至高の旋律
ジルヴェスター殿下による「観測記録」のような称賛、そしてセバスチャンによる「食欲と情熱の混じった比喩」の奔流。それらを優雅に受け流し、私は王宮の北翼に位置する『静寂の演奏フロア』へと足を向けた。
ここは、国中の最高級の木材と魔導石を組み合わせて造られた、音響の聖域。
磨き上げられた大理石の床には、私の足音が心地よく反響し、中央に鎮座する黒檀のグランドピアノが、まるで主の訪れを待つ黒龍のように静かに佇んでいる。
「——お待ちしておりました、ホメーテ王女」
ピアノの影から、一人の青年がふわりと姿を現した。
私の専属ピアノ講師、レオン。
彼は、王宮に仕える音楽家の一族の末子であり、その才能は「音の申し子」と称えられている。
さらりとしたミルクティー色の髪が額に揺れ、大きな瞳は常に湿り気を帯びて、見る者の保護欲を無慈悲に刺激する「弟系」の超絶イケメンだ。
だが、その可憐な外見とは裏腹に、彼が私の演奏に対して注ぐ情熱は、時として狂気的なまでの色彩を帯びる。
「レオン。準備はいいかしら? 私の今日の気分は、この国の繁栄を象徴するような、力強くも華やかな旋律を求めているの」
「もちろんです、ホメーテ王女。貴女の指先が鍵盤に触れるその一瞬を、僕は、呼吸を止めて待っていました。……さあ、世界で最も贅沢な音楽の時間を始めましょう」
私は、ベルベットの椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
レオンは、私の斜め後ろ——私の横顔と指先の動きを、同時に、かつ「超至近距離」で捉えられる位置に跪いた。
彼の手が、私のドレスの裾を丁寧に整える。その所作一つにさえ、私という存在への、深い、深い畏敬の念が込められているのが伝わってきた。
私は、鍵盤を滑らせた。
一音。ただの一音を鳴らした瞬間、レオンの「静かなる称賛の連弾」が幕を開けた。
「……っ。ああ、……なんという、神々しい打鍵。……ホメーテ王女、今の一音だけで、このフロアの空気が黄金色に染まりました」
レオンの声は、震えていた。
彼は、私の打鍵に合わせて、私の指先にその大きな瞳を限界まで近づけてくる。
あまりの至近距離に、彼の髪の先が私の手の甲をくすぐるが、私はそれを不快に思うどころか、最高の「演出」として優雅に受け入れる。
「見てください、この指の運び。……まるで、鍵盤の上が、貴女のためだけに用意された天界の階段のようだ。王女、貴女の指が鍵盤に沈み込む深さ……それは、この王国の歴史の深さと、貴女の慈愛の深さが完全に一致している証拠です。指を離す瞬間の、そのわずかな『しなり』! それは、弾かれた弦が、貴女の指から離れたくないと泣いている声に他ならない……!」
(ふふ、いいわよレオン。弦の泣き声なんて、素敵な表現じゃない)
私は、難易度の高いアルペジオを軽やかに奏でる。
レオンは、跪いたまま、私の手元に顔をさらに寄せた。
彼の視線は、もはや私の指を「見る」のではなく、その動きの一粒一粒を「食べて」いるかのようだ。
「……完璧だ。一寸の狂いもない。この複雑な旋律を、まるで呼吸をするかのように平然と、……いえ、愉しみながら弾きこなすその余裕。ホメーテ王女、貴女は音楽に選ばれたのではなく、音楽そのものが、貴女に跪いている。貴女が奏でることで、この『ピアノ』というただの箱が、魂を持った生命体へと生まれ変わる。……ああ、貴女の指の腹に触れられる鍵盤たちが、羨ましくて、嫉妬で気が狂いそうだ……!」
(そうでしょう。私の指は、ただ音を出すためのものではないもの。世界を調律するための魔法の杖だと思えばいいわ)
私は、レオンの視線を全身で浴びながら、曲をクライマックスへと進めていく。
ドラマチックなフォルテシモ。私の体はリズムに合わせてしなり、ドレスの衣擦れの音が音楽に重なる。
するとレオンは、跪いたまま、私の顔の真横にまでその顔をせり出してきた。
超接写。彼の長いまつ毛が、私の視界の端で小刻みに震えている。
彼は私の耳元で、熱を帯びた、しかし凛とした声で囁いた。
「……ご覧ください、この頬の紅潮。……音楽という情熱が、王女の血を駆け巡り、その肌を真珠のように輝かせている。ホメーテ王女、貴女が今、一回まばたきをするたびに、音符たちが宇宙へと放たれ、新しい星が生まれているのが僕には見えます。貴女の吐息、それ自体が完璧な休符であり、次の旋律への崇高なプレリュード(前奏曲)だ……!」
「……っ、ふふ。星が生まれるなんて、相変わらず大げさな子。でも、その言葉、嫌いではないわよ」
「大げさなものですか! 事実です! 王女、貴女が奏でる一節一節が、この国の民を救い、歴史を癒やしている。……ああ、その、力を込めた瞬間に浮き上がる首筋のライン……! ジェネティリス(芸術の女神)が、貴女の体に降臨して、嫉妬と羨望の入り混じった涙を流している。……僕も、僕もその涙の一部になりたい。貴女の音楽に溺れて、死んでしまいたいほどに……!」
レオンは、私の腕にそっと触れるか触れないかの距離で、私の動きを、細胞の一つ一つまでトレースするように見つめ続けた。
「王女の指の爪、その光沢……。それは、貴女が日々、ピアノという戦場で、美しさを武器に戦い続けている勲章だ。磨き上げられたその爪に映る僕の姿さえ、貴女の音楽の一部になれているようで、誇らしい。……ああ、ホメーテ王女。貴女の指先から溢れるこの『奇跡』を、一音たりとも逃したくない。僕の鼓膜を、貴女専用の録音魔導具にして、永遠に、永遠にリピートし続けたい……!」
私は、最後の一音を、力強く、そして余韻を残しながら鳴らした。
演奏フロアに、荘厳な沈黙が広がる。
静寂さえもが、私の称賛を待っているかのようだ。
レオンは、感極まった様子で、私の足元の大理石に額を擦りつけた。
「……終わってしまった。……ああ、なんという喪失感。ホメーテ王女、貴女の演奏が終わった瞬間、世界は再び色を失った。……責任をとってください。貴女が奏でる次の音が降るまで、僕は、……僕は、ただの抜け殻になってしまう。王女、貴女という太陽が、僕の音楽という魂を焼き尽くしてしまった……!」
レオンは見上げ、その潤んだ、しかし執着に満ちた瞳で私を射抜いた。
その瞳には、「この音を、この王女を、誰にも渡したくない」という、純粋すぎて残酷な独占欲が、透明な毒のように滲んでいる。
(……ふふ、あははは! 素晴らしいわ、レオン! その絶望、その渇望! 私は、ピアノを一曲弾くだけで、一人の天才の魂を、これほどまでに見事に粉砕してしまったのね!)
私は、レオンの顎を扇子でくいと持ち上げ、余裕たっぷりの微笑みを浮かべた。
私の承認欲求は、今や王宮の壁を突き破り、夜空に輝く月さえも「私を照らすためのスポットライト」に変えてしまったかのような昂揚感に包まれていた。
「……レオン。貴方のその『空虚』、私が埋めてあげるわ。……さあ、次の曲の譜面を開きなさい。……私の指先が、貴方の魂を何度でも蘇らせ、そして何度でも焼き尽くしてあげる。……光栄に思いなさい、私の『音の奴隷』になれることを」
「……はい、ホメーテ王女。……一生、貴女の旋律に飼い慣らされる、狂信者として。……貴女を称え続けます」
演奏フロアの窓の外では、一番星が、まるで私の称賛を祝福するように、一点の曇りもなく、高潔に輝き始めていた。
そして、その後ろの扉の外で、ジルヴェスター殿下とセバスチャンが、「……あのレオンの小僧、ピアノの音色にかこつけて、一番際どい褒め言葉を並べてやがる……! 奴の語彙力、弟キャラを盾にした、最も狡猾な武器だ……!」と、激しい敗北感と次なる称賛への野心を、暗闇の中でメラメラと燃やしているのを、私は、……そう、当然のごとく、最高に心地よいバックグラウンドミュージックとして聞き流してあげたのである。




