徹夜汁 [2]
病棟で迎えた朝は、生温かい息苦しさの中にあった。そのゆるやかな窒息感は、目覚めたばかりの僕を再度の眠りへと誘う。僕はその眠気を、奇妙な程に愛おしく思った。もう幾ばくか眠ってしまおうと寝がえりをうち、しかし、すえた臭いに安心感をかき乱される。
鼻を突いた臭いは、くるまっていたシーツから漂っていた。埃っぽさもあるし、とても清潔な代物ではない。やれやれと眠りを諦めて起き上り、シーツを汚く丸めたところで一度躊躇する。ここに隠れているならば、雑に扱って良いものか。そこは後先を考えても無意味であると気づき、まもなく部屋の隅に放った。
宿直室には岬さんの姿がない。どこかへ行っているらしい。
昨日のことを考えても、下手に動くのは得策ではないだろう。僕はマットレスがむき出しになったベッドに腰を下ろし、多少ましになった空気の中でひと息ついた。
音がする。
部屋の外で音がする。近づいてくる足音に、僕は声をかける。
「岬さん。おはようございます」
「岬はここには居ねえよ」
入って来たのは老婆だった。
昨日半裸の僕を追い詰めて尋問をした、その老婆だった。
「あ、あの、昨日は」
「これからおまえの首を切って」
老婆は僕との距離を詰め、懐に隠した錆びた鉈で右腕を切りつけて来た。
「……崖の下に捨てる」
声は出なかった。咄嗟に身を引いた為か傷は致命傷にはなっていない。でも、激痛をもたらすのに充分な深さがあった。血が噴き出し、熱さが痛みへと変わり、足腰が脱力して僕は尻もちをつく。その拍子にさらに傷が開き、痛みが増していく。どくんどくんと。鼓動に連動するように、激しく痺れる痛みが思考能力を破壊していく。
「よそ者は始末する決まりでな。悪く思うな」
「ぼ、僕は何も――」
「オレたちの村に迷い込んだことがすべてだ」
「そんな。待って下さい。僕は何も知りませんから。どうか命だけは」
死ねるようになるまでは生きるしかない。自分の言葉を思い出す。
ああ、死に方くらい自由に決めさせてくれ。婆あ。婆あは怖いから嫌だ。
でも、自分の意思で死ぬ時点でそりゃあ全部自殺かな?
傷口を押さえている左手が、溢れ出る血液でぬるりと滑った。
「嘘を言うんでねえよ」
老婆は凄味のある表情を見せながら鉈を中段に構えた。その鈍く怖ろしい切っ先が、僕の喉を指している。
「あんたのその臭いはよ」
すえた臭い。僕は味を思いだそうとする。徹夜汁に味は――味はあっただろうか。
「……飲んだな」
老婆の突きが喉元をかすめる。僕は、勢い余って倒れ込んだその背中に全力でひじ打ちを叩きこむ。硬く、曲がった背骨に僕の肘がめり込んだ。骨と皮ばかりの筋張ったからだ。肉の潰れる感触はなく、代わりに激痛と振動が僕のからだを駆け巡った。
そして老婆はひるまなかった。
起き上がりざまに振り抜いたその鉈は、僕の喉をかすめる半円を描く。
引きちぎったような痛みと、自分の中身が漏れていくような焦燥感。
右腕から左手を離し、両手で喉を強く押さえる。
大丈夫、これもまだ致命傷じゃない。
状況は絶望的だ。




