雷獣遊楽 3
5
「雷獣っすか、あの雨になると雷共に来る的な妖怪の」
「そう、江戸時代において大きな知名度を誇った妖怪。日本には各地にこの雷獣の伝承が残されているが、明治時代以降にはその正体も未知では無くなっていき、今では知らない人も多い妖怪だ」
怖い話でもするように、ある種呑気に家人は雷獣について説明をする。
「でも雷獣って、獣なんすよね。だからつまり、普通の動物って意味の。タヌキだとか、イタチだとか、ムジナだとか、一番言われているのは『ハクビシン』だとか」
「『ハクビシン』そう、それなんだろうね」
言って、家人はグラスの水をまた少し飲む。
「それで、その件の噂話ってのはどう言う話なんです。まさか『雷獣』の話って言うのなら江戸時代の噂話って訳では無いんすよね?」
それほどまでに古い噂話は、噂話とは言わない。どんな些細な噂話だって歴史を刻み残り続ければ伝説に近くなる。噂話は、軽薄でかつ人の口伝えの俗物何より歴史浅でなければならない。
私のこう言う意見を察してか、家人も何とも言えぬといった顔をしている。
「……うん、どうやら、江戸時代では無いらしい。江戸時代頃の、この地が蝦夷だった頃の話なら、特段気にする必要も無いんだけどね」
「ただの噂話では無いんすか?」
「無いかもね、これは」
6
ボーン、ボーン、ボーン。食堂内には時間を知らせる掛け時計が音を上げた。現在、午後7時である。
「行かなければ、風呂の支度をし始めなければ、風呂の時間に間に合わなくなる。すまない、カエラ。話は後にしよう」
そう言って、強風吹き荒れるようにドタバタと家人は行ってしまった。ポツリ、私はそこに置いて行かれた。まぁ、珍しいことも無いので今更どうと言う事は無いのだけれど。
私は家人さんが残したグラスを持ち上げると、底に残った水分を台拭きで拭き取り、後に卓の上も綺麗に拭き上げる。
うん、良いね。
「スケジューリングがはっきりとしてる人なんですね。東洲斎家人さんと言う人は……」
またもや、どこから現れたのか女将が姿を見せる。私は一瞬、ビクッとしたが動きに出すほどではなかった。
「はは、あの人は予定調和というのに関してはずば抜けてるっすからね」
ぬけぬけと家人の事を少し悪く言ったのは私にしては珍しかった。普段、バイト仲間にもそんな話は、特に男の人と同居しているなんて話は出来ないので仕方ないと言えばそうなのだが。
「決まった予定に動いている事は悪い事ではありませんし、どちらかと言えば良い事のように思いますが」
「まぁ、それはそうっす」
私はやや語尾が濁ったようになってしまった。言葉尻に女将はまずい印象のように感じたらしく、すぐさま女将は別の話を振る。
「カエラさんは噂話の内容について、東洲斎さんから聞かれましたか?」
雷獣の話か、私は家人程の興味はその話に対して抱いてはいなかった。妖怪変化、魑魅魍魎のそれら、特に神様なんてのはもってのほかで、およそ1人で生活し続けていれば、河童のかの字も知らなかったかもしれない。
私はその話を聞いている事にして、女将の話を終わらせようなどと少し逡巡したが、そう言った態度を取ることがとても憚られた。女将の目は澄んでいて、どこか寂しさを感じた。
「……雷獣の話ってことくらいは聞いたっすけど、他には何も、詳しい事は後回しにされて」
「そうですか」
艶やかに、色っぽい返答だった。見惚れた。
「よければ、聞かせてください。後で家人さんにつべこべ説明を受ける事になるのも癪なので」
「では、そうですね、時間を頂戴して、話させていただきます」
事は、19世紀ほどに遡ります。
〜
この旅館の近くには建御電力という電力会社が保有する水力発電所が存在するのですがそこの一昔前のお話です。
19世紀、近辺の村に突然にその噂話は出回ったのです。
「雷獣がやってくる、雷獣がやってくる。彼奴の雷に当てられたら最後人は正気を保てない」
人々は喧伝に、喧伝を重ねる。小さな村であったこともあって、すぐさま村中にその話は広がった。大人子供問わずその話をしていたし、噂はなり止む事は無かった。
と言っても、噂話は噂話、幽霊を怖がる事はあってもその存在を信じないことがある様に、その話を怖がる事があったり茶化す事はあっても本当にその話が見に降り注ぐとは誰も考えていなかった。
村は伝記によれば、川の中流が流れていたこともあり、上流に位置する村からの貿易商によって食べ物にも恵まれていたらしいのです。記述では当時、蝦夷の村の中でも特に裕福な村だと言われるほどでした。
しかし、それも短い時の事でした。村が特に裕福になり始めたある時、村は突然の気の狂いに襲われる事になるのです。
ある雷の日、悶えるように人は幻覚を訴えるようになった。村のほぼ全ての人が皆がそれぞれに気が狂い始めたのです。村の人はあの噂話が脳裏に過りました。
「雷獣がやってくる、雷獣がやってくる。彼奴の雷に当てられたら最後人は正気を保てない」
雨に降られて、雷が落ちる。村人は雷獣に追い詰められていた。気がつけば、村の端から端までを雷の狂いを持って、自由を奪われる事になっていた。土地は雷に奪われ、侵される。
気の狂いを治そうと、村人は必死にその解決を試みようとしたが、全ては無駄に終わりました。抵抗虚しく、気がつけばほとんどの村民は泡吹き生き絶え、残った少数も雷獣に怯え、その地を去ったと言うのです。
今はその遺恨あって、近辺にある山に囲まれた川の流れる谷を雷獣谷とも言うようになったとか。