始まり――終わり――
やがて学園に到着する。溢れ変える人はその殆どを学生に変えており、私たちは何事も無い様にそれらに紛れて学園の敷地内に足を踏み入れた。最も、今日からこの学園の生徒なのだから隠れる必要も無いのだが……。
緊張する。正直言って、もう帰りたくなってきた。そういった風に意思が揺らぐ。というかそもそも意思なんてものは麺類が如き柔さだったのかもしれない。アルデンテなんて目じゃない。放置したカップラーメンだ。とても喰えたモンじゃない。これ以上加工のしようが無い。手がつけられない。もうどうしようもないったら、ない。
「えへへ、瑞希さん。私本当はすっごく不安だったんですよ。同じ中学の友達は来てないし、二回目の電車で……その……あんな、事あったし……」
でもでも、瑞希さんが助けてくれて、すごく安心したんです。元気が出て嬉しくてこれ以上ないくらいの幸せを貰ったようだった――という意味の台詞をニヤニヤしながら延々紡ぎ続けて、やがて昇降口前へ到着した。
おぞましいくらいの人ごみが形勢されていて、人がゴミだという名台詞を地で行く光景だった。ざわざわと雑踏は騒ぎ、歓喜に満ちる。一方で緊張を抱いて胸に手を当てる男子女子も紛れていて、一概に騒がしい者ばかりとは言い難かった。傍らでは、数十分前の恐怖体験を呼び起こしたのか、小和瀬が袖を強く握っていた。
随分とまぁ、懐かれたものだ。彼女が本当の私を知ったら一体どう思うだろう。今朝だけで十分に男に嫌悪を持ったであろうから、恐らく相当な事になるだろう。正直、ここまで人懐っこい娘に懐かれて信頼されている現状を考えると、あまり想像したくない事だった。
何はともあれ人ごみの中に侵入して、大きなボードに貼られるクラス割表を見上げた私たちは――。
「――あ、ここか。Fクラス」
昇降口から階段を上って最上階、その四階部分の廊下突き当たり。そこに自身が割り当てられたクラスが存在していた。
因みに予断ではあるが、小和瀬光は名誉有るAクラスに割り当てられた。これは私の浅はかな考えであるが、恐らく頭の出来の良さ順にAから並んでいるのだと思う。でなければ、自分で言うのも悔しいものだが、私が杉林瑞希に追いついていないという証拠にならない。
姿と名を借りている今だが、その頭のできまでは真似できていない。必死に倣おうとしてはいるのだが、追いついていないのが現状だ。そしてまだ――自分を捨て切れていないからなのかも、知れない。私の大切な部分が心の奥底にこびり付いてしまっていて、それが邪魔しているからなのだろう――といっても、それは言い訳にしかならない。だから今考えた事をちょっとだけ女々しいと思って後悔してから、大きく深呼吸をした。
ガラガラ、ガラガラ。
音を立ててあけると、その効果音とまるで同じように、教室内に人の気配は希薄だった。机はざっと見るだけで縦に六、横に五の総数三○席あるのだが、席に着いているのは僅か十人前後。そして誰も、音を立てた主に、つまり私に注目しなかった。というか、まるで聞こえていないように、興味を持たぬようだった。
まぁ、目立たぬに越したことはないし、いいだろう。そう考えて、教室の黒板に大きく描かれる座席表の、名前の羅列へと視線を移した。右列から順に眺め、あ行、か行……そして間も無くさ行へと続き、二列目最後尾に、堂々と『杉林瑞希』と記されていて、思わず心臓が高鳴った。
俺はここには居らず、私だけがここに居る。それを改めて現実のものだと、自分だけが周囲を騙しているという事ではないんだと再認識させられ、また大きく息を吐いて――自分に充てられた、好条件の席へと数歩で向かう。
が……。
思わず思考が停止しまうのは、自分の席に他者が踏ん反り返り、机の上に我が物顔で荷物を置いて、あまつさえ音楽をイヤホンでシャカシャカ聴きながら携帯ゲームをしているからであった。
私はもう一度黒板へと顔を上げ、名前の位置と、席の配置を確認しなおす。が、やはりどうにも私自身が間違っている様子ではない。ならばどう言う事であろうか。答えは明瞭、この――短いスカートを履いた上で足を組み、その肉が張り詰めた太腿を挑発するかのように見せびらかす女生徒が間違えているのだ。
だが、声をかけるのはちょっと怖い。短く切り上げられる髪はややボーイッシュで”こわもて”風だし、後ろから見える顔立ちは、割合に美形だ。通った鼻筋に、すらっとする顎のライン。服の上からでも分かる立派な骨肉は、恐らく体育会系だろうと予測立てさせた。
故に、仮にこの娘が逆ギレして殴りかかってきたとしたら――どうしよう。私とてこの一年間なにもしていないというわけでもないが、手を上げるわけにいかんだろう。流石に。
ならどうする?
彼女の聞く音楽を誉めるか? だがシャカシャカとしか聞こえない。
だったら騒音を注意するか? 困っている者などここにはいないし、印象は最悪だ。
であるならば――。
わたしは一ついい考えを思いつく。恐らく、空へロケットを飛ばそうと思いついた人間は、これほどまでに素晴らしい考えが思いついたぞと、誇らしげに思ったのだろう。そのくらい良い提案だった。
そして気がつくと、私の手は、彼女の肩を軽く叩いていた。
「……?」
彼女は膝の上のウォークマンを操作して音楽を停止させ、そしてイヤホンを耳から外しながら携帯ゲームをスリープ状態にしてから、漸く振り向いた。
――その顔は予想以上に整っていて、思わずどきりとした。
吸い込まれそうな大きな目に、漆黒の底なしと思わせる深い瞳。可愛いというよりもクールビューティーであろうジャンルを持つ彼女は、自分に何か用なのか、という風に私へと視線を向けた。
ごくりと唾を飲み下す。音が鳴る。喉仏が蠢いた。五臓六腑に恐怖が染み渡り、緊張が肉体の主導権を鈍くする。私は気をつけの姿勢のまま、二、三秒のタイムログを置いて、暫く振りに口を開いた。
「もう一度、座席表と自分の座っている位置を確認してくれれば私が幸せになれると思うよ」
「……? ――あ、あぁそう。ごめんごめん、あたしの席は隣だったよ」
透き通る声音。声は鋭く体内に浸透して、そして背から抜けてゆく。私は彼女の好意的かつ素直で率直な反応に好感を持ちつつ、慌てて荷物をどかされた机の上に、私のカバンを置いて席に座る。椅子は彼女のぬくもりがあって生温く、妙な興奮が頭を沸騰させかけた、が――私はあくまで女の子だ、と自分に言い聞かせることで、理性は肉体を支配しなおした。
「えーっと、スギバヤシさん……だね? あたしは『流石琴巳』。や、メーワクをかけたお返しにって事で……やる?」
彼女は爽やかな笑顔で携帯ハードを差し出した。が、私は顔の前で手を振り、それを拒否した。
「いや、ソレやりかけのRPGだし……」しかも据え置き版も携帯機版も攻略済みだし。
言いかけて私は口をつぐむ。それは”私”が言うべき台詞ではないし、私が知っているべきことではないからだ。あくまでそれは、数時間前まで生きていた”俺”の記憶であり趣味であり、その記憶はともかく趣味経験を引き継いではいけない。そんな気がした。私は純然たる杉林瑞希で居るべきだ。私はそうに決めていた。
彼女、流石琴巳は残念そうに携帯ハードを手元に戻すと、そのままケースに仕舞いこみ、半ば空に近いバッグの中へ乱雑に突っ込んだ。そうすると、壁際なのをいいことに、壁を背もたれに、そして椅子の背もたれを肘起きにして、此方へと向き直った。
話しを、お喋りをする準備は整ったようだった。
私は仕方無しに彼女へと、頬杖をついて向く。これからあるであろう怒涛の展開に備えて少しでも体力を温存しておこうと考えた矢先の出来事であるから、少しばかり自棄になっているのだ。
しかし彼女はそれを気にした様子も無く、口を開く。
「杉林さんは、同じ中学の連れがいたりする?」
「ん? いや、居ないけど」
居たらこの学校など選んでいない。
付け足したいが、意味はないし、だからなんだというのだろうかと自分でも思えた。
「へぇ、実はあたしもそうなんだ」
彼女は何故だかふふんと胸を反らす。薄っぺらい胸板が強調されて、妙に虚しくなってきた。偽乳とパッドのあわせ技を持つ私よりも小さいオリジナル乳房は、どうにも哀れになってくるが――どうも嫌いになれないのが、私の良いトコロであり悪いトコロでもあるのだろう。そもそもこの趣味は”私”のものではないのだが。
「ところで、ゲームとか好きなんだ?」
――だが。
だが、私は我慢出来なかった。
私が何のためにここに居てなぜ杉林瑞希になっているのか、なぜ彼女になろうと思ったのか忘れたように、それを口にしてしまった。自分の、本当の己が腹の底から溢れ出るようだった。
しかし、それを待っていたのか、彼女は私の心中なぞ知らぬように瞳を輝かせる。”同類”だと見られたか――琴巳は大きく頷いて、満面の笑みを浮かべていた。私はうな垂れた。
そこで私は、適度に自分を生かし殺す案を思いつく。
彼女の言葉を受け止めそして適当に返しながら、教室内の人口密度が如実に上がるのを感じながら、心に刻み込んだ。
己の趣味は生かす。だが人格、性別、容姿は杉林瑞希だ。飴と鞭といえば聞こえは良いが、詰まるとろ単なる意志薄弱だ。この調子では、普通に女の子に恋心を抱いてしまいそうで背筋がぞっとするが――まぁ、ソレは無いだろう。
何はともあれ、これが私の二つ目の分岐であり、そして当分訪れない最初の内の最後の選択だった。