっとして。」
返答しようとして気づく。
声が出ない。慌てて首を横にふる。
「ふふ、すぐそうやってぼーっとしちゃうんだから。」
そういうつもりじゃないんだが。
「そう落ち込まなくていいのに。あなたって本当に面白いわね」
だんだん恥ずかしくなってきた。
「そうそう、あなた一度ぼーっとしててデートの日をすっぽかしちゃった日もあったわね。」
そういえばそうだっけ。
「忘れたの、あなたってば本当に反省しない人ね。」
妻は笑みを浮かべている。
「色々あったわね。遊園地に行ったり、海水浴に行ったり。」
確かに。
「ずっと思ってたの。」
なんだよ急に。
「あなた、なんでプロポーズしてくれなかったの。私からしかも指輪を見せても反応が遅いのだもの。愛してるもずっと言わなかったし。」
先を越されたなんて恥ずかしくて言えるわけないだろう。だいたい、そういうものは男がするんだって思って指輪を見せられても単なるプレゼントだと思ったんだよ。
なんていつの間にか必死に心の中で弁解していた。
「…なた、あなたってば。」
妻が睨んでいる。何と言われるか予想がついた。妻が笑いながらため息をつく。
「…幸せだわ。」
予想していない言葉が出て思わず妻の顔を見る。
「…あなたとこうして、喋って、笑って、怒って、」
自分もだと共感すると身体にのしかかっていた重りのような物が無くなる気がした。
「私は幸運ね。」
今度は声が出る。自信も出てきた。
「…その分、俺は不運だったさ」
妻は俺の口が開いたことに一瞬驚いたようだがすぐにいつもの微笑みに戻る。
「そうね。沖縄に旅行しに行った時はたまたま台風がはやくきて三日間何もできずじまいだったものね。」
「…でもあの時は君が予約したホテルにビリヤードがあって結構楽しかったじゃないか。」
「誰も楽しくなかったなんて言ってないわよ。」
「……」
妻が嬉しそうに言う。本当に笑ってしまうくらい子供だ。
「あの子達が生まれてからはこうやって二人きりで何か話すことなんてなかったわね」
「子育ては本当に大変だった。」
「えぇ、一人目の子を産んだ時にあなたはどうしたらいいかわからず怪我をした。」
「うるさい」
何も言い返せないのが歯がゆくて楽しくて。俺も時々嫌味を言ったりするからやめろとは言えないし言わない。言いたくもない。
「二人目の子の時はあなたがする家事の素晴らしさを知ったわ」
「もういい」
あの頃と全く変わらない。あの頃と全く。
「褒めてるのになんで怒るのよ」
妻も楽しそうだ。
「君は、本当にそういうことを楽しんでいたよな。」
そう今までは。彼女はこうやって俺をからかうことが好きだった。今までずっとそうだった。なんだかんだ言って俺も彼女のそういう子供っぽさを可愛く思っていた。
「これからもよ」
彼女の言葉なんてもう頭に入らなかった。思い出したから。いや、随分前に思い出してはいた。けれどあまりにもこの状況が心地よくて…。
「………」
「一番上の子が運動会の時…」
彼女は話を続けた。
「……てくれ…」
「中学では友人関係で…」
「やめてくれ!」
俺の大声に彼女は驚いた。
「お前は。」
必然的に語気が強まる。
言葉にするのが辛かった。
けれど一度出そうになった言葉を飲み込むことはできなかった。




