7月27日 事故+家出少年=共同生活
日が沈み、街が寝静まったとある夏の日。
夏休み真っ盛りと言うこともあり、命を削りながら鳴く虫の声をBGMに、伊織伸司は夜のジョギングに精を出していた。
24時間勤務3交替という特殊な勤務態勢の勤め先では、体力を必要とされるので、こうして良く町中を走っていた。
今日のランニングは1時間半である。仕事上、街を隅々まで把握するのも大切なので、出来るだけ毎回違う道を通っている。最初の頃は道が分からず迷子になり掛けたこともしばしばあったが、最近はそのようなこともなくなった。日頃の成果だ。
勿論道だけでなく、街の状況も併せて確認している。コンビニ等に不良はいないか、不審な人はいないか、困っている人はいないか。
まあこの辺の治安は良いもので、ジョギングの最中にそのような人たちを見た試しがなかった。
だが今日は少し違った。
自宅付近の十字路で青信号を確認して、横断歩道を渡り終えようとしたときだった。
一台のロードバイクが信号を無視して、伊織の元へ突っ込んできた。
咄嗟の判断で、伊織は足の瞬発力を存分に使って歩道側へ飛んだ。回転しながら受け身を取りながらロードバイクに目を向ける。
ロードバイクのほうもハンドルが狂ったのか、方向が安定しない。そして歩道と車道を仕切る小さな段差に乗り上げた。
スピードもそれなりに出ていたので、ロードバイクは宙に舞う。空中でバランスを失ったロードバイクは傾きながら地面に着地した。
着地の衝撃にロードバイクは倒れ、乗っていた人も地面に打ち付けられながら少しコンクリートの上を滑る。伊織はその光景に呆気に取られはしたものの、すぐさま我に返ってロードバイクの元へ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
倒れていたのは中学生ほどの少年だった。青い自転車用ヘルメットに、NIKEのジャージ。背には黒の登山用カバンがあったが、片方のベルトが破損し、右肩に引っかかっている状態だった。
呻り声を揚げながら少年は自分の力で立とうとするが、上手く立つことが出来なかった。
「す……すいませ、ん……僕の、不注意で……」
左手に力を入れて上体を起こそうとした。だけどもそんなことすら出来ないほど、苦痛の表情を見せるだけで1人で立ち上がることすら出来ない状況であった。
「ちょっとごめん」
伊織は手慣れた手つきで少年を介抱し、怪我の状態を確認した。その結果、少年の左手が折れている可能性があった。頭を打った可能性も考慮して、119番通報をした。
序でに警察にも一方を伝えようとも思ったが、少年は「警察は、止めて……」と懇願したのでその通りにしてあげた。何か理由でもあるだろう。
通報して僅か数分で救急隊がやってきた。最寄りの総合病院に搬送すると言うことなので、伊織は転んだ衝撃で壊れていたロードバイクを家まで持ち帰り、汗だくの服を着替えて少年が運ばれた病院へと車を向かわせた。
伊織の愛車は旧型のキューブだった。親からのお下がりで譲り受けたものだが、燃費は最新のものと比べ悪いし、内蔵されているカセットテープレコーダーも壊れている為、最近買い変えようか悩んでいた。だが伊織の予算的に一括で購入できるのはけ安い軽自動車ぐらいで、買い換えられずいる。
ローンや借金が嫌いな伊織は、家以外のものは一括で支払うのを信条としている。親戚でローン地獄の姿を間近で見た影響だろう。勿論パチンコやギャンブルの類も大嫌いであった。
病院は深夜ということもあり、誰もいなかった。通りすがりの熟年ナースに緊急搬送された少年はどこかと聞くと、懇切丁寧に少年がいる外科まで説明され、感謝の言葉を言い残して第三外科室まで足を運んだ。
第三外科室前の椅子で待っていると、ドアが開き、左手首にサポーターを付けた少年が出てきた。
「保護者の方ですか?」と伊織は少年の後ろにいた医者に訊かれ、「いえ、違います」と答えようとしたが、少年は、
「僕のお兄ちゃんです」
なんて真顔で嘘を吐く。どうやら少年は嘘を吐くのが得意のようだ。
「全身打撲と、左手首の靭帯が伸びていました。あと肋骨にヒビが入っています」
医者は少年の入院を薦めてきたが、少年は強く拒否してお兄ちゃんと帰ると退かなかった。
少なからず少年の事故の一端を担っていると思っていた伊織は、少年の意を汲んで、医者の薦めを断った。
受付で少年の治療費を払う伊織だが、左手首のサポーターと、今は少年がジャージを着て見えないが医療用コルセットを装着している。その代金は軽く万を超えたため、明日改めて払う事になった。
ついでにここで伊織は少年の名前を知った。少年は保険証を持っていて、精算の際に軽く見た。西東成実。サイトウセイジか、と伊織は少年の名前を忘れぬよう心の中で何度も復唱した。
取り敢えず西東をキューブに乗せた。
「これからどこ行く?」
「お兄さんの家」
「俺の家って、君の家じゃ駄目かな?」
「いや」
伊織は頭を悩ます。どうやら西東は伊織の予想していた家出少年で間違い無さそうだ。
「どうしても?」
「いーやっ!」
伊織は深く溜息を吐く。警察に連れて行こうとしたが、止めた。西東の左手首のサポーターや額にできた傷を見ると罪悪感に刈られ、渋々西東の注文通り伊織の住むアパートへと車を走らせた。
伊織の住むアパートは1Kの築10年。一人暮らしにしては充分な広さである。
一日くらいなら良いだろうと甘い考えであったが、それが大きな間違えであったと気付くのはそう遅くは無かった。
病院の敷地内を出て数分後、伊織は車内の異臭に気付いた。だが助手席に座る西東は、鼻歌混じりに車窓の景色を観覧していた。
「なあ」
「ん? なにかよう?」
「何か臭わないか?」
あー。と西東は異臭の原因に心当たりがあるようだった。そしておもむろに右手を伊織の顔面に近づけた。
「くさっ!!」
「ごめん。僕が臭いの発生源だ」
聞けば、臭いの原因は数日間ロードバイクで県を跨りここまで漕いで、風呂にも入らなかったからだそうだ。
ランニングを終えた後の為に沸かした湯船は丁度良い具合だったので、西東をまず風呂にぶち込んだ。
伊織は押入れから西東に合いそうな服を探している最中、昔三毛猫を拾った事を思いだしていた。小学生の頃、彼は小さな子猫がダンボールの中で雨に打たれているのを可愛そうだと家に持ち帰って来た。しかし猫アレルギーだった母は、その子猫をまたどこかに捨てて、しばらく彼は心に傷を負って、学校に通えない期間があった。もしかしたら伊織はその猫と少年を被せているのかもしれない。
懐かしさに浸りながら少年の着替えを捜索していると、風呂場の方から声が聞こえた。
「お兄さーん、タオル無いんだけどー」
「分かったよ。ちょっと待ってて」
押入れの奥から高校の時に使っていた灰色のパーカーと青の半ズボンを適当に引っ張り出し、タオルと共に洗面所に行く。
キッチンと洗面所を仕切るカーテンを引き、そして閉めた。
「? どうしたの?」
伊織は何かの見間違いだと信じたかった。カーテンの向こうには、全裸の少年がいた。
いや少年ではなかった。カーテンの向こうにいるのは――
「ちょっと、湯冷めしちゃうじゃん」
――カーテンの向こうにいたのは、素っ裸の女の子だった。
彼女は裸を伊織に見られても平気なのか、彼の手に持つタオルを引っ剥がし、全身の水滴を隈なく拭き取った。そしてまだ湿っている髪にタオルを巻く。いやそれよりも違うとこをそのタオルで隠せよと冷静な伊織なら突っ込めたが、なにぶんこの状況だ。冷静な判断など彼にできる訳もなかった。
中性的な体格で、女性としての魅力が全くと言って無い彼女の身体であったが、生まれてから21年異性と付き合った試しがない伊織が初めて間近で見る生きた異性の裸。幾ら一部のマニアしか喜ばないような身体であっても、伊織が動揺するのは当たり前だった。
「な、なな、な――」
「な? あ、それとこのコルセット、上手く付けられないから手伝って」
伊織の気持ちも露知らず、西東はどこを隠す素振りもせずコルセットを差し出す。
「ほら、早くしてよ」
普通ならば西東が顔を赤らめる場面であろうが、逆に伊織の顔が茹蛸のようになっていた。意外とこの男は純情なのだ。
「自分で何とかしろっ!」
着替えを洗面所に投げ入れ、カーテンをシャッと勢い良く閉めた。
動悸が治まらない。
伊織は自分がそっちの世界の住民だという錯覚に陥りそうになる。心臓がバクバクと静まる様子は無く、荒く息を続ける。
いやいやそれはありえないと頭を振る。しかし、あの少女の滑らかで無駄な肉が一つもない美しささえ感じられるあの肢体を、彼は生涯忘れないだろう。
「まったく、こっちは怪我人なのに。そんな扱いしなくても良いでしょ」
再びカーテンが開かれると、ダボダボのパーカーだけを羽織っていた。半ズボンは西東の手に畳まれた状態だ。つまり彼女は、
「下も着ろよ!!」
パーカーの下は何も着ていない。
「だってこのズボン、デカすぎてずり落ちるんだよ」
しかし、幸いというべきかなんというか、パーカーは西東の膝上まで隠れていて、ワンピースのようにも見える。彼女の話によれば下着は持っているようなので、パーカーの下には下着があると伊織は一安心する。だが首元からは胸元も覗かせており、少々色っぽい格好となっていた。
「そういえばお兄さん、自己紹介がまだだったね」
「あ、ああ。俺の名前は伊織、伊織伸司」
「僕は西東成実。よろしくね」
これが伊織とナルミの初めての出会いであり、これから夏が終わるまでの誰にも知られてはいけない共同生活の始まりであった。