7月28日 少女+お父さん=???
7月28日の朝。相変わらず蒸し暑い日が続き、肌のベトベトした感触で目が覚めた朝日が眩しい朝だった。
体の節々が痛く感じながら上半身を上げる。伊織は周囲を見渡して、昨日の出来事が全部夢幻ではなかったのを確認。二日前まで自分が独占していたベッドにはパジャマ代わりの灰色パーカーは捲れ、ヘソどころかパンツ丸出しのナルミが静かに寝息を掻いていた。
床に蹴落とされていたタオルケットを改めてナルミに掛け直した伊織は、朝食の準備を始めた。炊飯器にはいつもより多めに白米が炊かれている。おかずは肉無しの野菜炒め。キャベツにもやしと塩コショウで味付けして炒めた簡単料理。食材がこれしかないので、ナルミにはこれで勘弁して貰おうと調理を終え、使用したフライパンを水に浸して、朝飯をナルミが寝る部屋の丸テーブルに運ぶ。
しかしどうしたものか。伊織は仕方なしにナルミを泊めてあげたものの、自分の職業を考えるとこれはいけないことだと分かっているはずだった。
伊織の職業は警察官、交番に勤務している普通のお巡りさんだった。
高卒でノンキャリアの普通の警察官。実は高校の運動系部活動で非常に良い成績を残し、大学から誘いの声もあったが、どういうわけか警察官になっていた。
警察官とは法律に乗っ取り、市民の安全安心を提供する。その警察官の端くれでもある伊織が、年端もない他人同然の少女と暮らしていると世間に知られればどうなるか?
伊織の行為は未成年者略取及び誘拐罪に問われる可能性もあり、そんな罪に問われる警察官を市民は信じられるか?
答えは否だ。
だから伊織はこの少女をどうやって親元に帰そうか、昨日寝床に着く前から考えていた。
まあそれはともかく。
今は可愛い寝顔でスヤスヤと気持ち良さそうに寝ているナルミを起こさなければ。伊織は肩をポンポンと軽く叩く。
「朝だぞ。ご飯出来たから起きろよ」
「……うぅ」
現在の時刻は午前9時前。昨日は日が変わる前には消灯したので、それなりに睡眠時間を確保できたはずだが、鳴海は何だか眠たそうであった。
「どうした? 何か気分でも悪いのか?」
伊織の質問に、ナルミは目を擦りながらこう訴えた。
「なんか、呼吸すると胸の下の辺りが痛くて、あまりよく眠れなかった……」
ああなるほど、と伊織は納得して「もう少し寝るか?」と提案するが、「……いい」と首を横に振ってご飯が置かれたテーブルの前に座る。
まだ眠いのか、ボーっとしながらナルミはおかずと白米を交互に食べるのを繰り返す。時折首がカクッと一瞬力が抜けて、夢の世界へ行きそうになるが、なんとか最後まで伊織が作った朝食を食べ切った。
「ぼ、僕、片付けるから」
ナルミは食べ終えて空になった食器一つに積み上げ、そのまま片そうとするが、寝不足と疲れが溜まっているのだろう。今にも食器が落ちそうにガチャガチャと音が鳴る。歩き方はまるで酔っぱらいのようだった。転ばないか心配する伊織だが、無事台所に辿り着けた。そして流し場に食器を一つ一つ置こうとするが、
「あっ」
最後に目玉焼きと焼き鮭が乗っていた大きめの皿を滑り落として、ナルミの足元で細かいガラスの破片となった。
「西東! 大丈夫か?! 今破片を綺麗に掃くから、そこを動くなっ」
「あわ、あわわわわ……」と取り乱すナルミは何を思ったのか、突然その場にしゃがんで割れた皿を拾い集めようとした。そして、
「いつっ」
指を切った。赤い液体が一滴、二滴とフローリングの床に滴り落ちる。伊織は箒を取り出し、ガラス片をキッチンの隅っこに纏めて、ナルミの怪我の程度を見た。
思いの外深く切れた右手の人差し指は血で真っ赤に染まり、ナルミは涙目になっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「なに言ってるんだよ。気にしなくていいよ」
「ごめんなさい、お父さん……良い子にするから、もうぶたないで……」
一瞬、伊織は少女が何を言っているのか分からなかった。お父さん? ぶたないで?
睡眠不足と食器を割ってしまったショックからか、混乱して意味不明の言葉を溢す。
「もう勝手にお菓子食べないから……味噌汁こぼさないから……テレビを見て笑わないから……食器割らないから……
だからもう、いたいのもあついのもいやだよぉ…………」
取り敢えず自前のテーピングとガーゼを普段から置いてあるテレビ台の中から取り出し、傷口を水で綺麗に流そうと思い、ナルミに触れようとしたが、
「ひうっ!!」
頭を抱え込んでその場にうずまり込んでしまう。どうやら伊織が攻撃すると勘違いして、防衛本能が作動したのだ。
伊織はナルミの顔を無理矢理見開かせて、自分と目を合わせる。
「俺が誰だかわかるか?」
「ぁ……、お、ぉにぃ、さん……」
カタカタと歯を鳴らしながらも、目の前にいる人物が伊織であると認識した。
「そうだ、俺だ。これから右手を洗うぞ。わかったか」
「――は、はい」
ようやく精神状態が落ち着いたナルミの血だらけな手を洗い消毒液を垂らして、ガーゼを当てながらテーピングで傷口を完全に塞いだ。
怪我の治療が終わる頃には、ナルミも完全に正気を取り戻した。
「ご、ごめん、な、さい……お兄さん…………僕、何か、言いましたか?」
「言ってたよ」と正直に答える伊織に対し、ナルミの表情は暗く沈んだ。
勘の良い伊織はある程度、彼女の境遇について推測した。父からの虐待。それから逃げ出すナルミ。そして昨日伊織と出会う。何らかの理由で虐待のことを知られたくないから、警察には行きたくないし、病院には入院したくない。
しかし、推測は推測。どんなに推測や憶測を立てても、現実は彼女の口から聞かないと、真実は分からない。
「まったく、面倒臭い猫を拾っちまったな……」
溜め息交じりに伊織は呟く。
「ね、ねこ?」目をパチクリとするナルミ。
「あー気にしないで。俺の独り言」
拾ったものはしょうがない。今は猫を捨てる家族も、ここから追い出す理由も特にない。だから伊織は決めた。
彼女の気が済むまで、ここに居させ、そして彼女の助けになろうと。
「今日のお昼は何が食べたい?」
「――え?」
「食べたいものだよ。俺的には久しぶりに素麺が食べたいところだけど、西東の意見を聞かないとさ」
ナルミは何でと瞳に涙を潤わせながら、伊織を見つめた。
「だって、しばらくはここに居るんだろ? だったら同居者の好み位把握しないと」
ナルミは伊織の言葉の意味を理解するのに、少し時間が掛かった。きっと自分の身の上を少しでも知った人間に、このような言葉を掛けられるとは思わなかったのだろう。
しばし顔をパーカーの袖で拭った後、ナルミは目を真っ赤に腫らしながら笑っていた。
「カレーと、ハンバーグが好きです」
人は怪我をすれば病院へ行き、自転車が壊れれば自転車屋に行くのが普通だ。
というわけで現在伊織は破損したナルミのロードバイクを修理すべく、自転車屋へ赴いていた。
店員さんは前輪が歪んだナルミのロードバイクを「こりゃあ厳しいな」と見た。
「前輪が破損している上に、結構この自転車ボロが来てます。一体何年使い込んだんですか? これは修理するより新しいの勝った方が良いですよ」
良く見れば所々錆びている年季の入った自転車だった。店員によれば、この自転車は十年も前の型式で、以前にも修理した跡が見受けられるとの事。壊れた部品を治そうにも修復・修理共に不可で、交換しようにも取り寄せるだけで高く値が付くらしい。少なくとも数万は掛かるので、新しいのに買い換えた方が得だと。
店員にお礼を言い、一先ず壊れたロードバイクと共に店外へ。このロードバイクがナルミにとって大切な品だとすると、勝手に捨てるわけにもいかなかったので、ナルミに連絡を取った。
二つ折りの黒いケータイを取り出し、自分の家へ電話をした。
しかしナルミは電話に出ず、留守番電話サービスに入った。他人の家の電話だし、出ないのも当然かと一人納得する。
しょうがないとキューブに乗り込み、近くのスーパーへ向かった。
スーパーヨカベニー。伊織の全国展開中の激安スーパーチェーン店。以前は違うスーパーも存在したが、ヨカベニーの商品価格が異常に安く、価格競争に負けたスーパーはことごとく潰れ、ヨカベニーが新しく建った。
今日の昼は、やはり素麺が食べたいと買い物カゴに乾麺タイプの素麺を入れ、麺つゆってあったかなと台所の調味料棚を思い返していると、男性特有の低い声で伊織を呼ぶ声が聞こえた。
「おー伊織ちゃーん。ご無沙汰振りだねぇ」
「あ、どうも、畑中教官」
「いい加減教官なんてやめてくれよ。今は畑中課長なんだからさぁ」
缶ビールやらチューハイやらスルメやら冷凍枝豆やら、これから宴会でも始まるのかというくらい詰められた買い物カゴを引っ提げ、不精髭に白髪交じりの髪に灰色のジャケットを羽織った畑中形部がいた。
畑中は伊織の警察学校時代の担当教官で、去年の昇進試験に受かり、めでたく畑中科長になった。
「全く、来週から花火大会なんてメンドーな行事があるもんだねぇ」
「そうですね」
「去年はどうだった? 雑踏警備は」
実は畑中、昇進転勤で今年の4月に伊織の勤める署に来たのだ。なので花火大会については殆ど知らない状況である。
「大変でしたよ。喧嘩や迷子の情報が逐一無線で飛び交って、一時署の方でも混乱してましたよ」
「聞いた聞いた。しかも地元の祭りと花火大会の期間が被るから、連日大変だって」
「ある程度覚悟した方が良いかもしれません。でも祭りの6日間の内2日は休めるので、その日にどれだけ体力を回復できるか勝負所です」
余談であるが、伊織は去年この雑踏警備で一回倒れた。伊織は警察の中では体格が良く、喧嘩の仲裁に駆り出されたもので、少し担当区域から離れていても、無線で呼び出されて疲れが溜まっていた。祭り最終日、交番前の立番時に遂に疲労が爆発し、直立不動のまま倒れた。伊織はその前後の記憶が欠落していたが、その際同じ交番勤務の小川巡査に「まるで戦国BASARAの武田信玄が死んだ演出と被りました」と証言している。
「話は変わるけど伊織ちゃん、彼女出来た?」
「いえ、まだ」
「そうなの? 早く作った方が良いよ。俺達の職業は出会いが少ないから、俺みたいに独身で今の年になっちゃうよ?」
ハハハハッとご機嫌に笑う畑中に対し、伊織は乾いた笑いしか出なかった。
「ホント、この年になると寂しいもんだ。もしかすると、この先一生独り身の可能性だってある。俺はもう半分諦めてるけど、お前は誰か相手見つけろ」
と言われても、伊織はこの年まで女性と手を繋ぐ以上のスキンシップをしていない。同じ署の先輩に誘われ何度か合コンにも参加したが、どうにも合コン特有の、あの空気が苦手であった。しかし伊織には酒が強く、場を仕切る能力を持ち合わせていたので、合コンの幹事として参加していた。
「おっと、だからって、女性選びに失敗すると、金と子供取られるから、気を付けろ。――俺みたいに」
最後に意味深な言葉を残して畑中は会計の為レジへ。伊織は、晩御飯はハンバーグカレーにしようと張り切って肉売り場で、まずは肉を選んでいた。