嵐の中の静けさ 2
私は現在女装をしております。理由は、死別した双子の姉が「高校に行きたい」と生前に特に主張していたからです。ですのでその願いを果たすべく、容姿が近い私が女装し”杉林瑞希”となって『霊成学園』に入学したのです。
自分の家で、自宅の居間で正座をさせられていた。テーブルを挟んで正面には爽やかな好青年が悪鬼が如き表情で此方を睨んでいる。私は髪から滴る水をそのままに、学園から帰ったままの格好で俯き、その言葉が言えずに居た。脚はそろそろ痺れ始め、指先の感覚はとうの昔に失せている。筋と言う筋が、全神経が死滅したような気がした。ならば何故この肉体は生き、頭は未だ思考し続けるのだろうか。
分からない。私は大分前から理解を放棄している。だから思考はザルのように、固まる前に零れ落ちてしまうのだろう。
「黙ってちゃわからないだろ!」
男がテーブルを叩く。破裂音のような激しい音が響き渡り、テーブル上のリモコンやらティッシュ箱やらが僅かに浮かび上がった。
それは私の家の私物だ。お前のモノではない。壊れかける私はいつそう喚きのたまってもおかしくは無かった。
――学園が始まってからまだ二ヶ月ちょっとが経過しただけの、その帰り道。
私の中の全てが崩れたような気がした。コツを掴み始めたジグソーパズルを即座に踏み躙られたよな感覚がした。膨れ上がる、いわれの無い感情が脳内を占める。憎しみが掌を拳に変えた。悲しみが、表情を悲壮に変えた。
だがこの拳は誰に振り下ろされるのか。この悲壮は誰に突き刺せるのだろうか。この私が、一体誰にそれを出来ようか。
「わかった、いい。なら質問を変えよう……そいつはその――霊園で通用しているのか?」
霊園。それは私が通う高等学校の略称であって通称だ。不気味で縁起が悪いものだが、皆それをそうは思わず楽しげに呼ぶ。別にタマエンでも良いのではないか? という疑問を友人に提示してみたものの、その友人はそれ以前にどうでも良さそうだったから、求める返答は望めなかった。
彼が何故その略称を知って居るのかわからないし、正直どうでも良かった。何よりも、親友だった男をこれほどまで憎まなければならないこの現状が何よりも腹立たしかった。
私は静かに頷く。現状で出来るのは、決して嘘を付かず、答えられる質問に返答する事だ。
「なら、まぁいい。学校の先生は? 黙ってんのか?」
首を横に振る。榊はふうむと顎に手をやり、小難しげな顔をする。彼がこんな顔をするのは、一年前、私が塞ぎ込むように落ち込んで居た時以来だった。
彼はいい奴だ。底なしのお人よしだ。運動神経は抜群で、顔が良くて、勉強が私より出来ない馬鹿野郎だ。何があっても自分の第一ボタンを外さないくせに、お前には似合うと私にちょっと悪ぶった格好をさせたがる男だ。
言いたくない時には聞かず、相談したいときにはまるで心を読んでいるかのように言葉を掛けてくる榊が無理矢理に現状を問いただすのは、それでも今回が初めてだった。だから私の心には、驚きもあるのかもしれない。どこか、彼を裏切っているような後ろめたさもあるのかもしれない。否、あるのだ。絶対に。
だから私は、食いしばる歯から少しずつ力を抜いて、少しずつ、ゆっくりと口を開く。そんな行動に、自分の動作に、これからしゃべるぞと言う意気込みに緊張し、心臓が高鳴った。腕が震える。頭がどうにかなりそうだ。
歯がカチカチと音を鳴らす。顎が震えて、到底言葉は話せそうに無い。腹は決まっても、身体は本能に正直なのだ。
「外はもう暗い。まだ雨が降ってる。俺は雨宿りを目的にココに来たんだ。まだ帰らねぇぞ――だけど、流石に着替えようぜ。悪いが、タオルを貸してくれ。こんなトコで風邪引いちまったら元も子も無い」
「う……う、ん」
彼はあぐらをかいて後ろに手をつく。私はテーブルを支えにして立ち上がり、生まれたての小鹿のような足取りで居間を後にする。
部屋で着替え、濡れた身体を拭いて、頭はすっきりした。まるで思いっきり感情を爆発させて泣いた後のようだ。そして薄手のシャツは、短パンは私を暖かく包んでくれる。最早これだけで生きていっても大丈夫だと信念の籠った眼差しで総理大臣を射抜ける程、私は強く立ち直っていた。
そうだ。もう榊に知られてしまった事は時既に遅しであるし、さらに相手が榊だった事を幸運に思うしかない。世界は何が起こっても回るし、私の女装が親友にバレた程度ならば何の問題もなく回る。回らないはずが無い。仮に瑞希の代わりに私が命を絶っていたとしても、悲しむ人間が違うだけで何も変わらない。
だから私は彼に話そう。全てを打ち明けよう。責められようとも、慰められようとも、私はそう決めた。
この状況では誰も悪くは無い。無論彼は被害者に等しいし、私だって被害者……なのだろうか。まぁともかく、私は決めたのだ。
そう考えて、腹筋を固めた腹に一発力いっぱいの拳を無意味に打ち込んでから、部屋を出ようとドアに向かうと、ノックの音が二回した。だけれども、私はもう驚かない。私に二度は通用しないという事だ。
だから素直に、男の声でただ言った。恐らく、扉越しなら言いやすいだろうと配慮して、ノックはしても決して中に入っては来ないであろう榊へと。
女装の理由と、きっかけ。交友関係。学園では無問題なこと。リンコが協力してくれていること。学園側も校長が容認し、下手が起きたら根回しを約束してくれた事――その全てを、吐露してやった。
彼は相槌を打ち、口を挟まずただ聞いた。ゆっくりと、考えながら、言葉を選びながら、拙いその台詞を紡ぐ私をせかす事無く、ひたすら優しく、聞いてくれた。私はそれだけで満たされたような気がした。このまま全てが終わってしまっても何の悔いはないような満足感が心に在って、私は気がつくと、本当の女の子みたいにこの身を抱いていた。
目からはしょっぱい涙が流れる。いつのまにか、声は涙混じりでよく聞き取れなくなっていた。
何故涙が出るのか、これが悲しいからか嬉しいからか、私には良く分からない。直ぐにでも崩れてしまいそうな膝が激しく震えて、立っているので私はやっとだった。
「なるほど、良く分かった。いやな、もしお前が面白半分でやってンなら……まぁこりゃ良いか。なんにしろ、お前はお前が正しいと思ってやってたわけだな?」
「……いや、正しいとは思って無いよ。だけどさ、やらなくちゃいけないと思ってた」
「だから俺に後ろめたさがあったのか?」
私は首を振る。だが私と彼は扉で隔てられていて、相手はそれが分からない事を思い出す。なんだかそれを誰かに見られているような気がして顔に熱を帯びるのを感じながら、慌てて問いに返答しようと口を開くが、ははは、と言った笑い声が、それを遮った。
「まぁよ、お前はいつでもふてぶてしいからなんだかんだで悪気なんてありもしないし悪いとも思わないのは知ってるけど」
がちゃりと音を立てて、榊の声はより鮮明になって部屋の中に流れ込んだ。真っ暗な自室の中に明かりが差し込み、彼は、電気くらい付けろよ、とぼやきながら壁に手を這わせて、照明のスイッチを押す。かれこれ何十回と遊びに来た友人の部屋なのだから、もう慣れたものだった。
が――彼は再び、私を見るなり硬直してみせた。
何だろう。もう条件反射になってしまったのか。
「パブロフの犬って奴か」
私は呟くが、彼の反応は無い。今度はちゃんと男物の服に着替えたというのに。私は目に溜まる涙を手で拭い去って、鼻から空気を一杯に吸い込む。胸がすっとして、酷く心地が良かった。
大きく伸びをするとやがて全身の震えは漸く治まる。
杉林瑞希はここに完全復活を極めたのだ。果たして。今は男の姿だから違うのだが。
「なわっ……」
「縄……? すまんな、私……俺にそんな趣味は無ぇ」
自室の照明に照らされる精悍な顔は頬を赤く染めた。風邪でも引いてしまったのだろうか。確かに濡れ具合ならば彼の方が酷かったから、それもそうだろう。彼が家に来てから、そういえばもう一時間程経過しているのだ。仕方も無い。
熱を自分で感じて確かめているのか、彼は目頭を抑える。目が疲れていたのならば仕方が無いが、まずは熱を測るべきだろうと私は思った。だから私は、常に机の引き出しに備えてある体温計を取り出して、離れた榊へと投げつける。が、彼は受け取る動作もないままにただ頭にぶつけ、そのまま体温計は自由落下。軽い音を上げてソレは転がり、間も無く彼の足元に落ち着いた。
「反応鈍いぞ、何やってんの!」
「俺はお前が学園で通用する気がなんとなく分かった」
「分かるならはっきり分かれ。でも正直お前には分かって欲しくなかったな。つかお前それで赤面してんのかよ!」
「ばっ、んな訳ねぇだろ! そのふとももに騙されたんだよ!」
慌てて顔を背けて指でその箇所を示す榊から遠ざかりながら、私は自身の太腿を見下ろす。若干筋肉質で、見ようによってはゴツイ部分である。最もゴツイといっても筋肉が浮かび上がっているというほどではなく、女の子のような柔らかさが一見してあまり見て取れないのだ。
だから私は今まで腿までを隠すためにオーバーニーを標準装備していた。どのみち、太腿の美しさならば友人かつクラスメイトの流石琴巳に負けるのだが。
私は奇妙な顔で彼を見ると、ははぁんと彼が恥ずかしがる理由が分かってきた。なるほど、爽やか好青年で高スペックを持つこの男は女の耐性が無いというわけではない。単純に、この私にドキンとときめいてしまった自分が恥ずかしいのだ。そしてそれを意識してしまえばしまうほど、私を見れば見るほど、思考は悪い方向へと転がってしまうのだ。つまり興奮に直結する、と言う事だ。
「つか騙されたってお前、結局俺の魅力に――」
「ズボン穿いてくれないか!?」
「この蒸し暑いのにマジ勘弁。つか穿いてんぞ。短パンだけど」
「お、前な……ん?」
顔の前で手を広げ、さらにそっぽを向いて確実に私を視界に入れないように、私の部屋の前で立ち尽くす彼は何かを言いかけて、停止する。硬直したのではなく、全ての音を消すように、さらにそれを促すように黙り込んだのだ。だから私も同じように口を閉ざす。そこで何故彼がそんな事をしているのか、ようやく理解できた。
薄く、小さく、だが常に聞こえていた雨音が、途切れているのだ。
私はソレを、雨が止んだのを確認するために、部屋の窓を開錠し、開け放つ。途端に嫌な湿気が顔に襲い掛かって、生温い雨の臭いが空気となって部屋の中に流れ込んだ。確かにあれほどの豪雨は治まっていたものの、小雨がまだ持続中であった。
気がつくと彼は私の背に立ち、同じように外を覗き込む。もう彼の緊張や興奮は忘れ去られ、解けているようだった。もしかすると、あの反応も私の心を緩やかなモノにするための演技だったのかもしれない。
底知れぬお人よしだからこそ、そう思えてしまうのだ。
私は本当に良い友人ばかりを持つ。心からそう思わせてくれる男だった。
「あー、じゃあそろそろ帰るな。時間取らせて悪かった」
彼は私の背を叩いてから距離を取る。振り返ると、背を向けて自室を出ようとしていたところだった。
「でもここから結構時間かからなかったか? 三○分くらいだろ? 小雨でも、折角乾いたのに濡れちまうよ」
「水も滴るいい男ってな」
「んな事ぁいいんだよ。傘貸してやる」
廊下を歩き、階段を降りる。彼はそれから荷物を取りに居間へと向かって、その中で私が親切な台詞を投げかけてやると、彼はそうだと、手を叩いた。まるで名案でも浮かんだような行動である。
「お前、最初から傘貸してくれればさっさと帰れたじゃねーか!」
「怒鳴られてる最中に、”傘を貸してやるからさっさと帰れ”って言えるほど、俺は図太くねぇんだがな」
「……ぬ、確かに」
彼はスポーツバッグを肩から提げて、さらに私から大き目の傘を受け取ってから靴を履く。つま先をとんとんと叩いて踵をいれ、それからまた振り返って、今度はいつもの爽やかな笑顔を見せてくれた。
「んじゃ、また来るよ」
「あぁ、良いけど……その傘の貸しは高いぞ?」
どっかの誰かみたいに、あくどい笑顔で言ってのける。その気になれば全財産を搾取してしまうぞと言うような悪い顔だ。私がこの目で見たままにやってるのだから、そう可笑しいものになるはずが無い。
だというのに、彼は軽く笑っていた。まるで小さな子どもが大人の真似をして微笑ましい状況になったかのような、アットホームな笑顔である。
「”今回の事”で支払えば、随分大きい釣りが来るはずだけどな?」
「そう来るか……」
確かに、言われて見ればそうなのだ。
今回、彼が来なければ平穏のままであった。だが彼が来た事によって、大切な何かを得たような気がした。その上、誰かにバレた時の予行演習が出来たと考えれば、それはそれだけでも非常に大きなものなのだ。どの状況で何が来るか。どんな返答でどんな反応を望めるか。少なくとも一つの例がある限り、それを基準に、実際のモノと近い予想が立てられるだろう。
そして長い間失われていた友情が培われた。さらに自信が、勇気が胸の奥に息づいている。
これは最早何モノにも代えがたい。リンコを失う代わりに得るものだったとしたら、少し迷ってしまうかもしれないが。
なんにしろ、彼のお陰で私が変わった。良い意味で、である。だから当分、こいつには頭が上がらないなぁと、私は榊に苦笑した。
「俺もお前も相変わらずだな。それじゃ、またな」
彼はそうして手を挙げ私にさよならをした。私は手を挙げ返し、別れの挨拶をする。やがて玄関は閉まり、完全に彼がこの家の中から居なくなって、私は嘆息した
身が引き締まる。これからやる事の全てが全て上手く行きそうな気がした。なら明日は学園で様々なことに挑戦してみようか、などと考えて、頬が緩む。なんだか明日が楽しみになってきた。
まずは父さんが帰ってくるまでに夕食を作ってしまおう。私はそう意気込んで、玄関に放置していたスーパーの袋を手に、勇ましく台所へと向かったのである。
明日は土曜日。そんな事実も忘れたまま。