死の森の最果てに [1]
[1]
まさかこんなところに集落があるとは思わなかった。
僕はたまたまこの森で吊ろうとして、死に切れずに彷徨っていた。あてもなく森を歩いていれば、そのうち熊に喰われて死ぬだろうと思っていた。陽はとうに落ちていたし、崖から落ちて死ぬことも想定した。あるいは、飢えて死ぬ可能性も大いにあった。僕には死に切れない弱さがあるだけで、生きようとする強さなど持たなかった。しかし、生活の灯を見た途端、貧弱な生きる意思が破滅願望を噛み砕いてしまった。
携帯電話も財布も持たない、そして汚れた身なりをした不審極まりない僕が、いっそのこと猟銃で撃ち抜かれてしまえば面白い。形だけとなった決意をぶらさげながら歩いていると、集落の端、いちばん手近にあった建物の玄関先に、煙草を呑む若い女がいた。
「見かけない顔。こんな深夜に」
彼女の顔は逆光になっていてよく見えなかったが、その陰影や凛とした雰囲気から、美人であることを直感的に悟った。山から下りて来た僕を警戒してか、火のついた煙草を前に出して間合いを測っている。
「山で死のうとしたんだけど、どうも度胸が足りなくて」
彼女は手に持った煙草を咥え直して、一息吸いこむと吸い殻をバケツに捨てた。
「そうでもない限り、満身創痍でこんな場所へ現れないでしょう」
そう言うと彼女は玄関わきにあった木製の椅子へとさりと腰を下ろした。角度が変わって、彼女のからだは光に照らされる。暗いシルエットだった姿が着色されて、キャミソールにショートパンツという扇情的な格好が浮かび上がった。長い睫毛の奥から、冷たい視線が僕を刺す。僕はその瞳にぐんと心を惹かれた。
「で、どうするの。生きたいのか、死にたいのか」
「死ねるようになるまでは生きるしかないと思う」
「なにそれ、妙に開き直った態度」
――じゃあ、殺してあげる。
僕はたしかに、彼女の唇がそう動くのを見た。しかし彼女は声を出さなかった。
「とりあえず、疲れてるでしょ。休んでいきなよ」
――うん。
僕は唇の動きだけで返事をした。
古めかしい家の床板は、僕を威嚇するようにキイキイと鳴いた。廊下には向かい合わせにふたつのドアが並んでいて、それぞれが少しだけ開いていた。なんだか嫌なものが流れ込んでくるような気がして、僕は息を止めて通り抜ける。玄関を過ぎてつきあたりまで歩くと、そこには食卓が並んでいた。
「お腹、空いてない?」
食欲はない、そう言おうとした矢先、僕は極度の空腹を思いだした。首を吊ろうと思っていたものだから、ここ2日間何も喰わず糞を作らないように気をつけていたのだ。
「減っています。でも、軽いものじゃないと食べられないかもしれません」
「ちょうどいいよ、スープならすぐに出せるから」
そういって彼女はコンロに火を点けた。大きな寸胴が熱されていく。見たところ独り暮らしなのに、何故そんなにデカい鍋を持っているのだろう。
「昔は他に家族がいたから」
僕の視線に気づいた彼女は、ぽつりと呟いてレードルで寸胴を叩いた。さほど大きな音はしなかったけれど、僕はビクリと震えてしまった。
彼女が用意してくれたのは味噌汁で、スープと呼ばれていたのに僕は違和感をおぼえた。
味噌汁をいただいて一息つくと、僕はとても眠くなった。一日中歩き回っていたことを思い出した途端、身体中に疲れがどっと込みあげてきた。
「あの、どこかで眠らせてもらえないでしょうか」
「うん。いいよ」
そのとき彼女の顔が一瞬強張ったのを感じ、僕は申し訳ない気持ちになった。状況からすれば当たり前の流れではあるけれど、彼女は年頃の女性だ。見知らぬ男を家に泊めることに抵抗はあるだろう。
「この部屋で寝て。ベッドも使っていいよ」
僕が通されたのは彼女の寝室だった。
「貴女のベッドを僕が占領するわけにはいかないです。居間とか、なんなら廊下でも充分なので、貴女がここで寝て下さい」
「大丈夫だから。ここで寝て。これが家主の意向だよ」
彼女が譲りそうにないので、厚意に甘えて部屋にお邪魔する。汚れた上着を脱ぐと、中に着こんだシャツが汗臭かった。
「着替え、出してくるね」
彼女がそういって部屋を出て行ったあと、僕はぐるりと内装を見渡した。彼女の部屋には人工的な光源が一切なかった。その代わり大きな天窓が開いていて、真っ白なシーツが月明かりにほんのりと照らされていた。
シーツの上に、脱ぎ捨てられた下着が落ちていた。その光景から染み出す強い生活感に、僕は不思議な安心感をおぼえた。