6-一番柔らかいところに触れた気がした
――あぁ、なんて慈悲深い
穏やかに自身を見下ろす主人を真っ直ぐ見返しながら、凜夜は思う。
今朝の失態は、自分でも驚いた。鋼の理性を持つ、と方々から言われているから、というわけでもない。仕える主人に下心を抱いているだけで、本来ならば凜夜はただの不良品だ。
凜夜の下心を知りつつ重用してくださる主人のため、凜夜は理性的でなければならない。
そんな中で、今朝のあの失態である。
主人に微笑まれたくらいで鼻血を出すとは思わなかった。
もちろん、彼女が微笑めばとても美しいだろう。表情がほぼ変わらぬからと言って、まったく変わらないわけでもない。わずかばかり微笑まれることもあるし、基本的に穏やかな性質の方である。柔らかい視線をされることも少なくない。
それを分かっていながら、彼女の表情の変化があるだろうと理解しながら、あの失態。
――お可愛らしい笑顔だった
ありがとう、と微笑まれて驚いた。いつも礼を言われる時、あんな可愛い表情をしていたのだ、と。信じてもいない神に感謝したくなるほどその表情は素敵なもので。気付いたら顔は熱く、鼻血が止まらなくなっていた。
主人と共にいた弟妹に引き離されたのは仕方がないと思っている。凜夜の鼻血で主人が汚れては事だ。なにより、そんなことがあれば凜夜は決して自分を許すことができないだろう。主人を汚すようなことはあってはならないのだから。
ベントゥーラから主人のことを聞いていた弟妹を彼女に控えさせておいてよかった。
主人に仕えることができないのは苦しかったが、仕方がない。これは凜夜の努力が足りなかったせいだ。主人に心配をかけたのも分かっているので、弟妹を責めることはできない。
「僕は凜夜が傍にいてほしい。捨てる可能性なんて考えてほしくない」
ハラハラと静かに落ちる雫を、凜夜は呆然と見る。
――あぁ、なんて
自分は愚かなのだろうか。
死の直前、凜夜が見たのは主人の泣き顔だ。悲痛な叫びと取り乱して泣き叫ぶ主人。凜夜に指示をしたのは自分だから、処分するならば自分を。それが凜夜の独断の動きであったにもかかわらず、主人は「責任は自分にある」と主張した。凜夜の命を奪わないでくれ、と大人達に懇願されていた主人の、あのお姿がちらつく。
決して忘れないあのお姿が、どうしても今の静かに涙を流す主人と重なるのだろう。
息苦しくなるような切なさを感じてしまうのは仕方がない。あの時の辛さを、今も主人に与えている。それを与えているのが自分であるというのが、辛い。
ゆっくり主人のご尊顔に手を伸ばす。
主人はそんな凜夜の手を受け入れてくださるので、涙で濡れた頬に触れることができた。涙は冷たいのに、泣いていたせいか頬は熱い。普段は色の良くない顔も、それによって赤く染まっていてとても煽情的である。
鼻の奥で血の匂いがするので、思考は別の方へやるしかない。先ほど台所で弟妹と約束したばかりだ。
『桜様は兄上をお望みです。せめて桜様を驚かせることがないようにしていただかないと』
淡々とそう吐き捨てた妹は労わるような視線を寄せていた。主人への恋情を彼女もよくよく知っている。主人への不届きな思いを捨てよと、そう言わない弟妹は本当に兄思いだ。その下地が主人のお気持ちであろうと関係ない。
凜夜から主人を奪おうとしなければ、何でもよいのだ。
だから、その思いに応えるためにも、可能な限り鼻血を回避する必要がある。少しでも、主人を驚かせる行動を控えられるように。
「桜様がお望みのままに――あぁ、俺はとても幸せです、桜様」
感情豊かであったのなら、きっとこの主人は涙もろかったのだろう。
穏やかな性質で柔らかい感情を持っておられる方だとは知っていた。だが、まさかこれほど涙もろい方だとは知らなかったのだ。様々なものを奪われ尽くした生前、この方はどれだけ傷付いたのだろう。それを思うと、今の主人を幸せにしなければならない、と気持ちを改める。
静かに涙を流す主人の両頬に手を添えたまま、彼女の方へ顔を寄せた。もう少しで触れそうな距離。それでもそのご尊顔に凜夜の顔が触れないように。
辛そうに涙を流しておられる主人へ微笑めば、目を丸くされた。驚いた、とその表情が言っている。そんな主人に更に笑顔を深くすれば、やっと涙が止まったらしい。
至近距離で見る主人のご尊顔はやはり、涙で濡れていても大変お綺麗だ。ずっと見ていられるし、こんな近くで見ていると粗相を仕出かさないか、自分が自分で心配になる。
「泣き虫ですね、桜様」
そんなに泣かなくても、主人が凜夜を捨てない限り、凜夜は彼女の傍を離れない。そう決めている。きっと彼女は凜夜を捨てないだろうとも分かっているが、それでも懇願してしまったのは仕方がないだろう。
――清夜と小百合は本気だ
凜夜が粗相を仕出かせば、主人から凜夜を引き離すつもりだった。
表情に気持ちが現れる主人はとても魅力的だ。そんな彼女の傍を守れないのは、変な虫が付くに決まっている。絶対に離れたくないし、彼女の魅力を知っている生前からの知り合いには会わせたくない。凜夜から主人を奪うとしたらアイツ等だ、と確信を持って言える。
だから、主人の感情が大きく動く今日一日、決して主人から離れたくない。
――俺は、桜様のために努力できる男だ
何が何でも、主人の傍を離れたくない。その一心で主人の笑顔を見ても、感情を大きく揺さぶられないように思考を放棄する。
「泣かせていたのはキミだろう、凜夜」
涙が止まった主人は安心したように微笑みながら、凜夜の手の平に頬を寄せる。その仕草は健気でいけない。
鼻の奥の血の匂いに、急いで主人が頬を寄せていない方の手で鼻を抑える。血を飲まないために俯いた。直接的に主人のお顔を見られなくなったのは、今は良かったかもしれない。
――桜様の体液……!
ふと気付いてしまった事実。
気付いたらもうダメだ、と判断した。
「清夜、ハンカチ」
スッと差し出されるそれを手に鼻を抑える。弟の方を見てはいないが、恐らく呆れて溜め息でも吐いているのだろう。主人や同僚の女性以外を嫌忌している弟なので、きっとこの凜夜の気持ちは理解できまい。
ただ、弟の女性嫌いの間接的な原因となった凜夜が、それについてとやかく言うことはできないのだが。
「凜夜……?」
困惑した主人の表情に凜夜は眉を下げる。
「桜様、努力が足りぬ俺を許してください」
煩悩に勝てないなんて情けない。
「許すも何も、僕は何も怒ってないよ」
コトリ、と首を傾ぐ主人に凜夜は肩の力を抜く。
分かっている、彼女は最初から何も怒ってなどいない。だが、これは凜夜達従者にとってはとても許されることではなかった。主人に恋慕していること自体不良品も良いとこなのに。
「むしろ、僕の方が慣れてきちゃったよ」
そう苦笑される主人は眉を下げて笑う。
「凜夜は僕に笑いかけられると、鼻血が出ちゃうんだね」
楽しそうに言葉を転がす主人は、頬に残っていた凜夜の手を取って、ご自身のハンカチで拭われる。彼女の表情は楽しくてしょうがない、と優しい笑顔をしていた。先ほどまで泣いていたのが嘘のように、凜夜を見る瞳はキラキラと輝いている。
「僕の知らない凜夜が見られて嬉しいよ。感情を表現するのは、やっぱりいいことだね」
もっと努力しないと、と張り切っている主人に凜夜は微笑んだ。
――それに慣れる日が来るのだろうか
否、きっと来ない。好きな人がクルクルと変わる表情をする。楽しい、嬉しい、幸せだ、とその表情で伝えてくれるのだ。こんな幸せなことはないし、どう足掻いても興奮してしまう。彼女を襲わぬ理性はあれど、彼女を思う気持ちに歯止めがかからない。これはもう、諦める方がお互いのためだと思わざるを得なかった。
主人にはありのままの、微笑まれるたびに鼻血を出す不甲斐ない凜夜を見せるしかない。
「俺は、キャパオーバーです……」
ハンカチで拭われている手を残して、ずるずると落ちる。見ていられない、見られない。なにより鼻血が止まらなかった。もう仕方がない。きゃらきゃら笑っておられる主人が可愛いので見たいとは思うが、もうキャパオーバーだ。弟妹の心に刻みつけておいて欲しい。
そんな凜夜に寄った気配にそちらを見れば、ハイリッヒが苦笑していた。そっと肩に触れるその手は労りを示す。
――そういえば
主人への恋情を彼は最も肯定的に受け取ってくれる。もともと彼も初恋を大切にしていることもあり、出会ってから恐らく最も親しい相手だ。何かと相談にも乗ってくれる良き理解者。
「頑張ってるな、リン」
労りの言葉とは裏腹に、その表情は凜夜を憐れんでいる。
「俺、絶対耐えられない」
凜夜の言葉にハイリッヒは眉を下げて笑っている。
そう、きっと凜夜は耐えられない。主人のお可愛らしい表情の変化を見て、心を乱さないなんてできるわけがないのだ。何を見ても愛おしいと思うだろうし、凜夜は最上級の幸せを感じることだろう。そんなこと、分かりきっているのだ。
「どういうことなのだ?」
純粋な瞳を主人から向けられ、凜夜は別の方を向く。ハイリッヒもオロオロと顔の前で手を動かして、言葉に迷っている。そんな姿を傍で見ていた弟は大きく溜息を吐いてから口を開いた。
「桜様、男は皆狼なので、油断なさらないでください」
「狼……? 襲われたらやり返すが?」
不審なものを見るような視線を寄せられ、低い声が返る。
――想像できる
主人は皇帝の中で最も戦闘力のある人物だ。男女差ゆえに凜夜が力負けすることはない。だが、戦闘技術に関して、彼女の右に出る者はなかった。
「あら、桜様。兄上がそのような獣なら、わたくし、桜様に決して近付けませんわ」
「凜夜。決して狼となるのではないぞ」
「御意に」
主人が望むのならば、凜夜はなんにでもなれる。妹のニンマリ顔は少しムッとするが、主人の幸せそうな笑顔には何にも換えられない。
「そろそろご飯行こうよ。リンちゃん達が来たのってそれでしょ」
よいしょ、と床から立ち上がったオーレリウスが言う。凜夜は完全に忘れていたが、主人が飢えを感じるのは好ましくない。例えそういった類のものを感じにくいとしても。
「お待たせいたしました桜様、食事に参りましょう。御手を」
エスコート用の手は血濡れのハンカチを持っていない方だ。まだ鼻を抑えているので、あまり格好はつかないが。主人はそんなことを気にしないだろう。事実、彼女を見れば特別気にした様子もなく、凜夜の手を取ってくれる。
むしろ彼女の傍に控えている弟とこちらを見やっている妹の方が、納得いかない表情をしていた。彼等はある意味凜夜のお目付け役だ。こちらからお願いしていることなので、凜夜から文句はない。ただ少し厳しすぎるのではないかと思わなくはないが。
――きっとそれも桜様のため
弟妹が主人のためと判断したことに文句はない。
「あぁ、そうだね」
ニコニコ楽しそうな主人を見ているだけで、凜夜はとても幸せな気持ちになれた。