精神病棟廃墟 [3]
僕らは廃墟までの道のりを、滑るように進んでいった。無灯火、月明かりも時おり雲に隠れ、土地勘のない僕には一歩一歩が恐怖だ。ザクザクとなる乾いた土が徐々に掃けていき、荒れ果てたコンクリートを足裏に感じるようになる。そのまま進んでいって岬さんがふと立ち止まった。
「そろそろ大丈夫。明かりをつけて」
懐中電灯のスイッチを入れ、前方を照らした。その巨大な建造物は、ガラス一枚割れず、落書きのひとつもない、奇妙な廃墟として僕の目に映った。
「案外きれいでしょう。誰も来ないから、人為的な破壊はまぬがれているの」
それでも、自然の浸食は目についた。わずかな明かりのもとでさえ、そこが人に見放された場所であることがじゅうぶんに汲み取れた。丘を向いて建つ玄関まで回ると、劣化した窓ガラスが土埃を纏って呆然と立ち尽くしていた。
「私、前にも一度ここに潜伏したことがあるの」
「だったら、バレてしまうのでは」
「そんなの、こっちへ逃げた時点で承知してるよ。言ったでしょう、彼らは私たちがここにいるとわかっていても、近づかない」
忌み地であることを強調する不穏な弁にたじろいだ僕は、にわかに怖気づく。
「でも、こんな場所で長居もできないでしょう。ここに逃げ込んだと思わせておいて、別のルートから逃げるのはどうです」
「この先は崖。引き返せば囲まれる。捕まったらどうなるか私が話さないのは、そのままの意味で受け取ってもらって結構。まあ安心しなよ。当面を過ごす燃料はあるの。まだ設備が生きていればだけど」
彼女は、玄関のわきにある通用口のような小さな扉に近づいていった。ガタガタと扉を揺らし、開かないとみると痛烈なひざ蹴りをかます。振動で窓が軋み、どこかでピシリと亀裂の入る音がした。
「ほら、開いた」
「待って下さい。入れと言われても心の準備が」
どこかで扉が開かないことを期待していた僕は、積極的に後退しながらライトをぐるぐると振り回した。中は真っ暗だ。闇がこちらを覗いている。一寸先も一寸後も真っ暗。こういう状況になると、かえって命が惜しくなる。捨てようとしていた事実を棚にあげて。
しかし彼女は、自殺志願者である僕の矛盾をあえて責めるようなことはしなかった。この反応を予期していたかのように、よどみない動作でリュックサックを下ろし、中から大きめのペットボトルを取り出した。
「君に安全と安心をプレゼントしてあげる」
「安全などありえないし安心など皆無ではないですか」
「そこは私という存在によりかかればよいの」
岬さんはボトルをライトの照射圏内にかざした。中に何か入っている。
「それ……朝、村の男が吐いていた液体に似てますね」
「まさにその液体だからね」
緑色の汁がたぷんと揺れる。彼女は入り口との距離をキープして微動だにしない僕からライトを奪い取り、建物に入って行った。
「待って下さい、僕もついてゆきますから、少しだけ待って下さい」
「すぐ戻るから」
入ってすぐのところで、彼女は何やら作業をはじめたらしい。暗闇の奥で、がごごん、と何かを動かす音が響いた。乾いた金属が軋む音。力を込めて作業する女の吐息。ボトルの液体が波打って、そのかすかなさざめきすら耳に届く静けさだ。あたりは無音。無音故に彼女の挙動はすべて音となりはね返る。
僕は不意に尿意をもよおした。明らかにそれは恐怖に起因する尿意だった。いっそもらしたところでそれほど拙いことにはならないだろう。チャックを下ろす。僕が放尿するより先に、建物の中から水音がとっぽとっぽと聞こえてきた。尿意は少し減退する。音は続く。止まった。続いたのは十数秒だろうか。再び何か重いものを動かす音がして、彼女のため息が聞こえ、その後、ブゥゥンと低くうねるモーター音が響き始めた。
「……どういう理屈だよ、これ」
数秒おいて、施設には明かりが灯った。
埃を弾き飛ばすような激しい光が、煌々と灯っていた。