精神病棟廃墟 [1]
[1]
彼女は屋根に上ったあと、そのまま視界から消え失せた。上がったところで腕を伸ばして引き揚げてくれるものと思ったが、それは本来僕の役回りか。さほど無理のない高さだったので、筋肉の削げ落ちた僕の身体でも及第点の跳躍が可能だった。息を切らして這い上がると、いきなり後頭部をわしづかみにされ、べちゃっと地面へ潰された。彼女だった。
「そういえば君、名前なんていうの?」
「愉快です」
「は?」
「水村愉快という名前です」
「そんな名前を頂いておきながら自殺未遂とは親御さんもさぞ悲しむことでしょうね。でもとても愉快。愉快。いい名前。私は岬。よろしく。さて」
早送りのような自己紹介を済ませると、岬さんは玄関の方向に視線を投げた。
「玄関のほう、ぼんやり明るいでしょう。みんなが灯火を携えて見張っているのよ。この村では何年かに一度、こういう事態になる。そうするといつも決まって、ご覧のとおり捕獲作戦。めちゃくちゃザルな罠でしょ? どうせ逃げる場所なんてないから気にしてないんだろうけど」
「こういう事態って。僕は何か見てはいかんものを見てしまったんでしょうか」
「とてもシンプルに言うと、そういうこと。都会人の抱く田舎イメージそのまんまでしょ? いまどき田舎でもそんな展開あるわけないのだけど、ここは田舎というか秘境だから」
ひそひそと交わす会話を聞き取るため、互いの顔はずいぶん近い。
「逃げる場所……ないんですか?」
「村人共の想定にはね」
岬さんは屋根にへばりついたまま、器用に向きを変えた。僕はそれに倣い中腰で方向転換を試みたが、危うく落ちそうになり岬さんに抱きとめられた。
「あっちに逃げるよ」
「あ、森が少し開けてますね。真っ暗で影しかわからないですけど。何があるんですか」
「小高い丘と、断崖絶壁。その向こうにはおぞましい湖」
「……つまり僕の自殺は既定路線だったわけですか」
「先の説明は逃げたあと。気づかれる前に行くよ」
いくばくの躊躇もなく、彼女は屋根から飛び降りた。僕はそれに続いた。
「あっちだ、逃げたぞ!」
野太い声が玄関のほうから響いた。振り返る余裕もなく、僕は岬さんに追いすがるので精一杯だった。