表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

ラブズ・ウィンゴに価値は無い

 ――そして、その横を通り過ぎて行った。ジワリ、と垂れた冷たい汗が口に含まれ、しょっぱい味が広がる。――何も言われなかったのだ。

 これで安堵できるはず。一番、ラブズが望んでいた安心できる結果だ。そうに決まっている。

 なのに、どうしてこんなにも自分は肩を落としたくなってしまうのだ。惨めな亭主のようにガックリと項垂れてしまいたくなるのだ。声を掛けてもらえなかった、という敗北感が自分をこんな窮地に追いやっているのだろうか。そんなはずはない。

 

 たしかに思っていたよりも何十倍にも可愛くて、危うくその魅力に囚われてしまいになったのは認める。異性として意識しなかったというのも過言ではない。でも、それだけだ。たった今、すれ違っただけのラブズ・ウィンゴと白い女の子はそれだけの関係なのだ。これからも、交わることはなく、街で会ったとしても気付かない程度の薄っぺらい関係。夏の思い出も、一夏の関係も何もない、ただの他人。

 不意に、足音が止まった。ピタリ、と。ラブズから数歩ほど離れた距離で、初めからそう設定されていたように立ち止まったのだ。だが、目を開く必要はない。早くいなくなってくれ。

 暑さを耐え忍ぶように唇を噛み締めた。だが、そんな暑さを壊すほどの出来事が起きた。


「これ、飲んでいい?」

「へぇん!?」

 

 あまりに唐突な質問だったので、呆けた声が零れ落ちた。なんという間抜けな大失態。そしてやっとのことで、ラブズは閉じていた瞳を開くという、行動に至った。

 久しぶりの光、というのは大げさかもしれないが眩しい日光がラブズの前髪から差し込む。そしてその視界のほとんどを埋めたのは、紛れもない彼女、白い女の子だった。

 彼女は、先程ラブズの手から落とされた五〇〇ミリリットルのペットボトルを手にしていた。ラブズが一気に飲んだせいで、あまり中身は残っていない。


「もらってもいい?」

 

 しかし、そんな僅かにしか残っていない黒い液体を彼女は欲しているのだ。ひょっとすると喉が渇いていたのかもしれない。なにしろこの暑さだ。昨日倒れたラブズだからこそ分かることだが、何も飲まずに直射日光に晒され続けるのは本当に辛いのだ。さらに、この図書館には水飲み場が無い。別の街のならば、お茶や麦茶などの無料サービスを行っているケースもある。だが、此処にはない。冷房などの環境設備はきちんとされているのに、酷く偏ったサービス精神だった。まぁ、図書館は客商売ではなく市が経営している公共施設のわけなのだが。


「もらってもいい?」

 

 全く同じ内容での質問を再度繰り返す女の子。なるべく目を合わさないように心がけたのだが、なにしろ距離が近いので視界に入ってしまう。


「あ……い、いいんじゃないのかな?」

「そう」

 

 緊張しているのかくぐもった声しか出ないが、彼女の耳はそれを聞き取ることができたらしい。もしかしたら結構聴力が良いのかもしれない。対してラブズはというとそこまで良い方ではない。学校で行われる検査では問題なしだが、遠くにいる先生の指示が聞こえないこともあった。彼女は、そんな遠方からの音も聞き取れるのだろうか。だとしたら、まるで忍者だ。

 

 彼女の小さくて、血色のいい唇が、つい先ほどまでラブズが口を付けていた場所に触れる。もっと丁寧に飲めばよかった、とラブズは今更になって思う。なにしろ、かなり荒い飲み方をしていたのだ。汚い男のぬめった唾の感触がまだ取れていないかもしれない。こいつの口臭が残っている、最悪。と思われるかもしれない。なによりこれは、間接キスだった。男同士の回し飲みならラブズも参加することはある。そんなに潔癖症なわけではない。だが、異性間の間になると話は違う。自分が女子の飲んだ器に口を付けることもそうだが、それよりも、自分が口を付けたものに触れられてしまうのが、怖い。前述したとおりに、生理的な嫌悪を抱かれてしまう可能性がある。それが嫌なのだ。

 

 だが、彼女はそんなことを一切気にしていなかったらしい。悶々として躊躇う事もなく、当然のようにゴクゴクと飲んでいく。女の子なので喉仏はないが、それでも白くて艶やかな彼女の喉が波を打つようにして動いていく。


「ありがと」

 そう言って、彼女は髪を揺らしながら頭を下げた。短いお礼の言葉。余計な、いかにも取ってつけたようなマニュアル通りの言葉ではなく、素直な気持ちから浮き出る心地良いお礼だった。少なくとも、ラブズは彼女の誠実さを感じることができた。とはいっても、まだ不信感を抱いていることは変わらないのだが。

 しかし、嬉しく思ったのも確かだった。女っ気が無い男子中学生ことラブズ・ウィンゴだ。こんなにも素直なお礼をされることは非常に珍しかった。だからこそ、だ。ラブズは飲みかけのアイスコーヒーだけでは、この胸の高鳴りが収まるわけがないと思った。もっと、彼女に奉仕をしなければこのお礼に見合うだけの価値が無い。

 

 ラブズは、白い女の子と一瞬だけ目を合わせる。

が、すぐに再び自分から逸らす。そして、きびすを返し、赤色のボディをした広告バナーが張り付けてある自動販売機の前に立ち、財布の中から最後の五〇〇円玉を取り出した。惜しむことなく、それを投入した。


「……どれにする?」

 

 目を逸らしたまま彼女へと促す。あまり愛想の良い態度とは言えないだろう。しかしこれが、ラブズの精一杯だった。どうせなら、もっときちんとした状態の飲み物を与えてやりたい。それだけだ。


「いいの?」

「うん」

 

 それだけのやり取り。女の子は、細い脚線を描きながら駆け足でラブズへと近寄ってくる。その動きの一連といえば美しい。の一言に尽きるのみだった。ついつい、見照れてしまう衝動を抑えながら、すり寄ってくる彼女のために、一歩横に引いた。


「これでいい?」

 

 彼女のシルクのような白い人差し指が、緑色の炭酸飲料を示した。体に悪そうな砂糖の塊ともとれるメロンソーダだ。あまりお勧めできないが、彼女が所望しているので断る理由がない。というか、彼女の健康管理にまで気を遣う必要はまったくないのだ。


「どうぞ」

 

 ガシャン、と落ちてきたメロンソーダを掴み取り、なるべく優しい手付きを心がけて彼女降に手渡した。ジュース二本。計一〇〇〇円。わりと痛い出費だった。

 だが、彼女のこの飲みっぷりと言ったらどうだろう。つい先刻まで、見知らぬ男に言いがかりをつけて鬱陶しく思われていた女の子と同一人物とは思えない。そこには、まるで明るさを満ち合わせている子供のような微笑みがあるのだ。

 

 たかが、ジュースだろ。と思うかもしれないが、買い与えた当人としては、喜ばれて嬉しくないわけがないのだ。どうせなら、ファミレスでもっと良い物を奢ってやればよかったな、とか本気でそう思ってしまう。少々お人好しが過ぎるのかもしれない。

 それにしても魅力が過ぎる女の子だ。

 ラブズはそんなことばかり考えていたのであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ