白い女の子
初めのラブズ・ウィンゴもそうだった。
親友のフォキオ・レバングにカバンを持たせたり、ジュースを奢らせたり、とそれは、それは彼をいいように使っていた。それが小学校高学年ぐらいのことである。ただの偶然なのか、運命だったのか、ラブズはたまたまファキオを『嘉賀直人』という名前で呼んでみたのだ。
間違ってしまったと思い、首を傾げるファキオに慌てて弁明をした。
『嘉賀直人……っと、ごめん。悪いけど、ボールを持ってきてくれないかな?』
バツが悪そうに、誤魔化すようにしてラブズはファキオにそう頼んだ。ただ、当時のファキオは少々、聞かん坊の気があり、少なくともラブズの頼みに黙って頷くような少年ではなかった。そのはずなのだったのだが……
『分かりました』
『え? 冗談だよ、ファキオ。俺が持ってくるからここで待っていて……って、おい!?』
呼び止めようとしたラブズの言葉が聞こえなかったのか、無機質な足取りで去って行ったファキオの姿が今も眼に焼きついている。
まるで人が、人じゃなくなるみたいにして、彼はボールをラブズに手渡してきた。その時掻いた冷や汗の感触は今も忘れない。だが、ボールを受け取った途端、彼の意識は元に戻った。
『よーし! はやく、ドッジやろうぜ! ドッジ!』
『あ……お、おい……おまえ、大丈夫か?』
『ん? 何言ってんの? 頭でも打ったのか?』
『あ、あのさ! ……このボールって……誰が持ってきたんだ?』
ただの模擬確認のようなものだ。彼の意識があったという確証なんて無かった。
『はぁ? 俺に決まってんだろ? ま、今日はたまたま気分が乗ったからやってるんだけど、それがどうかしたのか?』
『いや……何でもないよ』
妙に思考回路が偏っていたラブズ少年は、何となくだがその意味を理解していた。意識が飛んだ状態のファキオの記憶は消されたわけではないのだ。ただ、改ざんされている。都合のいいように。何もおかしいところがないように。
それきり、ファキオの事を、嘉賀直人と呼ぶことは無かった。
単純に怖くなったのだ、ファキオの事ではない。自分自身が。
人を操れることができる。それは子供にはあまりにも過ぎた力だったから。いや、大人にだってそうだ。危険で、手に触れては駄目なもの。本能でそう感じ取った。
故に、ラブズはその日以降一度も、誰も操っていない。モラル的な意味もあるが、それはあまり重要ではない。自分の事を、ラブズ・ウィンゴが今までの世界で生きられるように。
何の変哲もなく、特に目立った争いもなく、突拍子もないことなんて起きない世界。
その世界から、抜け出てしまいそうだったから。
「考えても仕方ないか」
誰の耳にも届かないであろう、小さな呟きを本に吹き込む。
大体の謎を解くことができたので、今日はこれで良しとしよう。釈然としない部分もあるが、それはこの際問題ではない。重要なのは、唯一つ。
二度と、誰かの忌み名を呼ばないことにする。
絶対に、だ。
知識の根源たるもの、その全てをラブズは閉じる。
立ち上って椅子を引く。他の使用者に迷惑がかからないようにして、なるべく音が鳴らないように心がける。
本を所定の位置へと戻し、カウンター越しに微笑む司書さんへと、軽い会釈をする。
とにかく、今日の目的は終わった。後は帰って、ダラダラと夏休みを噛み締めるだけだ。退屈だけど、大切で、どこか懐かしささえ感じる、ひまわりの季節。
早く、その日常に帰ろう。そう思うラブズの足取りは自然と速度が増す。とにかく布団の中に潜り込みたい気分だった。潜り込んで、温もりを孕ませた毛布に体を包み込む。そんな映画の中でヒロインがするようなワンシーンをしたかった。
「ふわぁ~あ」
体の中に張り詰めていた緊縛を解くための、欠伸。ただの気なしにもなりはしない。
目をシパシパさせて、乱雑に擦る。あまり衛生的にはよくないだろう。手が清潔じゃなかったら結膜炎になるかもしれない。あくまでも、運が悪かったらの場合だが。
少しだけレトロなボタン式の自動ドアを開き、ラブズは一階にある展示室の方へと足を進める。この図書館はさして珍しい事ではないが二階建てなのだ。二階が蔵書の並ぶ、図書室。そして一階には町の歴史を辿る展覧品だとか簡単な売店がある。子供連れの母親が、この場所に連れ出すこともしょっちゅう見かけていた。小さな子供は図書館というか、静かな空間を苦手としている子も多い。たまに、ぐずってしまって迷惑をかけてしまう子もいる。ラブズは温かい目で見守ることが多いが、それを快く思わない人もいるだろう。だから、そういう場合母親は一階に子供を連れて泣き止ますらしい。
踊り場に足を踏み下し、そんな子供は今日もいるのか、と一瞥する。
「……今日は、いないか」
甲高い金切り声にも近い泣き声を上げる子供も、それを優しく抱擁する母親の姿もない。
どうやら今日は静かな読書時間になりそうだな……と、ラブズは図書館で勉強していた受験生や、優雅な時間を過ごしていた人たちへと安堵の感想を漏らす。
そう思っていた時の事だ。
「だから! 人違いなんじゃないですか!?」
「……わたしは間違ってません」
「僕は、ここに本を借りに来ただけですよ!」
子供ではなく、大の男の叫び声がラブズの耳に飛び込んだ。
少し驚いたので、手すりから声が聞こえてきた方へと覗き込むと、
「あなたは選ばれたの」
「ですから、僕はそんなことは有りえないと思っていますし、あなたのことも知りませんし、大体そんな夢物語みたいな話信じられませんよ!」
「でも、選ばれた。これは決まっていることなんです」
(なんだ、あの女の子……)
距離があるので細かい会話まで聞き取ることはできないが、端的な内容なら理解した。どうも、痴話喧嘩の類ではなさそうだ。新手のセールスだろうか。不審に思いながらも、しかし、そのセールス少女の姿に、ラブズは見とれていた。
白くて長い髪。かといって、年老いて脱色したような不健康そうなものではなく、きちんとした艶が合って透き通るような髪色だった。自分の赤茶髪の毛とは次元が違うぐらい、綺麗な髪の色だった。それだけで彼女の存在感がくっきりと浮き彫りになり、思わず目を丸くしてしまう。
つい、マジマジと見つめてしまう。あまり格好いい光景とは言えないだろう。なにしろ、口論している男女のことを目に焼き付けているのだ。はっきり言って、気持ち悪い。後ろ指を指されても仕方のない事だと思える。
しかし、見ずにはいられなかったのだ。野郎の方ではない。女の子の方に。
「とにかく! 僕は関係ありませんからね!」
女の子の手を乱暴に振り払い、男は図書館から出て行った。不機嫌そうにジーパンのポケットに両腕を入れながら、雑踏の中へと消えて行った。
(まぁ、当然の反応だよな……)
と、ラブズは去りゆく男の背中を遠目に眺めながら思っていた。なにしろ、いきなり訳分からん電波な事を次々と、マシンガンのように言われたのだ。誰だってそうなるだろう。それも、可愛い女の子から、と来たもんだ。初めの内は対応に困って、その話に耳を傾けていたのだろう。だが、聞いていくうちに段々と苛立ちの方が強くなってきた。……そんなところだろう。
白い女の子はといえば、特にがっかりした様子もなく、男を追うわけでもなく、ただただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
この場所からでは表情を伺うことはできないが、彼女の動作を見る限り、さほど悲しんでいる表情ではないのだろうな、と勝手な想像をラブズはしていた。
「さて、俺も帰るとするか」
白い女の子に興味が無い、と言えば嘘になるが、早く帰宅して安堵の一息を吐きたいという欲求には勝らなかった。変な娘だってけど、少しかわいそうだなとも思う。だとしても、自分は他人。第三者のラブズ・ウィンゴが話に加わったところで、何の解決にもならないだろう。それに、ラブズは女子と会話するのは、超がつくほどに苦手だった。嫌いと思われるぐらいに、無愛想な相槌しか打たないのだ。打てないのだ。それも全く見知らぬ娘だったら、尚更だ。
心にも思っていない、ごめんなさいを、胸に仕舞い込み、彼女の横を通り過ぎようとした。なるべく顔も見ないようにして。目を合わせないようにして。