プールサイドの悲劇
夏と言えばビキニである。
中学時代に、そんな持論を掲げてクラス中の女子から反感を貰っていた友人が居た様な気がした。名前と顔は失念したが、その立派な発言と行動力に惜しみない拍手と賛美を送った記憶は確かにあった。そして高校生にもなると、確かに発育したその肉体にはビキニが良く似合いそうな女の子が沢山居る。私はプールサイドで仁王立ちしながら、それを俄かに理解した。
起伏の激しいそのボディラインに、その細い腰元。柔らかそうな身体はピチピチの学校指定水着によって抑えられていて、故にその柔らかさが顕著に表されていた。さらに水によって色を濃く、その上肌に張り付いて、女の子の魅力は普段の三割増しとなっていた。
何の競技も行われず、皆がワイワイと騒ぎながら七コースもあるプールの中を縦横無尽に泳ぎはしゃぐ。水しぶきが上がり、声を上げて笑いあう彼女等にはどこか微笑ましいものがあった。やがて私はプールサイドを囲うフェンスを背に座り込み、膝を抱えて一つ息を吐いた。
浴びたシャワーの水は、常より高い気温のお陰でもう乾いてしまっていた。誰かがフェンスにかけるタオルのお陰で日陰になるソコでは、それ故に程よい心地で待機することが出来たのだが……。
「ちょっ~と、ちょっとちょっとぉ! なァにやってるっスか!」
見渡せば広く純白なプールサイド。良く掃除されているのか、コケ一つ生えては居ない。ゴミの一つも存在しておらず、さらに透き通る水が張るプールは側面や、底の蒼さを見せて鮮やか。見ている私まで清々しく、爽やかな心境にさせられた。その中には、E、F組の女子が合同でプールの授業を受けているが、自由時間となる現在ではもはや授業と言って良いのかわからない程楽しげに騒いでいた。
その中で、ふと私の不在に気がついた二人の女子が、濡れた髪を掻き揚げ、或いは後ろに流しながら此方へと近づいて声を上げる。透き通るような軽い声は、まるで未だ声変わりのしていない少年のようだった。
小鳩明子は座り込む私に視線を合わせるように、腰を曲げて前屈気味に顔を覗き込む。水着がたるむ胸元は、たっぷり吸った水分によって重量を得て、そこから重力に引っ張られて露出する。豊満気味、と言うのが正確であろう発展途上の乳房を惜しげもなく見せ付ける彼女は、そのミニマムな等身を持つために、胸のサイズは相対的に大きく見えていた。
私は彼女の、その丸っこい眼を真赤に充血させて此方を見るどこか人懐こい顔だけを見て、その下の視界を意識的にはじき出す。が、ただの人間である私にそれは不可能であり、故に少し上向きに顔を上げて彼女の言葉を耳に入れた。
「せっかくのプールっスよ!? 何やってんスか!」
久しぶりの散歩に喜ぶ子犬のように、笑顔を貼り付けたままの顔で怒鳴りつける彼女には威厳もへったくれもあったものではなく、その言葉は一切の威圧をもたらす事も、ましてや私の心を動かす事は決して無い。
「プールは苦手なんだよ」
だから彼女の誘いを断固として拒否する。と、今度は傍らの、長身の女の子がしゃがみこんで私を見た。流石琴巳はその長い脚を胸にひきつけるように座り込み、その太腿を拘束するように手を組んだ。
「お遊戯でやってるんじゃないんだよ!」
そう笑いながら口にする彼女であるが、泳ぎ疲れたようで自分の膝にへたり込んでいた。そんな琴巳を見て小鳩は慌てふためき、彼女の腕を引っ張り挙げる。どうにも遊び足りないようで、この調子では一人果敢にプールに飛び込むのも時間の問題だった。
私は相変わらず反応の薄い第二の私を意識の外側へと追いやりつつ、結局一人でプールへと飛び込む小鳩を見送った。誰よりも綺麗なフォームで水に入り込み、予想以上に静かな水柱は、それでも授業を受け持つ担当教師の注意を促す。今日は体育教師が休みと言う事で、競泳水着の上に白衣を羽織る女性養護教諭が日陰に立ち、小鳩を指して声を荒げていた。
立ち上がると、競泳水着によって締め付けられている筈の胸が大きく揺れる。ここで男子生徒が居たならば感嘆の声を上げて立ち上がり拍手を掻き鳴らしていたであろう等と考えていると、彼女は注意の最中で、まるで言葉を忘れてしまったように口を開けたまま停止する。その目はある一点を見つめたままで静止していて――。
「とにかく、小鳩さん? 次に飛び込んだら水に触れさせませんからね!」
なんて適当に纏めながら、更衣室を背にする位置から私へと身体の向きを変え、ぺたぺたとプールサイドを踏みながらこちらへと歩み寄ってきた。
――余談であるが、彼女は一応、私の正体を知っている。その上で監視官として体育に参加しているのだ。だから私は緊張する。もしかして彼女の目に留まるような事をしてしまったのかと、反射的に想像してしまう。だが私はそんな危機を回避してこのフェンス際にて待機をしていたのだが、それ故にこの視線がいやらしいものに見えてしまったのかもしれない。
そんな事を考えていると、まるで入れ物でもしているかの如く不自然に揺れる胸を携えて、学校医である彼女は私の正面にやってきたわけである。
「……杉林さん。あなた、授業が始まってから一度もプールに入っていないわね?」
「え? まぁ、あのその、なんといいますか……」
私の斜め手前では、琴巳が何事かと首を傾げてこちらと、彼女とのやりとりを見ている。学校医は自分が眼鏡からコンタクトレンズに変えたのも忘れたように眼鏡のズレを直すような仕草をしながら、私が持つ鋭い眼光を放つ瞳を見据えていた。
胸はドキドキと弾み、緊張のせいか、生命の危機を感じたのか、私の血液はあらぬところに流れ始める。嫌な予感が鼻を掠めた。
「まずは私の正面に立ちなさい」
膝を抱く私の腕をひっぱる彼女には、しかし強制力は存在していなかった。ただそうしてほしいとダダをこねて母の袖を引くようなか弱さで腕を引いたのだ。私はそれを拒否する理由はなく、元気と力強さの息づく分身たる私の位置を頭の隅で意識しながら、やがて更衣室側へ向く彼女の正面に私は立った。
――プールの作りは、まず飛び込み台側にシャワーがあり、その奥に更衣室が控えている。更衣室の中にはさらにシャワー室が存在するが、一先ずソレはおいておこう。そして側面、飛び込み台に立って左側には体育館が聳えており、右側には広いテニスコートが存在する。正面には雑草が生える、いわゆる裏道のような、恐らく使わなくなった陸上競技の用具やらが放置されているだけの場所である。そこはそう広くはなく、二、三人がやっと横になれる程度の幅で、そもそも人気の無い場所であるのだが……。
「……私が言いたいことが分かるのならただ頷きなさい。私がして欲しい事が分かるのなら首を横に振りなさい」
私の気まずげな表情が曇ったのが認識できたのであろう。彼女はそう口を開いて、私から逃げ道を断って見せた。その中で、相変わらず琴巳は体育座りのまま、私と彼女のやり取りを眺めていた。
――私が彼女の肩越しに見るのは、その裏道側のフェンスの右隅にある金属的光沢。正確には、何かが太陽光を反射しているのだろう。そして目を凝らすとそれは黒い何かに包まれているようで、それ故に、私にはそれがカメラに見えた。一眼レフと言うのだろうか、正直カメラに精通しているわけではない私には詳しい分類が分からないが、よくテレビや雑誌で見かけるもののように、私の目には映っていた。
そしてそのカメラのレンズが向くのはプールの方向。その主はカメラを覗き込んでいて顔までは分からないが、恐らく男子生徒かそこいらなのだろう。
しかし今の時間帯は授業を行っているはずである。保健室に居ない彼はそれ故に、どのクラスの誰なのか特定されやすい。何の断りもなく授業をサボる生徒もいるであろうが、この時間に偶然数十人が授業を無断欠席するなんて可能性は限り無く低いと見てまず間違いはないだろうから――彼女が今私にさせようとしている事は、多分無駄足になる。
後で調べて、呼び出し、話を聞けば良い。それが堅実で、今は下手な問題を起こすよりやりやすい。動いて事を大きくすれば、知らずに済んだ事を知ってしまう者が増える可能性が大きいのだ。そして一部ではそれ故に心に傷を負うものも出るかもしれない。
だが今それを告げるには余りにも時間が無さ過ぎて、そしてあまりにも、学校医だというのに彼女は感情的過ぎた。
「いやぁ、なはは。良く分かりませんが」
だから今は誤魔化して、少しでも長く時間が過ぎるのを待つべきだろう。確かにこの状況を隠れて撮影するなんてのは犯罪だが、今は何よりもスマートに解決する事が先決だと思うのだ。しかし何故だか、彼女の眉間には皺が寄る。多分、彼を擁護しているように捉えられてしまったのだろう。
「冗談じゃない。分かってもらわなきゃ困るわ!」
ヒステリーな叫びは必死に抑えているだろうその喉の奥から僅かに漏れる。これ以上彼女の意見を否定すれば、恐らく行動する異常に面倒な事になる事は容易に想像できた。だから私は、彼女を怪訝な顔で見ながら、溜息混じりに首を振る。そして更衣室へ振り向くと、掛けられている時計は授業の残り時間はあと三○分であることを知らせていた。
「わかりましたよ……、その代わりに、授業はちゃんと出席した事にしといてくださいね」
私はわざとらしく面倒そうに答えてみせる。それからクラスの女生徒たちが使う更衣室ではなく、荷物や道具置き場、あるいは教師の着替え場となる部屋へと足へと運んだ。その中で、琴巳に何かひと言添えておいたほうが良いかと思われたが、何を言うべきか考え付く前に、私はその扉の前に到着してしまった。
気がつくと背後には学校医が付いて来て居た。
「カメラは少なくとも破壊しなさい」
さらにそう言って、私の仕事内容を増やしていた。
「つーか、あんだけ騒いでんのに盗撮犯がじっとしてっかよ……」
さっさと制服に着替えなおして駆け出すこと数分、テニスコートの外周一回りをほぼ全力疾走で走り抜ける私は、それでも鍛えぬいた肉体のお陰で息切れ一つ起こさずに涼しい顔で裏道へと到着する。
そこは舗装もされていない砂利道で、腿までのオーバーニーを履いていなければ雑草によって擦り傷を無数に付けられてしまいそうなほど、草は鬱蒼としていた。さらに学園の敷地と外とを隔てる高いフェンスの傍に高い木が聳えていたり、その根元に履き捨てられたらしきスパイクがいくつか転がっていた。
私は足音を立てぬように歩みを進め、やがて楽しげな笑い声が大きくなって耳に届き始める頃――。
コンクリートの土台に身を隠すように屈みこむ男子生徒は、果たしてそこに居た。
照りつける太陽はじりじりと肌を焼く。走っているよりもただじっとしているほうが、額から汗が流れやすかった。私は手の甲で汗を拭いながら、気配を殺し、息を潜め、ある程度まで距離を縮める。と、その場で片足を胸までひきつけて、振り下ろす。私の革靴は力強く地面を叩き、砂利が弾ける音がした。
男が驚くように肩を弾ませる。
私はその反動を利用して高く跳躍。男がこちらへ向く動作の中、それよりも早く私は男の背へと回り込んだ。
恐らく彼の視界の端に私の半身が映っているのだろう。だがどちらにせよ、今彼は私の存在を認識している。だから、接触した際に驚いて声を上げることはもうないだろう。そして今騒げば、状況的に不利なのは明らかなのだ。彼が大きな行動に出ることは無くなった。
そして――。
「ちっ!」
小さな舌打ちと共に、沈んでいた男の腰が浮かび上がる。手にしたカメラをそのままに、地面に置いたままのバッグへと彼は手を伸ばす、がもう一度の跳躍で、今度は背へと肉薄した私は、そのまま彼の肩を掴み、後ろへと引いた。
男は瞬く間にバランスを崩し、息を付く暇もなくひっくり返る。そこでようやく、彼が小太りなのを認識した。単色だけで色づくネクタイは飽くまでクールな空の色。それは第二学年を意味していた。ちなみに私は紺色であり、勿論一年生である。
私はその胸元から生えるネクタイを素早く抜き取ると、丸めて男の口の中に詰め込んだ。そして仰向けに寝転がる彼に動く暇も与えず馬乗りになり、垂れる両腕を、両足を以って封じ込めた。
さらに顔を見られぬように、大地に顔面を押さえつけるように片手で覆い、辺りに転がっているはずのカメラを探す。と、直ぐにソレは見つかった。彼の顔の脇に転がっているソレを、私は男の顔に体重を掛けつつ、もう片方の手でそれを広い、顔の高さに持ち上げた。
重量感があるそれは、装甲が確かな金属で作られている為だった。トイカメラだと思っていたが、随分としっかりした構造を持っているらしく、ただ覗いてシャッターを切り、フィルムに焼き付けるタイプでは無い様に見えた。どうやらデジタル要素が入っていて――なんにしろ、これを破壊するのは流石に傍若無人すぎて、申し訳なくなったのである。
これなら挿入されているSDカードさえ奪取し提出すれば、現状はとりあえず解決する。後はあの学校医が彼を呼び出すなりなんなりして、彼自身の処分を決めればいいだろう。なんにしろ、私自身この男にはなんの怨みも無いのでどうでもいいのだ。いくら盗撮犯だとしても。
「いやぁ、すいません。ちょっと中、拝見しますね」
騒ぐに騒げぬ彼はただじっとされるがままにジッとする。私は男の顔から手を離して、カメラの背面についている画面を見ながら操作を開始する。カメラの種類が分からなくとも機械の操作はある程度理解できる私は、少し弄って――水着の女の子の画像がサムネイル形式で表示される画面を映し出す。
全ては今日の授業に参加している生徒ばかりが被写体となっていて、どうやら盗撮は今日始めたばかりなのだろうと思われた。準備体操から始まるその画像は、僅か二○分と経たずに既に二、三○毎に上っているのにもかかわらず、私の画像はただの一枚も存在していなかった。その代わりに、妙に小鳩の写真が多かったのが気になった。
「ただの盗撮魔か、それとも……」
ありがちな、いじめで先輩達に盗撮を強要されているのか。
まぁ、そこらへんは私が関与すべき場所ではない。そのくらいは踏まえているし、どちらにせよ、首を突っ込むには面倒なのだ。
男は私が呟くとネクタイを口から吐き出して、眩しげに私を見上げる。恐らく逆光にでもなっているのであろう。
「と、盗撮なんてしてない……こ、これは、げ、芸術……」
「被写体の許可がないままに写真撮れば盗撮なん……のよ。おわかり?」
「お、おかわり!」
嬉しげに開く口にレンズを突っ込み、フラッシュを焚いて接写する。眩い光が辺りを照らすが、この太陽の下ではそれはささやかな瞬きにしかならなかった。
「残念ながら、これを黙っているかわりに~、なんてエッチな展開はないから覚悟しておきなさい。ヒステリックな養護教諭が最後の良心を持っていて、公開処刑されない事を祈るだけよ」
カメラを抜くと、粘る唾液が糸を引く。既に汗に塗れる彼は髪を濡らし、呆然と私を見上げていた。最初から抵抗する気がないのか、力が無いのか、膝に踏みつけられる両腕はぴくりとも反応が無い。
それから私はカメラ側面の突起を押して、中の小さなチップのようなカードを引き抜いてから、カメラを彼の頭の脇に置く。内蔵フラッシュメモリさえなければ、これで完全に画像データは失われた事になる。
任務は完了だ。
「名前は聞かないし、これ以上関与しない。これは希望だけど、そっちもそうしてくれれば助かる」
恐らくそれはないだろうが、念のために釘を刺しておく。今回の事に対して彼が行動することは、全てにおいて彼にとっての不利益なのだ。あるとすればこのカードを取り返すこと。直ぐにバックアップを取って保存し、ダミーを返して晴れて解放、というのを目論むだけだろう。
「お、俺は早嶋郁漏」
「あぁ? だから?」
「お、お、お名前――」
「先生! ここに誰か居ます!」
「っくそ、面倒臭ぇッ」
少しばかり騒ぎすぎたのか、上方向から女生徒の声が降り注ぐ。私は行き場の無い怒りを吐き捨て、男から降りると、そのまま羽交い絞めるように彼を拘束し、来た道へと全力で引っ張り込む。 ――無数の足音がこちらへ近づく。勿論裏道から響くものではなく、裸足で床を叩く、プールサイドからフェンスへと肉薄するものだ、が。発見された時点で全てが終わる現在では、無駄に焦燥を掻き立てるものに変わらなかった。
彼を引きずると砂利が音を立てる。さらに痛い痛いと泣き言のように呻く彼は正直鬱陶しい。そして近くの物陰まで数メートル。恐らく数秒もあればプールの連中から発見されてしまい、その距離は到底数秒ではたどり着けないものだった。。
――この男を見捨てるか? 社会的に考えれば当然な選択だ。そもそも私がこいつを助ける義理はない。
どうする。どうする。どうする。
焦燥は鼓動を速くする。
男を拘束する腕に力がこもる。足腰の疲労はより蓄積された。
動きは力強く、そして鈍くなり始める。足音がより大きくなった。
心臓が破裂しそうだ。今すぐに呼吸を止めてしまいたくなるくらい苦しくなった。
「先生、ここに――」
やがて声が聞こえる。
私は諦めて、全ての動きを止めた。拘束していた腕を放し、男は小さな音を立てて再び地面に落ちる。私も流石に、地面にへたり込んだ。
もうどうにでもなれ。
「……あ、れ?」
そう考えた途端に、雰囲気が変わる。鬼の首に刀を添えたような強気な声は、瞬く間に、泣き出す寸前の赤子のような不安さへと変わっていた。
「人? どこにも居ないわね」
学校医の声が凛と響く。事情を知っている私には白々しく聞こえたが、彼女は彼女で事態の収拾をするという程度の理性はあるらしい事がわかって安心した。
やがて女生徒が集まると、様々な憶測が行き交った。宇宙人から、超身体能力を持つ超人、次元転移できる人間だったり、幽霊だったり。なんだかんだで見間違いに落ち着いて、腑に落ちないという声で第一発見者は納得した。
――どうやら火事場の馬鹿力、というものが発動したらしい。
気がつくと私はプールサイドのフェンスからは到底見えはしない物陰まで移動していて、鬱蒼とする草に包まれていた。男はというと、私より少し離れた位置にいるものの、同じく草を纏い、見事に姿を隠していた。
安心すると、心臓は大きく弾むと、やがて緩慢に、通常の脈拍に戻り始める。私は深呼吸をして、心を落ち着かせた。
「はは、命拾いしたな」
――男は自分の立場も忘れたようにそうつぶやいた。
なぜ私がこいつの社会的地位を守ってやったのか、疑問と共に怒りが湧いてくる。
それと同時に、立ち上がった彼はどこか清々しそうな顔で私を見ていた。
「その声、やはりキミか”ミチオ”」
巨漢が壁のように立ちはだかる。肉体からは凄まじい熱気が肌に伝わってくる。
「ミチオって……まさか、ゲーセンの?」
「タミヤだ」
「おぉい早嶋ぁ! 写真はとれ……って、え、誰?」
まだ授業中だというのに、後ろからまた新たな闖入者の声がした。
「あぁ会長! 写真はバッチシなんですがね、ちょっとばかしミスっちゃって」
「見つかったのか……。そこの女生徒、これには少しばかり訳があってだな。実は病気で寝ている私の妹がどうしても水泳の授業風景が見たいって――」
背後の闖入者が覗き込むように私を見て、そして言葉を失ったように硬直した。
私がなにやらその行動がひどく癪だったのでにらみ返せば、会長と呼ばれた――見覚えのある彼は、どこかのお坊ちゃまのようなマッシュルームカットを乱してたじろぐ。それほどまで嫌な目付きをしていたのかと、今度はぎこちなく微笑んでみれば、彼はさらにたじろいだ。
「盗撮は立派な犯罪です――といっても、私はただ保険医に頼まれて来ただけですし。言い訳はそちらにお願いしますね」
「おいミチオ、聞き分けの悪い事を言うんじゃあ無いよ」
「ミ、ミチオ? 男なのか、彼女は」
「え? いや、ちょっとした知り合いで。ゲームでのニックネームですよ。先輩と良くゲーセンに行くんですが、そこでちょっと……なぁ、少尉殿」
「恥ずかしいんでリアルでそういう事言うのやめてくれません?」
うんざりしたように肩をすぼめると、本名不詳のニックネーム『タミヤ』の彼は、先程までの酷く情けない醜態はどこ吹く風といった風に、まるで私がその現場に居合わせずに観ていなかったように、白々しく格好を付けていた。
いわゆるモデル立ちで、腰に手を当て髪を掻き上げる。しかしその姿は暑苦しく、注視することが出来なかった。
「それでタミヤさん、この会長とやらは?」
「あっはっはっは! 会長ぉ、威厳なさすぎで存在忘れ去られてますよ!」
先ほどまでの挙動不審な早嶋の姿は何処へやら、さっそく威厳を振りまいて豪傑に笑い出す巨漢は贅肉を揺らし、全身から排熱するようだった。
「会長に……副会長が、あんたですか」
生徒会長室に呼び出されたのは、その放課後だった。
先程のマッシュルームカットが特徴的な男は生徒会長であり、先日ゲームセンターで世話になった『少佐』は副会長として、事務机の上に腰をかけていた。
これみよがしに胸元を開け、そしてスカートから図太いカモシカのような脚を露出する姿は痴女的なアレなのかと思ったが、単に暑いからという理由らしい。
会長はよくコレで理性を保っているものだ。
そして私の隣に位置する早嶋は、自慢の一眼レフカメラを没収されて閉まったために肩を落としてうなだれていた。
「申し遅れたな。あたしは坂詰衛。この学園の生徒会長補佐を務めている」
「あぁ、どうもよろしく……っていうかですね、広報のための写真を撮るならあんな盗撮まがいをしなくても良かったんじゃないですか? しかもですね、問題は全て教職員方に移行しましたので、私はさっさと帰りたいんですが」
「勘違いをしてもらっては困るがな、君」
傍らで太っちょが吠えた。
一つだ、と中指を立てる彼はおそらく天然だとかそういった微笑ましいデブではなく、調子に乗っただけなのだろう。
「写真を撮られているという意識の一切を排除するために行動を選ばなかったまでだ」
「うるせえ変態」
「決してやましい気持ちがなかったわけではない」
「だから小鳩ばっか撮ってたのか」
「趣味の範疇だと答えておこう」
「やろう、この変態!」
やるせなさそうに言葉を返す中で、腕を組んだり、ケータイをいじったりする会長らはそれらを止めようとはしなかった。
そういった応酬もそこそこに会話は終わると、それに反応するように、坂詰はこちらに向いた。
「その身体能力を我が生徒会で活かさないか?」
「なぜ生徒会で身体能力が注目されるんですか? 風紀委員ではなくて?」
食い気味につっかかってみる。理由は、保健医にも散々な誤解を受けてからの現在だからストレスが溜まっているためである。鬱憤晴らしのため、といっても過言ではなかった。
ケータイを机の上に置いて、今度は会長が立ち上がった。
「理由はない。君に来て欲しいんだ」
「……帰っていいですか?」
「仕方ないな。補佐が許可しよう」
「ありがとうございます」
「じゃあなミチオ」
「ええ、さよなら」
――本当に何を目的として呼ばれたのだろう。
そんな奇妙な接触は、何故だか”コネクション”となって私の回りにまとわりつくことになった。