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徹夜汁  作者: 塔野とぢる
10/13

徹夜汁 [2]

 病棟で迎えた朝は、生温かい息苦しさの中にあった。そのゆるやかな窒息感は、目覚めたばかりの僕を再度の眠りへと誘う。僕はその眠気を、奇妙な程に愛おしく思った。もう幾ばくか眠ってしまおうと寝がえりをうち、しかし、すえた臭いに安心感をかき乱される。


 鼻を突いた臭いは、くるまっていたシーツから漂っていた。埃っぽさもあるし、とても清潔な代物ではない。やれやれと眠りを諦めて起き上り、シーツを汚く丸めたところで一度躊躇する。ここに隠れているならば、雑に扱って良いものか。そこは後先を考えても無意味であると気づき、まもなく部屋の隅に放った。


 宿直室には岬さんの姿がない。どこかへ行っているらしい。

 昨日のことを考えても、下手に動くのは得策ではないだろう。僕はマットレスがむき出しになったベッドに腰を下ろし、多少ましになった空気の中でひと息ついた。


 音がする。

 部屋の外で音がする。近づいてくる足音に、僕は声をかける。


「岬さん。おはようございます」

「岬はここには居ねえよ」


 入って来たのは老婆だった。

 昨日半裸の僕を追い詰めて尋問をした、その老婆だった。


「あ、あの、昨日は」

「これからおまえの首を切って」


 老婆は僕との距離を詰め、懐に隠した錆びた鉈で右腕を切りつけて来た。


「……崖の下に捨てる」


 声は出なかった。咄嗟に身を引いた為か傷は致命傷にはなっていない。でも、激痛をもたらすのに充分な深さがあった。血が噴き出し、熱さが痛みへと変わり、足腰が脱力して僕は尻もちをつく。その拍子にさらに傷が開き、痛みが増していく。どくんどくんと。鼓動に連動するように、激しく痺れる痛みが思考能力を破壊していく。


「よそ者は始末する決まりでな。悪く思うな」

「ぼ、僕は何も――」

「オレたちの村に迷い込んだことがすべてだ」

「そんな。待って下さい。僕は何も知りませんから。どうか命だけは」


 死ねるようになるまでは生きるしかない。自分の言葉を思い出す。

 ああ、死に方くらい自由に決めさせてくれ。婆あ。婆あは怖いから嫌だ。

 でも、自分の意思で死ぬ時点でそりゃあ全部自殺かな?

 傷口を押さえている左手が、溢れ出る血液でぬるりと滑った。


「嘘を言うんでねえよ」


 老婆は凄味のある表情を見せながら鉈を中段に構えた。その鈍く怖ろしい切っ先が、僕の喉を指している。


「あんたのその臭いはよ」


 すえた臭い。僕は味を思いだそうとする。徹夜汁に味は――味はあっただろうか。


「……飲んだな」


 老婆の突きが喉元をかすめる。僕は、勢い余って倒れ込んだその背中に全力でひじ打ちを叩きこむ。硬く、曲がった背骨に僕の肘がめり込んだ。骨と皮ばかりの筋張ったからだ。肉の潰れる感触はなく、代わりに激痛と振動が僕のからだを駆け巡った。


 そして老婆はひるまなかった。


 起き上がりざまに振り抜いたその鉈は、僕の喉をかすめる半円を描く。

 引きちぎったような痛みと、自分の中身が漏れていくような焦燥感。

右腕から左手を離し、両手で喉を強く押さえる。



 大丈夫、これもまだ致命傷じゃない。

 状況は絶望的だ。

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