プロローグ――お別れ――
暑苦しい。呼吸の度にむせ返る、蒸す様な空気が身体の中に染みこんだ。
生暖かい液体が、甘酸っぱい匂いを鼻に翳ませ気化していった。
それは赤い、酷く紅い、血の色だった。日差しは強く、だがソレは既に西日に変わっている。故に、血が血たる色を俺に見せてはくれない。彼女の顔でさえ、オレンジ色に染まっているのだから。
俺の腕の中には華奢な女性が居た。片膝を立てる俺に背を預けるようにして、だが顔はしっかりとその儚げな表情を此方に見せて。
頑丈が取り得だと自慢していた彼女の引き締まる腹部には、冷たい銀刃が突き刺さっていた。気に入って帰宅しても中々脱ぎはしない制服は引き裂かれ、腹部が赤く染まって開かれていた。止まるはずも無く、血が流れ続け俺を浸す。短い呼吸が何度も何度も、死にたくないと訴えるように繰り返されて、俺は思わず眼を細めた。
ごめん。
彼女の唇が、静かに動いた。声は出ず、空気が揺らぐほどの勢いすらもない。だが分かる。彼女は確かにそう言った。だから俺は、首を振る。お前が謝る必要は無い。悪くは無い。運が無いだけ。仕方が無かっただけなんだと、口では言い切れぬほどの意味を添えて。伝わっているか居ないか分からなくとも、それを口にすることで、恐らく残り僅かであろう彼女の時間を使いたくは無かった。
胸の奥がずきりと、酷く痛んだ。彼女の重さが、徐々に、彼女を抱きしめる両腕に加重されていくのを感じて、握る腕に、肩に、思わず力が籠った。
アスファルトの道路に闇が落ち始める。が、間髪置かずに街灯が光を灯して道路を照らした。西の空は既に紫色に、紫から黒へと変色し始めている。同時に、俺を、彼女を濡らす赤黒い血が、流れも、その熱も、弱々しくなっていくのを理解する。俺は、それを理解してしまった。
「ねぇ、……お願い、あるの」
薄い唇が、流れる涎に濡れて照る。まだ生まれてから一度も接吻を経験していない純なそれは、最期の言葉を俺に紡いでいた。
「なんだ? お前の願いならなんでも聞いてやる」
思わず口が矢継ぎ早に言葉を吐き出そうとする。俺は慌てて喉を閉じ、静かに、冷たく、重くなりつつある彼女を強く抱きしめて、言葉を待った。
頭の中の血管が膨張する。胃がキリリと悲鳴を上げた。閉じているのか、薄く開いているのかすら分からぬ眼を見つめて、俺は”いつもの”言葉を、彼女の耳元で囁いた。
「……頑張れ」
鼻に付く髪から、甘い香りが漂った。血に、汗に、泥に、悲しみに、痛みに、怒りに塗れていても失われない、彼女の香りだった。彼女は俺の言葉を聴いて、薄く、頬を吊り上げた。俺の為に、痛みを我慢して、頑張ってくれた。いつでも、いつでも、誰も知らぬ所でさえも尽力骨折り努力して――。
胸いっぱいに空気を吸い込んだ。制服を内側から盛り上げる大きな胸が軽く揺れて、鋭い痛みが走ったのか、表情が苦痛に染まる。俺はいつの間にか握っていた彼女の手に力を入れて、応援した。
そんな行動が――まるで俺が、彼女の死を受け入れようとしているようで、確定している事を認めているようで、酷く吐き気がした。自分自身に腹立った。
傍に落ちている携帯電話が、視界の端で画面を明滅させる。恐らくキリの良い時刻になったと言う事だろうが――救急車を呼んだのは、その二分前の事だった。
時間はまだ二分しか経過していない。俺はその事実に、否定したその現実を、受け入れざるを得ないように、感じた。半ば自然に。殆ど、強制的に。
焦りが全身を震わせた。息をするのが苦しくなる。心臓が痛い。指先が柔い肉に食い込んでいることに、彼女が悲しげに「痛いよ」と伝えるまで気付けぬくらい、俺はどうかしていた。
「わ、悪い」
「ううん」彼女は小さく首を振った。続いて、でも、と先の台詞の後を次いだ。
「わ、たし……ね? 私……」
垂れていた手が不意に、優しく頬を撫でた。体温が失われつつあって冷たく、血に濡れたその手ではあったが、確かな暖かさがそこにはあった。血の匂いが再び鼻に付くが、俺は構わず、膝を枕にする彼女の頭を抱きこんだ。
――人通りの少なく暗い街道。閑静な住宅街の縦横に広がる路地の中の俺たちへ、どこか遠くから、サイレンの音が届く。俺は思わず顔を上げようとすると、彼女はおよそ彼女らしからぬ強引さで、俺の顔を引きとめた。
「君に、私の分まで、ね……、生きて、欲しい……」
「ば、馬鹿ッ! 頑張れよ! いつもみたいに……あ、あと少しで救急車が来るんだ! ほら、聞こえるだろ? あと少し、あと少しでさ……ッ!」
声が震える。
サイレンの音は如実に大きく、帳が落ち始めたばかりの住宅街にやかましく響き続けた。
気がつくと唇が震えていて、俺は嗚咽を漏らしていた。眼から溢れる暖かい、無色透明のしょっぱい液体が頬を伝い、顎の先から滴った。それは彼女の首筋に落ちて、
「お願い、笑って……?」
涙で視界がぼやけた。頬に触れている手から、力が抜け始めた。モザイク加工される彼女の顔が、徐々にこちらからどこか遠くを見るように、首が座らぬように崩れ始める。だから、俺は――。
「あぁ、お前の分を生きてやる」
およそ今まで歩んできた人生の中で、一番の笑顔を見せて――彼女がその刹那、俺に全てを託すように、重くなった。華奢な身体のどこにこの重さがあるのかと疑いたくなる重量が、だが苦痛にならぬその重さが、俺の腕に、全身に、圧し掛かる。
俺はその瞬間、彼女の生を諦め、死を認めた。
俺はその瞬間、およそ彼女が望まぬことを、口にして――。
俺はその瞬間から、彼女になった。