8-幸せそうな笑顔が嬉しい
ハイリッヒは上機嫌な桜に苦笑した。
賑やかな昼食後、食休みを挟んで業務に戻っている。6人で使う執務室はいつも通り、ペンの走る音だけが響いていた。
ここの並びは玉座と同じ。順にベントゥーラ、ハイリッヒ、桜、凜夜、ファーレン、オーレリウスで並んでいる。6人揃っている時は基本的にこの並びなので、席が指定されていない場合は自然とこの並びで座ることが多い。自分のデスクをもらったが、書類が山積みになることは繁忙期だけだ。閑散期の今は、6人揃っていることもあってあまり書類は積まれていない。
普段であれば、のんびりとデスクワークをして、最初に書類を終えるのは凜夜。それから、彼が桜の書類に手を伸ばしてすぐに終える。
普段は終えた二人がお茶の準備を始めるのだが、今日は違う。
上機嫌な桜が楽しそうに書類仕事を最初に終えた。それから隣席であるハイリッヒの書類へと手を伸ばす。凜夜の方へ伸ばさないのは、彼が桜に手伝われることを厭うことを知っているからだろう。
「桜。手伝ってくれなくても大丈夫だよ」
ハイリッヒも軽食の時間までに書類を終えられる。それはきっと彼女も分かっているのだろう。
「うん。分かっている。でも、いつも凜夜が手伝ってくれて嬉しいから」
ほわほわの笑顔で言われれば、ハイリッヒは断ることができない。彼女ならばすぐに終えられる量の書類だけ渡す。凜夜から鋭い視線が飛んでくるが、上手く集中できず桜よりも先に書類を終えられなかったのが悪いのだ。
――これを見たくないからいつも早く終わらせてるんだもんな
桜が凜夜を手伝うことはない。これは凜夜が自分のプライドのために、手伝わないで欲しいとお願いした結果だ。だが、桜は仲間の書類仕事を手伝うことを厭うていない。むしろ、いつも凜夜がやってくれて嬉しいから、自分もやりたいと願っている。
普段であれば、凜夜が止めて軽食の準備を始めるのだ。準備を終えてひと息つき始めるのが、いつもの流れ。
だが、今日はその凜夜が自分の分を終えていない。止める相手が居なければ、桜は自由に書類仕事をする。仕事が嫌いでない彼女であるし、危険な仕事ではないのでハイリッヒ達も拒否する理由がない。ずっと仕事をしているようであれば断るが、今日はそこまで設定していなかった。断る理由はないし、桜は上機嫌だ。
ニコニコ笑顔でハイリッヒの分の書類仕事を終えた桜は、凜夜の書類の残りをチラリと確認した。それから、ふわっと笑うと立ち上がって、ベントゥーラのデスクへ寄る。
「僕もやるよ」
「桜様……!」
とうとう我慢できなかったらしい凜夜が立ち上がった。ハイリッヒは最後の書類に烙印を押して彼等を眺めることにする。ファーレンは既に書類を終えて別の報告書を読んでいた。意識は桜へ寄せられているようなので、ある程度したら軽食の準備に誘うつもりなのだろう。
――でも、その必要なさそうだな
凜夜が立ち上がったということは、桜の書類仕事は終わりだ。彼がこれ以上許容できないのだから、桜も納得すれば無理にやろうとはしないだろう。
「なんだ、凜夜」
こてんと首を傾げながら振り返る桜は、控えめに言って可愛い。仲間内唯一の女性であり、しっかり者の彼女が幼い仕草をするのはとても可愛く感じる。仲間内で最も戦闘力があるのは彼女なのだが、この際それは考えないことにした。
「……ヒェ」
息をのんだ凜夜が停止する。溜息を吐いてしまったのは仕方がない。
桜は随分と彼の状況に慣れたようだ。彼がどんな奇行をしようと、いつもと違おうと。桜はもう気にしていない。凜夜が彼女の下から離れないことが分かれば、彼女はすぐに安定した。いつも通りの穏やかな様子で、いつも通りのんびりと過ごしている。
対して、凜夜は未だに桜の変化に慣れない。いつも心を躍らせて、桜に微笑まれて照れる。鼻血は減ったが、それでも顔を赤くすることは減らなかった。
――もう俺のことを笑えないな
内心苦笑してしまうのは仕方がない。初心で赤面症の自覚はある。それをからかうような彼等ではないが、少しコンプレックスに思うのは許されたい。
「凜夜?」
「兄上は桜様がお可愛らしくて神に感謝しているようです」
桜のデスク傍に控えていた小百合が言う。それに彼女は納得したように頷いて、小百合に寄った視線を凜夜へ戻す。
「用件はなんだ?」
穏やかな瞳は彼の行動で怒った様子もない。不安そうな様子もないので、小百合達は目を瞑っているのだろう。
「おしごと、しすぎだと、おもいます」
何とか絞り出した言葉にハイリッヒは心の中で賞賛を送る。いっぱいいっぱいでも沈黙することがなくなった。それだけで、桜の不安はほぼ解消されるのだろう。今も、凜夜の言葉を穏やかな様子で聴いている。
ただ、凜夜の気持ちを彼女は理解することができない。いつもよりも業務量が少ないのに、凜夜が仕事のし過ぎだと止めている。桜はそう判断したようだ。
納得できないようにムッとして、凜夜を見ている。不満そうにしている、というよりも拗ねているというようだ。
「今日はそこまでやっていない。――ベントゥーラ。僕、手伝う」
プンと不機嫌そうに顔を背ける桜に、凜夜がショックを受けている。彼女が怒っているわけでもないことは把握しているのだろう。それでも、桜に顔を背けられたことが余程ショックらしい。凜夜は顔色悪くデスクに突っ伏してしまった。
――分からなくもないけど
好きな子に顔を背けられるのは悲しい。慰めようか、と腰を上げる。凜夜に寄って背を撫でれば、「慰めんなァ」と力なくうめいた。凜夜の背を撫でながら桜達の方を見れば、ベントゥーラが困った様子でこちらを見ている。
ベントゥーラとバッチリ目が合ったが、ファーレンやオーレリウスの方を確認。彼等は完全に視線を逸らしている。凜夜は使い物にならない状態なので、助けられるのはハイリッヒだけだろう。
――でも無理だよ
あれほど楽しそうに仕事を寄越せと言う彼女を拒否などできない。そこまで負担になる量じゃないこともある。
「桜、俺、大丈夫やで」
片言だぞ、とは誰も指摘できない。
「分かってる。でも、僕は手伝える」
手が空いてるぞ! と言っている彼女はきっとキリッとした表情をしているのだろう。桜は本当に仕事が好きで、ハイリッヒ達と仕事をするのも好き。もともと生真面目で仕事も早いので、本当に彼女は仕事ができる女性だ。
「せやけど、仕事しすぎやて……」
これは自分の分なのだ。そう言って残りの書類を立ち上がって掲げるベントゥーラを桜は恨めしそうに見ている。
彼女が手を伸ばしても、仲間内で身長が最も高いベントゥーラと、最も低い桜では差が大きすぎるため意味がない。桜が何をしようと掲げられた書類は得られないだろう。
「まだできる!」
感情の振り幅が大きい影響で、制御しきれないのだろう。少し語調が強くなっている。表情は少し拗ねていて、幼い表情が可愛らしい。ただ、その願っていることが仕事を寄越せ、なので要望は受け入れられないだろう。
「さくらさま、かわいい」
小さな声を拾ったので凜夜を見れば、デスクに突っ伏したまま桜を見ていた。顔は赤いが鼻血は出ていないので、随分と彼女の表情の変化に慣れたらしい。はわわ、と桜の挙動をガン見している。
「もう大丈夫そうだね、凜夜」
「俺はもともと大丈夫だ」
嘘だろ、と思ったが言わなかった。
むくりと起き上がった凜夜は再び書類に向き直り始めた。ハイリッヒは大人しく自席へ戻りながら桜達の動向を眺める。仕事を手伝ってもらっていたので、ハイリッヒはこのことに関して口出しができない。
先に口封じをされた、というのは邪推ではないだろう。
「なぁ、桜。俺、おやつこの前食べたヤツがええんやけど」
思いついた表情をしたベントゥーラがニンマリ笑う。
「この前食べたヤツ?」
ベントゥーラはおやつの時間とシエスタに命を懸けている。寝ることと甘い物が大好きなことは周知の事実だ。特におやつの時間を共有することが多い桜は、彼とおやつを作ることも多い。
――それを凜夜は血反吐を吐いて羨ましがっているのだけど
今も凄い表情で二人を見ている。ペンがその手の中で無残な姿になっているが、誰も指摘しない。ベントゥーラと桜以外の全員が音と主に、音の出処である彼の手元をチラリと見ているが、それだけだ。
「あの、甘い芋のやつ」
そう言いながら手で大きさを示しながら、特徴を述べている。
ベントゥーラの言葉を真剣に聞いている桜は、ハッと閃いた表情をすると小さくニコリと笑う。
「すいーとぽてとだね。分かった。今日のおやつはそれにしよう」
書類が終わっているから作ってくる、とデスクを離れた桜にベントゥーラがホッと息を吐いたのを見た。
「私もお手伝いしますよ、桜嬢」
にこりと笑って桜を見ているファーレンが書類を置いて立ち上がる。様子を見ていたのは分かっていたので、ハイリッヒも笑って立つ。
「俺も手伝うよ。桜のおかげで終わってるし」
普段であれば一番に名乗り上げる凜夜はまだ書類が終わっていない。それもあって、彼女に拒否されることはないだろう。
「ありがとう、助かる」
柔らかい微笑みと共に言われた言葉に彼女と並ぶ。悔しそうな表情をしている凜夜は、集中して書類を終わらせてほしい。桜と離していれば恐らく問題なく進行するだろう。むしろいつも以上の速さで終わらせそうだが、ハイリッヒ達に待つという選択肢以外は用意されていない。
「桜様、わたくしもご一緒させてください」
ふわりと微笑みながら小百合がついてくる。彼女が後ろを歩くのを確認しながら、桜とハイリッヒとファーレンで並ぶ。のんびり歩くのは、急いでいないからだ。今からのんびり準備して、おやつの時間が多少ズレようと文句を言う仲間はいない。
皇帝用のキッチンは専用の食堂近く――この食堂も執務室近くにある。別に気を使わなくて良かったのだが、気付いたらそういう風に作ってくれていた。
すぐに到着するので、それぞれ食材の準備を始める。
「折角だから、パフェ作ろう」
心底楽しそうな桜の提案を断る術を、ハイリッヒ達は知らない。サツマイモの準備をして、鍋を準備。他の素材をファーレンが用意している。それぞれが得意なことをすれば、パフェだってすぐにできるだろう。冷やさなければならない時だけ、控えている魔法使いを呼べばよい。
――便利だよなぁ、魔法
この世界で生きて随分経つが、長寿種であるハイリッヒも知らない世界がある。魔法使いもその一つで、彼等の使う不思議な力はとても面白いし便利だ。
そんなことを考えながらパフェ用の器を出していれば、桜が嬉しそうに笑った。
「皆様、桜様に甘すぎでは……?」
そう言いながら小百合がパフェ用のスプーンやシリアルを出している。
――俺達がダメって言っても用意するのは小百合なのに
それがダメなことだと言っているわけではない。だが桜のことで、この場で最も甘いのは小百合だ。桜に甘いハイリッヒ達を彼女が嫌いではないことを知っている。
「良いんですよ、ユリさん。これくらい甘くて」
ファーレンが穏やかな笑顔で言う。
感情豊かな彼女に頼られるのは悪くない。それはハイリッヒも思っていることだ。
普段は感情を要請している所為か、頼られることは少なかった。お願いを口に出されることは滅多になく、何かをしたいと提案を受けることも多くない。彼女の希望を察した凜夜から提案がされることがほとんどだ。
だからこそ、ハイリッヒ達は桜自身の口で希望が聞けてとても嬉しかった。
「ベントゥーラ、喜んでくれると良いな」
ニパッと笑う桜にハイリッヒ達は笑顔を返した。
凜夜が嫉妬で狂うかもしれない、とは口が裂けても言えない。恐らくファーレンも同様のことを思ったのだろう。彼と視線が合うが、二人で沈黙することを選んだ。楽しそうな桜の様子を遮りたいわけではないのだから。
「ベンは喜んでくれると思うよ、桜」
ハイリッヒの言葉に、彼女は更に嬉しそうな表情を見せてくれた。