疾風のように
この街は駅を中心にした暮らしが根付いている。その為に、駅近辺には巨大な百貨店が立ち並び、レンタル店、呉服店、ゲーム屋、本屋、ジュエルショップ等など、生活しやすいように、様々な店が連なっていた。そこは商店街となって、人々の暮らしの根本たるとなる。
私はその、およそ一般的な作りであろう街にある、私立高校に入学した。
容姿端麗……とは言い難いが、平均だと思いたい容姿を持ち、頭脳明晰、と言えるのは特定の趣味にのみ。勉強は平均よりやや出来ると自負しているが、客観的に見れば真実の程は分からない。
つまり私は、そういった多分一般的だろうと願いたい一女子高生となることができたのである。そしてその生活が始まって一週間が経ち……。
学生生活が始まると、およそ一週間で極自然的にグループが別れ、似た者同士、気の合う同士で集まったりつるんだりする。中には独りのほうが好きなモノもいたり、グループに入れずはみ出したものも居るが、基本的に二人ないし三人から五人程度の集団となって多くの行動を共にする事になる。
最初の方は同じ中学出身の人間と仲良くするかもしれないが、個人の生活、友人関係が確立され始めると、その関係もやがて希薄に為り始める。最も、私はその旧友が居ないのだから、その心配をする必要はないのだが……。
「ねーミズキぃ、昨日のアレ見た?」
私は入学初日に二人の友人を作る事に成功した。が、同じクラスの、今話しかけてきた彼女は割合に、”失敗した”方だと、わたしは思う。声を掛ける人材を間違えたのだ。しかし、あの状況では声を掛けなければいけなかっただろうし、私にそれ以外の選択肢は提示されていなかったのだから、仕方が無いと言い訳しても誰も咎めはしないだろう。彼女にいたっては手放しで誉めてくれると思う。うれしいことではないが。
彼女は――明るめの肌は光を当てるとまるで透けてしまいそうなほど繊細で、白すぎた。きめ細やかな肌が造るのは端整な顔立ち。通った鼻筋に、切れ長の眼。男勝りとも見えるが、凛々しいと言い換えることも出来そうな口元は締まっていた。短い髪と思われた髪はただ癖が付いているだけらしく、後ろ髪は跳ねていた。髪は軽く眼に掛かって、もみ上げは耳を隠して顔に掛かる。ウルフカットと説明したほうが早いだろうか。
締まった肉体は、完全なる戦士――もとい、体育系を思わせる。膝より短いスカートから見える太腿は無駄な肉をそぎ落としたかのように太く、力を込めると中で筋肉が胎動する。傷一つ、無駄毛ひとつ無いそのカモシカの如き足は、彼女が持つに相応しい美脚だった。
だというのに彼女は、
「まぁ、一応チェック程度だけどね」
「いやいや、あたし的には今期一番の当たりだと思うわけですよ!」
「今期って、まだ四、五本しか放送開始してないじゃない」
「でもでもさぁ、いやあね、震えたよ魂!」
いわゆるオタクと呼ばれる人種であった。
人は外見にはよらぬと言う事が良くわかり、良い経験となった――という感想で締めたいが、この三年間、これからの三年間、恐らく彼女とは切っても切れない縁となりそうだ。なぜならば、私も詰まる所の同種だからである。
最も――この趣味が重なった、という所は単なるきっかけに過ぎないだろう。何か本能的にそう思わせる何かがあった。私は狡猾に、訓練された麻薬探知犬の、あるいはトリュフ豚の如き嗅覚でそれをかぎ分けたのだ。しかしそれが何の匂いなのかは分からない。その匂いの根源の存在をそもそも知らなければ、何の匂いなのか分からぬのは、ごく当たり前のことなのだ。
――チャイムが鳴る。ざわめいた教室内が少しそのトーンを落とし、それぞれ個人が割り当てられた席に着き始めた。直後、教室正面のドアが開き、影が胸を張って入り込む。このクラスを担当する、教師だった。
男性教員は落ち着いた態度でざっと教室内を見渡し、簡単に出欠席を確認する。見た目はまだ二十代であろうが、随分な落ち着き具合であると、私は天からの如き評価を与えた。彼はそれから二言三言、諸連絡を生徒全体に伝え、さらに該当する委員を名指ししてまた連絡を伝える。腕時計で時刻を確認すると、彼は「それじゃあ」と始めて、
「以上っ!」
かつて西洋に居たとされる竜の咆哮は、このようなモノだったのだろうか。
声が衝撃となって室内を激震させる。ビリビリと肌を叩くのはやはり動かされた空気であり、その気迫にただでさえ小さい肝が縮む。湯通しされたようだった。
彼はそれを最後に、教室を後にする。締めの言葉からドアをくぐるまで、彼は得意気な笑顔で、故にこのクラスで人気を博していた。
爽やかなルックスに、親しみやすい笑顔。たまに入るユーモアや、簡潔な諸連絡と、分かりやすい授業などがその要因だろう。私もどちらかといえば、好意的に受け取ってやらない事も無い男だった。
――ともかく私はそういった風に順調に、女子高生としての生活を始めたのだが……。
「ちょいとおしっこ、もとい黄金水、ないし聖水、ちっこ、しっこ、おちっこ、等など様々な呼称が存在する小水を排出してきたいんですがかまいませんね?」
「ただ静かにひたすらに”花を摘んでくる”とだけ残して行って来なさい」
昼休み、私はふと尿意を催して彼女――流石琴巳に、トイレに言って来るという意味の言葉を告げた。彼女は弁当をつついていた箸を止めて、あからさまな表情を私に見せながら、親指で背後を指した。その先には教室の出入り口があって、彼女は続けてそういった。
私は促されるままに、というかほぼ自発的に教室を出てトイレを目指す。廊下はたむろする男子、女生徒で溢れかえっており、仮に私がビーム兵器を持っていたとしたら零距離でぶっ放して見たいと思うくらい鬱陶しかった。一歩歩けば一人すれ違い、五歩歩けば十人はすれ違うであろうその廊下は、一体何を目指し何を求めるのか判別付かぬ、半ば徘徊者と化す生徒に満ちている。
まぁ、普通に考えれば友人に会いに行く、あるいは昼飯を買って帰るところか、買いに行くところ、暇を持て余して学内探索や、私と同じ目的を持っているのだろう。だが邪魔は邪魔だったのだが、
「考えれば、学校のトイレは初めてだな」
一分とせずに辿り着く目的地は、外観を小奇麗にして維持されていた。押し引くタイプのドアは白く、どことなく中からの冷気が伝わってきそうなほど無機質的だった。故の小奇麗さなのか、定かではなく然程の興味も無く、私は一切の迷いも疑問も無く、そのドアノブに手を伸ばし、開いた。
ドアを開けると、床には水色のタイルが広がる。その上に立つは数人の男子生徒。なるほど既に先任者、もとい先客が居たかなどと思いつつ、私は中へと足を踏み入れる。と、其処で私は疑問を抱いた。
「ん?」
すると、扉付近にある洗面台に居た一人が私の存在に気付いて顔を上げる。顔を見る。身体を見る。足元からまた、嘗め回すようにその瞳が動いた。顔が連動し、上がるとその眉間には皺がよっていた。彼は身体をこちらに向けて、明らかな狼狽を見せていた。
「んん? えっ、ちょ……、あれ? ん? あれ、ここ男子……えっっ、えっ?」
「おっと、失敬」
口はまともな言葉を紡がず、混乱だけを見せていた。だから私は彼の混乱を治めるために一歩退き、静かに扉を閉めた。
――位置について、よーい、ドン。
私の頭の中で、走り出す全ての準備が執り行われた。
扉を傍目にする態勢から、腰は少し落とされて、走り出す予備動作を得る。
視界内に人はいるか? 居る。よし、ならばこれから走り出す軌道上には? 居る、が随時修正可能。よし。私はスーパーコンピューターが持つ処理速度よりも早い切り替えで、この肉体を操作して――私は扉を閉めると同時に、走り出したのである。
顔は見られたか? あぁばっちりだ。だが赤面すればどうということはない。男子生徒が女子トイレへ入ったのならば変態扱いであるが、女子が男子トイレへ入った後赤面して逃げ出せば、そこにあるのはいわゆる一つの萌え要素。
だが現実としてあったのは、男子トイレを開け、閉め、般若の形相をして廊下を全力で走りぬける奇人の姿だった。だがその速度だけは、疾風だったと願いたい。
「――あー、疲れた」
たかが二○○ミリリットルにも満たぬ尿を排出するだけで何故これほどまでに疲弊しなければならないのか。
「んーふふ、ねぇミズキ、さっき男子トイレに入った女子が居たんだって。もしかしてミズキ?」
「ん? まぁ、うっかりって所ね。反省はしてる」
「なーにーさぁ、素直に認めちゃってぇ。そこは恥ずかしがって赤面してモジモジして顔から煙だすところでしょ?」
「お……私に何を求めてんのよ」
たかが二○○ミリリットル分の排尿を行うだけの時間で、これほどまで噂が広がるのか。正直驚いたし、怖いとも思える伝導率だ。疾風なんてメじゃない。電撃だ。田舎の村もびっくりである。
しかしこれじゃあ――うっかりボロも出せない。出すつもりは無いのだが。
「でも結局、ソレだけなんだよね。つまらん」
「? どういう意味よ」
「だってさ、別にそれで運命の出会いするわけでもないし、ロボットに乗れるわけでも超能力使えるわけでもないし、実は性別偽ってる伏線でしたーなんてことも無いじゃん?」
「……あながちそーでもないんだな、これが」
私は中身の失せたビニールをグルグルとまとめて塊にし、それを捨てるために立ち上がった。私はその手のひらから記憶を吸い取ることが出来る事を祈りながら彼女、琴巳の頭を軽く撫でて、ゴミ箱へと向かった。
一歩二歩、それから手はアンダースローの動きで手からゴミを投げた。音も無くそれは至極軽い仕草でゴミ箱の中へと姿を消して、それを確認してから席へ戻る。と、彼女は厳しい表情でこちらを向いていた。
「――能力が欲しいか」
「は?」
「あれ、違った?」
「なんか色々と」
子供っぽく舌を出して片目を瞑る彼女はどこか可愛らしくいとおしくて、呆れて腰に手を当てる私は本来の私らしかった。対照的に見える彼女と私、だが仲良くやっていけるのは、対照的であるからだろう。
私はそんな彼女に心を奪われぬよう、机の上にある、然程好きでもないお茶を飲み下してから、再び席に着いたのである。