大打撃 そして激痛へ……
肩までの髪を全て後ろに流して、髪を掻き揚げる。一つ大きな息を吐き、私は首を捻って骨を鳴らした。
時刻は流れ、授業が終わって放課後になった。だが季節は春であるために空はまだ蒼く日が高い。故に行動時間にはまだまだ余裕があった。が、ここ最近――特にこの一週間は様々なことが込み合って肉体的にも精神的にも疲れてしまっているのだ。だから少しでも早く家に帰りたかった。僅かでも多く眠りに付きたかった。
リンコは幸い……と言って良いのか分からないが、委員会の仕事で学校に残らなければならないから先に帰ってくれと伝えられた。小和瀬光に到っては既にテニス部で和気藹々としているらしい。微笑ましいことだ。そうして帰り道は特に誰かと一緒という事がなくなったので、自分のペースを貫いてさっさと帰宅してしまおうと――昇降口を出た時の事である。
「ミーズキッ、一緒に帰ろう!」
「そうっスよ。今日は週末だから遊びまくるっスよ~」
背後から襲い掛かる二人の声は途中で左右に別れ、一方は強引に肩を組み、もう片方は力任せに腰を抱く。その為に私のバランスは大きく崩れて前方に倒れそうになった。
息を呑む。痛みを覚悟した。が、私の腹筋は、膂力は私自身が思うよりも強靭であるらしく、少しばかり力を込めるとそんな女の子二人の突進を容易に堪え抜く事が出来た。足は強く踏ん張られ砂を巻き上げる。背には確かな女の子らしい柔らかさが服越しに密着し、石鹸の良い香りが鼻に付いた。
だから私は慌てて彼女等を払いのけ、その勢いに任せて振り返る。すると、不満そうな顔をする少女が二人、こちらを睨むようにしてみていた。
「な、なん……によ」
「だって最近ミズキさん私の事挨拶以外で無視するじゃないっスかぁ。もう私悲しすぎて……」
「そりゃアンタ、自分でやった事を省みてから言って見なさいよ」
「私の時だって、殆ど上の空みたいだったじゃん?」
「考え事してただけだって」
琴巳は癖のある明るい茶系の髪を風に嬲られ乱れるのを、手櫛で直す。小鳩は顔に掛かる黒い髪を纏わり付かせながら、何も構わず何かを叫び続けていた。だがそこまで強くはない風に声が流され、一定の距離を保つが故に言葉は届かない。
私が知らん振りをして背を向けると、小鳩は泣きそうな顔になって飛びついてきた。
「わ、わかってるっスよ! あの時の事が余計なお世話ってのならわかってるんスよ~。でもミズキさんの気を引きたくて、つい……」
「っていうか、なんで私?」
「すごくカッコいいんスよ。男の人みたいに。一目ぼれってヤツっスか」
思わずドキリとしたが、この手の話は既に克服している。そしてこの二週間の経験で、私は完全に女性として見られていることを自覚済みなのだ。故に私は冷静にふふんと鼻を鳴らして口を開こうとするが――不意に一閃。肉薄する。
「本当に男だったら――」
小鳩から放たれた手刀はそれを知覚する間も無く飛来して、それは寸分狂わず股間を打ち抜いた。
――激痛。鋭痛。苦痛。腹痛。やがて意識は白紙に染まる。
人間の、否、男の体外に存在する急所を突くその手刀はスカート、ショーツ越しのその感触を理解しているだろうか。だが私にはそれを気にする余裕は無かった。
呼吸が乱れる。視界が狭まる。やがて暗くなり、世界は闇に包まれた。
私は肩膝を付き、浅い呼吸を繰り返す。やがて原因不明の腹痛が奥底から滲み出るように広がり、まともな思考を封ぜさせる。
遠慮のない直接打撃はそれ故に私を跪かせ、肩に乗せられ心配を伝える手には悪意さえ感じる何かがあった。だが、伊達に肉体を鍛えているわけではない。急所突きには一定の耐性がある。それ故に、数分うずくまった所で回復の兆しが見えた。
「ご、ごめんなさいっ! まさかミズキさんがそんな日だったとは思わなくて……」
彼女の肩を借りて立ち上がる私の姿は一体十人中何人くらいが情けないと感じるだろうか。少なくとも私が違う立場なら指差し腹を抱えて馬鹿にしていただろう。自分が当事者であっても、心の中で情けないと自分を責めているくらいだから。
額には脂汗が滲み、唇は酷く乾いている。それでも見せる引き攣った笑顔は、それ故に他者に対して無意識に心配を促していた。
「あぁ、いや……その、なんだ。今度から気をつけよう。それで――何か気付いた?」
「……? いや、ミズキさんも大変な時期があるんだなって」
「なるほど……。許した」
会話をする位余裕が出てくると、下腹部の痛みはやがて鈍痛に変わり、そこまで気にするほどにはならなくなる。私は軽く腹部をさすってから、何事も無かったように笑顔を見せてしっかりと立ち上がった。
それから汚れた制服を軽く払い、バッグを肩に掛ける。それでも琴巳はどこか心配そうな顔でこちらを見ていた。
――まぁ、痛みが緩くなっただけだから引いたとは違うのでまだ完全復活には至らないのだが、正直そこまで心配されるとなんだか私が逆に悪い事をしてしまったような気になってくる。
しかし、これが本当に心配なのだろうか、ここまでもの思わしげな顔をしてくれるとこちらが気に病んでくる。
もしかして今の攻撃の瞬間にパンチラしてしまったのではないだろうか。そのパンチラを偶然見た琴巳はついでとばかりにその股間部の盛り上がりをみてしまったのではないか。最も通常状態だしサポーターをつけているからそこまで目立つ筈はないだろうが……何にしろ、今のところ気になる心配な点はその一つに集中していた。
傍らの小鳩は泣いたカラスがなんとやら。先ほどまでなみだ目で真赤にしていた顔は、今ではにこやかに笑みで満たされていた。これで口調と性格がまともならば小和瀬のような扱いをしてやっても良いのだが、今のところはそれを許してしまうと付け上がり無駄な問題が纏わりつくのは必至だろう。だから彼女にはふざけ半分で付き合うのが丁度良いのだ。
一方で琴巳だが……。
「ねぇミズキさん、どこ行くっスかぁ?」
「まずはゲーセンとか?」
「あ、私ゲーセン行った事ないっス!」
その表情の曇りは一瞬にして払拭され、小鳩の問いに彼女は即答する。
私はソレに安堵し、息を吐いた。胸を撫で下ろし、生温い風を受け止める。やっぱり気のせいだったのだと、彼女の顔と同じように私の心中は晴れ晴れとなる。
下校時の人通りは多いようだが、部活動に向かう人間の方が勝っているために、然程通行や一目を気にするほどでもなかった。
だから私達は、なぜだか私が中心になって横に広がって――ゲームセンターへと向かう事になった。
「うーわーっ! 声が全然通らないっスよぉっ!」
「ミズキはゲーム好きみたいだけど、ゲーセンって来た事あるの?」
「え? まぁ、中学の頃はちょいちょい……」
――紫煙によって薄っすらとモヤがかかる空間内には、喧騒が如き数多のゲームのBGMが重なり、さらに金属が擦れあう音が合わさって些細な物音ならば決して気付けぬ自信をもてるくらい五月蝿かった。が、もはやこんなのには慣れっこだ。小鳩は初めである故に、目を煌めかせて辺りを見ているが、私や琴巳は比較的落ち着いて、何にするか、辺りを眺めて居た。
はしゃぐ小鳩を他所に、琴巳はさっそく目を輝かせて筐体を探し始めている。私はとりあえず、あまりここに来た事がなさそうな小鳩を優先するために琴巳に生返事をしながら、三人で盛り上がれそうなゲームを目で探した。
「ねぇねぇミズキさん、あれ、あれやりたい!」
小鳩は私の袖をひっぱって注目を自分に移すと、大きな液晶画面と、ボタンが七つ平面に並ぶ筐体を指差してプレイしてみたいと主張してくる。いわゆる音楽ゲーム、通称音ゲーで、その中でも有名な”スッポンミュージック”だった。内容は到って簡単で、流れる音楽に合わせて落ちてくるスッポンを、画面下にある判定ラインと重なるタイミングを見極めてボタンを押していくゲームである。
慣れるまではスッポンに翻弄されてしまうが、慣れてしまえば簡単で、だが奥深い個人的にも割合に好きなゲームの一つだった。琴巳は私と同じように促されて視線を移すと、いいんじゃないかな、と首肯した。
それじゃあやってみようと言う事で、その筐体の前に移動して、小鳩は意気揚々とサイフの中から二百円を出してプレイを開始したのだが――。
「うぅ、なんスかアレ。鬼畜っス。鬼畜ゲーっスよ」
「まぁ、アレだ。縁が無かったゲームって事で、元気だそうよ」
流れてくるスッポンを全て見逃してからボタンをダブルクリックしていた彼女は精神的疲労を表現するように肩を落とした。私は彼女の肩を軽く叩いてから、元気出せよ、とクレーンゲームの前まで連れ出した。気がつくと琴巳の姿は見えないが、彼女は彼女でまた格闘ゲームに熱を出しているのだろう。
そんな風に一方に意識を向けると、小鳩はまるで幼児のように私の腕を突付いて注視させる。私は「はいはい」と気だるげな返事と共に、小鳩の面倒に集中した。
「ほら、この熊の脇にアームを挟む事を想定して、移動させんのよ」
「む、なにやら繊細な予感……」
「まぁ最初はなんでも難しいよね。でもやってる内にコツを――」
アームが関節を動かす機械音が籠って聞こえる。私が失敗を恐れずチャレンジせよと、落ち込まないように言葉を掛けている間に彼女は既にクレーンを操作していた。この娘はいつでも人の話を聞いた事がないと心の中で愚痴っていると――。
クレーンは先ほど例に出したテディベアの頭上で停止し、僅かな調整の後、静かにおり始める。捕食する蜘蛛のように開かれたアームは両手を広げる熊の脇の隙間に突き刺さり、そして閉じると、がっちりと脇が固められた。熊は順調に引き上げられ、一度空中で停止する振動すらも凌いで……。
熊は果たして、小鳩の手元に降臨しくさった。
「……やった!」
「おう、良かったじゃない」
「いやあミズキさんあってのコレっスよぉ」
胸の前で小さくガッツポーズする姿はまるで深窓の令嬢がはしゃいでいるようで見ていて可愛さがあったが、その口調が復活してからは一気に現実に引き戻されたような気がして、彼女を見る目が少し変わる。が、どうやらこのゲームセンターで一気に距離が縮まったつもりで居る彼女は、私に身体を密着させながら再びクレーンゲームに投資していた。
「ちょ、まだやるの?」
「――これより我ら、修羅に入る」
「私もっ!?」
彼女はまるでクレーンゲームに魅入られ、さらに才覚を見せた所為でファンシーなアニマルグッズしかないその筐体に数百円、後に数千円と投資する。
最初の勢いのままで行ければ良かったのだが、さすがに二度目以降は幾度か失敗してしまう。だが六、七回目になると確実にそのツボを理解したのか、ほんの僅かな指の動き、そのクレーンの揺れやらを見極め、タグに引っ掛けたり、腕で輪を作る人形のそこに突っ込んだりと、稀にテレビで見るプロの技術をやってのけた。
やがて数十分も経過すると、小鳩も我に返って――バッグに入りきらない無数の人形、ヌイグルミを見て、
「……ごらんのありさまだよ!」
嬉しげな顔で咆哮ぶと、一区切りついたかと様子を窺っていた店員が、丁寧に袋をもって近づいてくる。私はそれに顔を向けると、
「よろしければこちらをどうぞ」
と嬉しげな顔で男性店員が手渡してきた。
最悪抱えようかと行動に移しかけた私達にとっては正に渡りに船と言ったものなので、礼の一つでも言いたかったのだが、そうしようとする内に彼はそそくさと受付の方へと身を引いてしまった。仕方が無いので私は一つ彼の背に会釈をしてから、小鳩に渡されたトートバックを譲り、人形を居れる様にと促した。
瞬間――。
「てめぇ……もう我慢ならねぇ!」
アングラの巣窟に近いと言っても差支えがないほど筐体の揃い具合が秀逸の空間で、そんな所故に日常茶飯事であろう怒声が響いた。喧騒を超えるドデカイ声はマナー知らずのお客の中でもその多くが、さすがに迷惑だと感じたのだろう。近くに居た殆どが、眉根に皺を寄せ、声の方向へ顔を向けていた。
一割が興味深々に、五割はどうでも良さそうに、そして残りは面倒ごとに巻き込まれないように店を後にする。私達はその最後の連中に模倣し出て行きたかったが、まだ琴巳と合流していないのだ。
そして声が聞こえて来た方向は、残念ながら彼女が居るであろう格闘ゲームの筐体が並ぶ場所である。
「女ちゃんがよぉ、口の利き方ってモンを教えてやろうか?」
そしてその台詞で絡まれているの女性だという事が判明した。
この時点でその被害者、あるいは加害者が流石琴巳と言う線は酷く濃厚である。
妙な暴力沙汰にさえならなければ、私が横から突っ込んで口先だけで言いくるめてやる事が出来る。そして実行してやってもいい気分だし、そのつもりだ。男友達なら知らん顔で帰っていたが、友人が女の子で、さらに相手が、
「ちょっと面ぁ貸せや、嬢ちゃん」
背丈が私くらい高くて、さらにゴリラみたいな筋肉のつき方をする、見た目がぱっとみ野蛮な男であるならば仕方のないことだろう。
私が様子を身に行くかどうか手をこまねいていると、そんなタンクトップ姿の男が女の子の細腕を引いてクレーンゲームの脇を通り過ぎる。通過する少女と――流石琴巳と、眼があった。視線が交差した。そして悲しげな表情が、そこにはあった。
「あっ……」
背にしがみ付くように居る小鳩は、そこで漸く”被害者”が琴巳なのだと理解する。そして瞬時に、その後行われるであろう凄惨な出来事を脳裏に過ぎらせて、服を掴むその力が少しばかり強くなる。
私はその両者の心情を理解して、酷く脱力した。
どうすりゃいいっつうんだよ……。いや、どうして欲しいのか、か? 私は分かっていながらも心中自問する。
無論、こいつらの思った通りのことはしてやるつもりだし、見事成功する自信もある。伊達で”あの一年間”を過ごしたわけじゃあない。だがこの姿は目立ちすぎるのが問題だ。
いや、だがどうするかを考えている間に二人の姿を見失うかもしれない。それは一番やってはいけないことで――。
気がつくと走り出すこの身体は、考えるより先に問答無用で琴巳の背に追いついて、虚しく垂れるその手を掴んでいた。
「ほーら、どこ行くつもり? 帰るなら一緒に帰ろうよ」
「あぁ? テメェ誰だ」
しかし、やはりと言うべきか。私の言葉に反応するのは男が早かった。だから私は思い切り振り上げたカバンを彼女と男の、手の継ぎ目の部分に力一杯振り落とした。するとヌイグルミを沢山詰め込んだその重量と、力に耐え切れなかった、そして必要以上に堪える必要のない手はいとも簡単に離れる事が出来て――その瞬間、私は琴巳を思い切り背後に引っ張ると、同時にこの身を男に迫らせるように押し出した。
男はぎょっとして私を見つめるが、だがそれ以上の行動に移らないのを見て、にやりと笑う。
どうせ私がびびってこの期に及んでこの肉体を硬直させた、だなんて思っているのだろう。しかしこんな状況では、こういった思い上がりの馬鹿のほうが助かる。だから私は男好みの、怯えた表情をして見せた。
そして間髪おかずに肩を掴まれると、そのまま身体を手繰り寄せ、肩を組む。アルコール臭が鼻についた。
「はぁん? 嬢ちゃんの身代わりになろうっての? いいぜ、俺は心が広いからな」
彼は力任せに私を引っ張ると、そのままゲームセンターの外へと誘った。私は構わずそれに流され、背を向けたままこちらを向いているであろう琴美に手を挙げ、小鳩をよろしくと合図したが、それが正しく伝えられたかは定かではない。
――やがて喧騒は失せ、耳はまるで耳栓でもされたように、世界の音を隔てて聞かせた。だがそもそも元が静かである故に、男の息遣い以外はその殆どが無音に近かった。
店と店が並ぶ。その為に路地が多い。そして人通りの少ない道の路地などは、不良の溜まり場にもってこいの人気の無さだった。
私は思ったとおり、そんな人気のない薄暗い、息苦しいくらい空気の悪いその路地へと連れて行かれて――。
その暗がりに入り込んだ瞬間、鋭い一撃が顔面に突き刺さる。
痛みが脳に染み渡る。暴力に押されて後退する身体は、ここが狭い路地であることを認識しているのにかまわず下がり、後頭部を壁に強打した。
痛みが芯に伝わり、行動が鈍る。意識が僅かに白に近づいた。
「馬鹿が! カッコつけで身代わりなんかになるから、よォッ!」
「ってぇんだよ屑がッ!」
男は大きく振りかぶる。故に馬鹿みたいな隙が出た。
私は背と接する壁を強く弾いて、男に向かう速度を加速させる。そして僅か数瞬の内に肉薄すると、男は行動に焦って拳を突き出した。が、路上でのケンカしか経験のない拳など、どう飛んでくるか容易に予想がつく。だから私は突進する拳の内側に自分の腕をもぐりこませ、その軌道を反らすように作用させてから、外側へと力強く弾く。
そうすると思惑通り、男は大きく、何かを抱擁するように腕を開いてくれた。
隙は更に大きくなる。
男はもう片方の腕で――顔を隠すように防御の態勢をとった。
これで完全に彼は無防備になったわけだ。
私は頬を吊り上げる。だが対照的に、この表情は怒りに満ちていることだろう。
「馬鹿が、弱ぇモンだけに粋がってんじゃねーよ」
強く右拳を握ると、間髪おかずに振り上げる。そしてその拳骨は寸分狂わず男の、顔を守る下腕に喰らいついた。そしてその腕は力に負け、押され、大きく空へ弾かれる。途端に、驚きに塗れた男の顔が覗いて出た。
私は構わず残った左腕を背後に引いて、脇を締める。それを見て男は一層顔を引き攣らせたが、構わず弦の引かれた弓のように、拳を弾き、男の顔面、その鼻筋へと肉薄させる。同時に男へと大きく踏み込んで、体重と、勢いその全てを上乗せした。
刹那にしてこの拳は男の顔面に食い込むと、妙な、硬かった何かが緩くなる感触を覚える。だが構わず、持続的に、壁に対して垂直に力を加え続けてやった。
ぐぎぎと、言葉に成らぬ呻きは口が拳によってふさがれているが故だろう。
だが構わず言ってやった。
「一発は、一発だぜ?」
口にすると、男の両腕が左腕に纏わりついた。
私は短い溜息の後、空いた右拳で男の顎を叩く。それと共に男の両腕からは力が抜けて、閉じた口からは中から何かが押し寄せるように、頬が膨らむ。
それが何なのかを瞬時に理解し、私は跳んで街道側へと避けると、瞬間、男の口からは滝の様に吐しゃ物が溢れ出だした。しかし飲酒の後に激しい運動だ、それも仕方ないだろう。酔いが悪い方向へ回ったのだ。自業自得と蔑んでやる事しか、私には出来ない。
――私はそんな彼が口から、胃の中からその全てを吐き出し終わったのを確認してから、コイツをどうすれば永久的に、簡単に人を襲わなくなるような恐怖を与えられるだろうかと考える。が結局何も思いつかないので、ポケットから携帯電話を取り出し、とりあえず警察に通報する事にした。
そんな頃になるともう、空の色は朱色に染まりあがる時間帯になっていた――。