チェリー
恋に落ちる瞬間を、どうして人は覚えていられないのだろう。
せめて水溜まりのように恋が目に見えるものなのなら、これから落ちるのだと覚悟も出来るのに。落ちてからでしか気付けないなんて、念入りに木の葉や草や、しっとりとした良い匂いの土で隠された落とし穴みたいじゃないの。しかも、悪戯好きの小学生が作ったようなのじゃなくて、手先が器用でその能力を生かして職業にしているような、落とし穴のプロ(そんなものが居ればの話だけれど)が作ったような。
「人数分の布団なんてないからな」
金曜日の飲み会はペースが速く、飲み過ぎてしまったのは私だけではなかった。仲の良い会社の同僚五人、男三人と女ふたりで結成された仲良し飲み友達は、けれども実はアルコールに弱いメンバーがひとりいる。私なんだけれど。他の四人は大酒のみで、そして私がこっそり好きでいる羽賀くんが中でも一番お酒に強い。そう、私は羽賀くんと過ごす時間が少しでも欲しくて、飲み会のメンバーに入っている。でも、好きと言っても、ちょっと良いな、と思う程度のもので。私は人を好きになるとついつい突っ込んで行ってしまって、周りが見えなくなってひとりで大騒ぎに状態になってしまうから、実は好きになるのをセーブしているというか。
「しかし、今日は飲み過ぎたよなぁ」
「ごめんね、大勢で」
「林が謝る事ないさ」
もうひとりの女性メンバーである真美ちゃんに肩を貸しながら、羽賀くんが私を振り返って笑って見せる。酔っ払った真美ちゃんは、一昨日失恋したばかりだといって、今日はやたらと飲むペースが速かった。失恋したの、と大泣きしはじめたのは随分と酔ってしまってからの事で、何も知らずに飲み比べだ、と一緒に飲んでいた飯田くんと岡田くんもころりと酔っ払ってしまった。三人の酔っ払いをまとめるのは大変で、終電なんて簡単に逃してしまったので、私達は一番家が近い羽賀くんのところにお邪魔させてもらう事になったのだ。
真美ちゃんにべったりと寄りかかられているのには複雑な気分にさせられるけれど、羽賀くんの家に行けてしまうのはものすごく、嬉しい。嬉しい気持ちも吹っ飛ぶような、酔っ払いの飯田くんと岡田くんの怒鳴り声に近い『鳩ぽっぽ』を背中で聞かされてはいるのだけれど。
彼の家は繁華街を少し外れた、下がコンビニになっている建物の二階にあった。
「マジで汚いから、覚悟してね」
他の三人は道っぱたじゃなければもうどこでも良いだろうけどな、と笑う彼は、真美ちゃんを抱え直す。優しい羽賀くん。彼が部屋の鍵を開けるとほぼ同時に飯田くんと岡田くんが転がり込んで、冷たい床が気持ち良いなとそのまま寝そべってしまった。
「お前等こんなとこに寝るなよ邪魔だよ、」
ちょっと布団持ってくるからよろしく、と靴を脱ぎかけた私に羽賀くんから真美ちゃんが渡される。重心を失っているぐにゃぐにゃの女の子がこんなに重かったなんて。おおっと、と思わずよろけて、自分ごと倒れてはいけないので慌ててバッグを玄関口に落とした。中の何が当たったのだろう、ガツンという音がして私を驚かせる。
結局真美ちゃんと飯田くんと岡田くんを適当な場所に寝かせる事が出来たのは三十分も後の事で、それからようやく私と羽賀くんはお疲れ様でした、と顔をしっかり合わせたのだった。しかし、それはそれで恥かしい。
「ああ、林さん、風呂使っていいよ」
「え、あ、お風呂!?」
深夜二時。
お風呂使っていいよ、と言われて、変な事を想像してしまうのは私だけなんだろうか。
「汗かいたまま寝るの嫌でしょ、女の子って」
「あ、あああ、そういう事か、ああ、はい、すみません」
汗かいたまま寝かせるつもり、なんて聞いた女の人が、前にいたのだろうか。
その人は、羽賀くんと、どんな関係だったの、かな。
「でも、すっぴん晒すのは……」
「林さん、いつでもすっぴんみたいじゃん」
ガーン。マンガの吹き出しが入りそうな程ショックを受けてしまったので、それが顔に出たのだろう。 彼は慌ててフォローを入れる。
「あ、違う、ほら、すっぴんにしか見えない、ええっとナチュラルメイク? それってすごいって事で、ああ、ごめん、誉め言葉だってばどっちかと言えば、いや、うわっごめん、怒った?」
困った顔をする彼は、いつものたれ目がもっと細められているので、まるで笑っているように見える。 怒ってない、誉め言葉だったら素直にありがたく貰っておくわ、と言って、私はお風呂を借りる事にした。好きな人の家で、汗臭いままの女っていうのはすっぴんでいるよりもっと恥かしいから。
絶対覗かないから、と言う羽賀くんからバスタオルを借りる。一応携帯用の化粧ポーチはバッグに入っているけれど、化粧水がない。乳液もない。コンビニで明日の朝買おう、今夜分は仕方がないから諦めよう。
お風呂は、ボトル入りのリンスインシャンプーとボディソープがそっけなくおかれ、洗面台の上にカミソリとムース類が乗っていた。羽賀くんの匂いだ、と思う。彼の使っているお風呂場は、もちろん彼の匂いがして、そして裸でいる分部屋にいるよりもなんだかずっと恥かしかった。初めてお邪魔した家で、シャンプー借りても平気かな、図々しく思われないかな、と不安になる。けれども彼と同じ匂いになれる魅力の方が勝っていて、私は水色のボトルからシャンプーを押し出した。
このすりガラス一枚で隔てられている空間の向こうに、三人の男女が寝ていて、ひとりの男の人がテレビを見ているのか飲み直しているのかは分からないけれど起きているのだという事が、ひどく不思議に思えた。温度調節を間違えたシャワーの冷たさに、思わず声を漏らす。状況は全然違うのに、なんだか不倫でもしているような気分になってしまった。
そして思う。
このシャワーを、彼に抱かれる為の前行為として使った女の人がいるのだろうか、と。考えても無駄なそれは、私の胸をちくんと突き刺す。意味もない精神的自傷行為。
馬鹿な事を考えてばかりいたので、お風呂から上がる時はもうくたくただった。先顔料もまさかメイク落しがあるわけではなく、まだファンデーションが肌に残っているんだろうな、と不安になる。三度も洗ってみたけれど、どうだろう。
「ドライヤー、そこにあるから使っていいよ」
一応まだ着てないTシャツ出しておいたから、それも良かったら着て、と言われる。女扱い(せっかくシャワーを浴びたのに、また汚れた服を着るなんて、ね)に馴れているのか、それともただの良い人なのか。そんな事を少し思う。
「あ、いい、寝てる人起こしちゃっても悪いし、」
「駄目です、ちゃんと頭は乾かしなさい」
もそもそと羽賀くんが出してくれておいたシャツを着る。羽賀くんの家の匂い。
「え、いいって、それよりこんなにいろいろ、」
借りちゃってごめんなさい、と脱衣所を出たら、羽賀くんが立っていた。
「きゃっ、」
「あ、違う、今来たところだから覗いてない」
笑う彼から、ウィスキーの匂いがした。また飲み直していたのだろう。
「ちゃんと髪乾かさないと、濡れてる時に傷むんだからな、髪っていうのは」
私の肩を持って、くるんと回れ右をさせて、彼はまたドライヤーのある洗面台に私ごと入って行く。肩に乗せられた、手の熱が。
ちょっと待って、と言う間もなく、彼はドライヤーのスイッチを入れ、はいはいごめんね、と私の髪に温風を吹き付けた。大きな、手が。私の、髪を。
「髪が濡れたまんまの状態で寝るなって、元カノによく怒られてさ」
ドライヤーの音が大きいので、彼は私の近くでいつもより大きめの声で喋る。
真美ちゃん達は起きてしまわないだろうかと、違う事に意識を集中させようとするのだけれど羽賀くんの指が。私の髪をわしゃわしゃと撫でるのが。ドライヤーの熱ではない熱さで、私の頬が染まる。もちろん、お風呂上がりのせいでもない。
そして、それよりも。
「前の彼女さん?」
「え? ああ、前の彼女ね、美容師だったんだよ、あいつと付き合っていた時は散髪代かかんなくてすっごく便利だったんだよな」
濡れたまんまで寝るなんて、将来のハゲを約束してるようなもんだってさ、と羽賀くんは続ける。でも私の耳は、前の彼女、の単語で聞く事をストップしている。
前の彼女は美容師さん。
じゃあ、今は彼女、いるのかしら。
そして私は頭を振る。違うの、いいの、羽賀くんはちょっと好きなお友達、まだ本格的に好きになるって決めた訳じゃないわ、違うの、そんなの気にしないの。
「こら、暴れるな」
きゅっと手を広げられて、私の頭は彼の手にすっぽりと持たれて、固定される。
「暴れてない、」
「頭振るなよ、もう」
くすくすと笑い声が、耳に入る。待って待って待って待って。ちょっと待って。
ねぇ、あなたは誰にでもこういう風に髪を乾かしてあげたりする訳? ちょっと待って、ねぇ、そんな風にされたら。
「耳の後ろって、案外乾かないよな、」
そんな事を言って、彼が後ろから私の耳元を指で掬う。ちょっと待って、本当に、待って。
「わ、」
私がいきなりしゃがみこんだので、彼は驚きの声を上げて、そしてドライヤーの風は何もない空間を暖めた。私は乾ききっていない頭を抱えて、きゃあきゃあと頬が緩むのを感じている。
「林ぃ、何してんだよ、遊んでるなよ」
右腕を掴まれて、引っ張り上げられて。
きゃあきゃあ、心臓がパニックになっている。
駄目だって、好きになっても良い時期をちゃんと見計らって……そんなの、出来るはずがない。恋なんて、気付いたら落ちている、どんなに気を付けていたって、どんなに計画を綿密に立てていたって、突然過ぎてすべては何の役にも立たない。
「なんだよ林、お前は今ごろ酔ったのか」
羽賀くんの笑う声。彼に掴まれた腕が、そこから熱を発し出す。
これ以上近づかれたら、私きっと大声で好きですって叫んじゃうわ、と思いながら、でもこの手を放されたらきっとすごく悲しくなるんだろうな、とも思う。
我侭な恋心。
「後は自分で、出来るから!」
「駄目です、俺がやってあげます」
そういう言い方してくれたら、私いろいろ勘違いするよ! 羽賀くん。羽賀くん、私あなたを好きみたいなんですけれど。
「後でさ、明日の朝の為に、買い出しとか行かない?」
再び握られたドライヤーと、私の髪に触れる丁寧な指。
買い出しとか、行ってもいいよ、と出来るだけ何気ない声を出してみたつもりなのだけれど、心臓が恋愛モードで高鳴り出すのを、私はもう止められないでいた。