苦痛
最初に耳が聞き分けたのは、ガラス窓が割れる音だった。それも一枚だけが弾けたような軽い音ではなく、何十枚ものガラスが割れた音。複雑で下手くそな小学生の合奏コンクールのようなものだった。見て確認するまでもなく、図書館の窓ガラスが全壊したのだろうとラブズは予測した。ここのベンチから本館まで約二〇メートルの距離がある。さすがに此処まで来ることは無いだろう、と踏んでいたのだが、
「……危ないっ!」
生き物のようにして、割れ散った破片がラブズたちに向かって飛んできたのだ。いち早く危険を察知したラブズは機敏に反応し、咄嗟に彼女の事を抱きかかえ地面に転がった。身体能力にはわりと自信がある。軸足から繰り出された瞬発した勢いで、向けられたそれを回避した。
彼女には傷一つ付くことなく、思わず安堵の一息が漏れる。
少々強引な方法での庇い方だったが、なにせ緊急事態だ。命の危機にさらされては、ラブズのくだらない価値観も全てかなぐり捨てられる。ラブズ・ウィンゴは優先順位を付けられる男なのだ。
起き上がるラブズ。ガラスの破片は、ついさきほどまで女の子が座っていた場所辺りに、深く刺しこまれていた。木目のざらつきがさらに増したように思える。
「……何だったんだ……今の」
ガラスのナイフたちが再び動き出すことは無かった。ただの不慮的な事故だったのだろうか。ラブズは額に流れ落ちる冷や汗を拭った。そして抱きかかえたままの状態だった彼女から身を引いた。暴れるなどの抵抗をしないだけ、まだ彼女と自分の関係はマシなのかもしれない。
「ケガはない……な」
綺麗な純白が曇ることはなかった。さすがは、白い女の子。汚れてほしくはない。
「……そっちの方が……」
まじまじと彼女は、ラブズの左肩に注目した。そこにはどろりとした血液が滑っていた。さっきのガラスが掠ったのだ。流血こそ多いものの、そんなに痛みは感じない。
「ああ、これ? 大丈夫、たいしたことないから」
お気に入りのポロシャツが台無しになってしまったのはムカつくが、また買えばいいだけの話だ。消耗品だったと思っておけばいい。
「……それより、なんで君が狙われているんだ?」
ケガをしたのはラブズだったが、向こうは彼女の方をピンポイントで狙ってきた。それは、禍々しく突き刺された彼女の座っていたベンチの位置を見れば明瞭だった。
「あれは……。…………ごめんなさい」
質問に答えようとしたのだろう。しかし、彼女は俯きながら口籠ってしまった。その意味での謝罪なのだろう。彼女を責める気などは毛頭なかった。無論、答えられなくてもいいとも思っていた。
「いいよ、答えたくないなら無理をしなくて」
ポケットの中に突っ込んであった迷彩柄のハンカチを取り出し、口と右手を巧みに使って、幹部の左肩から下、上腕を縛り上げた。とりあえずの応急処置だ。これで血が止まってくれれば、十分だった。
「あなたの……名前を聞かせてください」
「え?」
かなり突発な質問だった。このタイミングで自己紹介をするのか。お互い名前を知らないというのはもっともだったが、まさかここで来るとは思っていなかった。しかし、教えない理由もないので、ラブズは素直に本名を晒した。
「ラブズ・ウィンゴ。十四歳」
「……ラブ? Loveですか?」
「多分、違うと思う」
そうだと信じたい。なにせ、そのラブズというのはどうも男の名前には似つかわしくないのだ。愛だの恋だの浮付いてるんじゃねぇよ。こんな名前を付けた親を許しはしない。……と思ったこともあったが、さすがにもう慣れっこだった。この手のネタは気にも留めない。
「良い名前ですね。とても……素敵だと思います」
相変わらず敬語で淡々と彼女は、ラブズの名前について誇大評価をする。聞いていて耳まで赤くなるし、照れ隠しに傷口の具合を確認するフリをする、
「君は?」
「草薙満」
有りえないはずの名前だった。
なぜならこの世界での名前にはいくつかの規則があるからだ。
その中でも特に重要な規則。健保にも定められていること。名前は男女問わずに、カタカナ表記で表されることになる。なのに、彼女の名前はどう考えてもカタカナだと思えない。ためらいがちなラブズは一歩後ずさりをした。
「それは……本名なのかな?」
「はい」
「君は……」
今更になって左肩に痛みが襲ってきた。焼け付くような苦痛。口の中が乾く。もっときつく縛っておけばよかった。後でちゃんと病院に行っておこう。消毒液が傷口に染みるかもしれないが、風邪の時の注射や点滴よりははるかにマシだ。というか、この前の貧血検査の時の注射が凄く痛かった。あの下手くそな医者のせいで、幼少の頃のトラウマが蘇ってしまったではないか。
そんなことを考えていたのだ。背けていたかったから。
最初にその『事実に』に気付いたのは、彼女と男が口論をしていた時の事である。遠目で見ていたせいで、細かい話の内容は分からなかったが、はっきりとその事実はラブズの記憶に張り付いた。きっと、そのせいなのだろう。彼女と目を合わせなかったのは。
今まで無かった体験に、全てを呑みこまれてしまいそうになるのを。それを恐れたのだ。だが、それももうおしまい。ようやく、その謎が解ける。
「君は、違う世界の人間なんだよね」
そう、見えなかったのだ。
彼女の名前だけが。
男の方の名前は、距離があろうとはっきりと見ることが出来た。あんな可愛い女の子と揉め事を起こすなんて、どういう奴なんだろう、と男自身が知るわけもない忌み名を知りたいと念じたのだ。そこで見たのは、『笹木惇平』という、忌み名だった。大して珍しくもない。しかし、彼女の忌み名は、彼女の前の世界での名前は見ることが出来なかった。
こんなことは初めてだった。
「厳密に言うと、少し違います」
「だろうね」
ラブズは痛む肩を無理矢理すくませて、余裕を演出させようとする。実際は緊張のあまり、ムカムカとした胃液を吐き出してしまいそうだった。
「正直に白状します。わたしは、このまま内緒にしようと思っていました。ただの通りすがりの女の子。ジュースを奢ってもらったことに感謝して、そして立ち去るつもりでいました」
「うん。俺もその方がいいと思うよ」
「ですが、それはあくまで何も起こらなかった場合です。……今も、館内はパニック状態のようですね」
満は図書館の方へと見やり、何やら苦虫を噛みつぶしたかのような顔をして、舌打ちをした。
明確過ぎる嫌悪。しかし、どうもそれは自分に向けられたものではなかったらしい。
「どうする? 人命救助でもする?」
「そうですね。できればそうしたいところです。……でも」
満は、飲みかけのメロンソーダをすべて喉に流し込んだ。そして、鼻先がぶつかりそうになるぐらいの距離にまで彼女は詰め寄ってくる。もう少しだけ、顔を動かせばキスぐらいできそうなほどだった。
慌てて、右手で口を押える。
「……あなたに、頼みがあります」
「頼み? っていうと、それはあれか。さっきの男だったり、今の襲撃が関わってくることになる? それともまったくも無関係で、昼ごはんを奢ってくれっていうことかな?」
「……前者の方です。というか、ここは物価が高すぎます。たかが、ジュースなのに五〇〇円もするとか、ふざけているんですかね?」
それは少し心外だった。物価が高いと言われても、そんなものはとっくの前に定められて、この世界の人間には定着している常識だった。外国に行けば、多少の為替があるかもしれないが、それでも大まかな値段は変わらないはず。
つまり、満にはこの常識が新鮮なのかもしれない。……過去からやってきた、タイムトラベル的なことをして来たのだろうか。ラブズは空想を膨らませていく。
「今、全財産いくらなの?」
「四〇〇円です」
「そりゃあ、行き倒れたかもしれないね」
なにせこの真夏日だ。ジュース一本も買えないようでは、昨日のラブズのように脱水症状を起こしかねない。なんで、それだけしかお金をもっていないの? とも聞こうと思い、その質問を引っ込めた。
なにか事情があるんだろう……。そう思うことにした。
満の髪が、涼風によって乱れた。
「だから、あなたには感謝しています。本当に……助かりました」
「……気にすることは無いよ」
「そうでしたか?」
首を傾げて、満はラブズの顔に視線を集中させた。右頬のあたりがむず痒くなる。
「ずっと黙っていたので、機嫌を悪くしてしまったのだと思っていました」
「……そんなことは、」
ない。とは言えない。たしかに自分が彼女に対して無愛想な態度をとり続けていた事実だし、だからと言って、それを懺悔しようとも思っていなかった。元々関わる必要なんてなかったのだ。軽い、良心から芽生えた気持ち。それが、ラブズの体を動かしただけだ。少なくとも、こんな風に彼女と話すことになるなんて、思ってもみなかった。
「それは、謝るよ。ごめん」
「……あなたが謝る理由がよく分かりません」
「分からなくてもいいよ。これは俺の問題だから」
「そうですか」
「……で? 頼みっていうのは、何なのかな?」
ラブズは左肩を抑えながら、不規則な呼吸を繰り返す。自分の顔が青白くなってくるのが、何となくわかった。もしここに手鏡でもあるなら、確認をしてみたい。きっと唇は紫色になって、舌は真っ白になっていることであろう。
「あなたは。選ばれたのです」