5-感情を愛してほしいと願う
オーレリウスは現状に苦笑するしかない。
桜が感情を出したいという思いを持っていたことを知っている。感情を周りに知らせることで回避できることがある、と。健気にそんな願いを持っていたのだ。
それを一番に応援していたのは間違いなく自分だ、と自負もしている。
感情の読みにくい東洋人の中でも、桜は飛びぬけて感情が分からなかった。彼女が怒っているのか、喜んでいるのか。それを理解するまでに、オーレリウスは何年も要している。
それを不満に思ったことはない。当然だ、大好きで大切な仲間であるし、女性である彼女を愛さない理由はなかった。
ただ、感情を増幅させる魔法をかけられている彼女は、思った成果ではなかったらしい。
もちろん、表情に関しては、満足のいく結果だ。
それは先ほどからずっと話している。今回のことに関して最も肯定的であるオーレリウスは、桜と関わることが多い。感情の起伏によるフォローする――これは主として、感情を言葉として理解する練習である――約束をしている。
「リンちゃんの件は予想外だったね」
紅茶を飲みながら桜へ声をかける。彼女は不満です、と拗ねているような表情をオーレリウスへ向けた。
今はオーレリウスと桜しかいない。
他の面々は食事を作りに行っている。自分達の食事くらい、自分達で作ることにしていた。従者達はそれを苦い表情をしたが、やりたいのだから仕方がない。もともと国ができる前は自分達でやっていたのだ。別に問題ないだろう。
仲間内で当番制にしているそれ。今日は桜と凜夜が当番だった。だが、彼等二人を一緒にしていてはいけない。その判断から桜はオーレリウスと待機することとなった。
――その時のリンちゃんの顔……
オーレリウスは思い出したくもない。今にもオーレリウスを仕留めんとするような、そんな表情。
ただ、彼の兄妹がそう指定したのだ。それには何か理由があるのだろう。その二人も今は食事作りのフォローの方へ行っている。
閑話休題。
ともかく、この場にはオーレリウスと桜しかいない。今回のことを話すにはうってつけだろう。
「凜夜が気に入らないのなら意味がない」
そう言い切った桜に、オーレリウスは苦笑する。
凜夜の恋情を受け入れることができない。彼にそう伝えている桜だが、彼をとても大切にしている。それこそ、彼が離れるとなったら、怒り狂うのではないか。そんな風に思うくらいには、彼女は彼を特別扱いしている。彼女達の周りにいる者は皆、それを納得していた。
凜夜が傍にいなければ落ち着かない桜を知っている。それでも、彼等はパートナーであり、恋人関係ではない。
今回のこれを邪推すれば、やはり凜夜に恋情を抱いているのではないか。そういうこともできる。だが、桜はきっとその意味を理解できないから。
――無理に理解してもらおうとするとリンちゃん怒るんだよね
凜夜は桜から特別扱いをされている現状に満足している。恋人関係になるつもりもなければ、桜から思いを返されることを期待していない。
その他大勢と違う扱いをされている現状で幸せ過多だと言っていた。
――無欲かな
オーレリウスには理解できない感情だが。
「そうだねぇ……リンちゃんに楽させたいって言うのが、桜ちゃんの願いだしねぇ」
桜に関することについて、凜夜が苦に思っていないことは知っている。だが、桜はそう思っていないことも。彼女は自分の尻拭いを凜夜がしている可能性を、とても嫌がっている。
「でも、桜ちゃん」
今回の表情に関しては、少し桜が勘違いしていることに気付いた。恐らく他の仲間達ならばもっと早くに気付いていたことだろう。だが、オーレリウスは彼女達の感情の機微を上手く感じ取れない。こうやって話すことで、やっと正確に理解することができるのだ。
勘違いに気付いたのなら、それを桜に伝える努力をしなくてはならない。オーレリウス達は、仲間の不幸を願っているわけではないのだから。お互いに穏やかな生活をするために必要な努力をする必要がある。
オーレリウスの呼びかけに、桜は穏やかな表情を向けた。
きっと普段から彼女はこの穏やかな感情を持っているのだろう。普段、表情にはあまり出ていないけれど、雰囲気がいつも通りだ。感情が表に出てきていたのなら、彼女はこんな優しい表情をしているらしい。
「リンちゃんは桜ちゃんの変化が気に入らないわけじゃないよ」
「そうなのかい?」
不思議そうに首を傾ぐ桜にオーレリウスは苦笑するしかない。きっと清夜や小百合はそれどころではなかったのだろう。一番上の凜夜があれほどポンコツになることはない。清夜達も驚いていたようだった。
――桜ちゃんもびっくりしてるしね
ここまで困惑している桜を見たことはない。
「うん。リンちゃんが桜ちゃんから離されたのは、リンちゃんが桜ちゃんのことが大好きだからなんだよ。桜ちゃんが好きすぎて、桜ちゃんの表情すべてが可愛くて、お仕事にポンコツになっちゃうからダメだって、セイくん達が判断したんだよ」
可愛い桜ちゃんに大興奮している凜夜の気持ちは分からなくもない。抑え込もうとして鼻血でなんとかしているあたり、鋼の理性に恥じない行動だ。
高潔な清夜達には不評で、桜に近付けたくないと思われたようだが。
それでも、桜に関する従者としての仕事を取りあげられただけだ。桜の傍にいても、彼女の害にはならない。そう判断されたのは間違いないだろう。それだけの信頼があれば十分だと思うが、凜夜は納得していない。そのうち、自分の欲をコントロールして、今の状態の桜に仕えられるようになりそうだと思っている。
「凜夜が、ポンコツ……? それは困るな……別に自分でやっても構わないが」
うんうん腕を組んで悩んでいる桜にオーレリウスは遠くを見る。
これを見てしまえば、凜夜がすぐにでも欲望をコントロールしそうで恐ろしい。
彼にとって桜の不便は最も忌むべきことだ。ただ、彼が無理をすれば桜は必ず気付く。それを不満に思ってしまえば、彼等はすれ違ってしまうだろう。
とりあえず、現状では清夜達が設定した桜に関わることの判断材料が、桜のマイナス感情の発露だ。凜夜の鼻血によって桜は不安を感じたらしいと聞く。それが解消されれば、彼は桜の傍に復帰することが可能。それが叶わなければ、桜の傍には行かせないと彼等は言った。
それを桜が受け入れたのかと言えば、小百合に説得されたという。古い従者に甘い桜らしい判断である。
「桜ちゃんがリンちゃんを望むなら、リンちゃんも努力するんだろうね」
凜夜が努力家であることは、オーレリウス達も知っている。こと桜に関わる何某は、決して彼は手を抜かない。最高の状態で提供することが至上命題としている凜夜だ。自分ができる範囲の努力をして、それでも足りなければ周りの環境を整える。そのくらい簡単なことのように見せてやってしまうのが凜夜だ。
それを知っているからこそ、桜が求めているこの状態。凜夜はすぐにでも彼女の傍に控えられるようになるだろう。なにより、食事当番である桜と凜夜を隔離したこの状態で、清夜達が凜夜の傍にいるというのはそのためだ。早々に桜へ凜夜を返すため。
――ホント、あの兄妹は……
桜のためならば何でもする。
「今回のは成功だと思ったのだが」
よくなかったかもしれない。そう言いながら眉を下げる桜にオーレリウスが泣きそうになる。彼女が涙を流しているわけではない。だが、泣きそうなその姿に胸が痛くなる。
「成功だよ、間違いなく」
だから間違っていないのだ、と。オーレリウスは桜へ手を伸ばす。
泣きそうな彼女は酷く儚げで頼りない。
「だか――ブベラ」
安心して、と続くはずだった言葉は頬の痛みと共に消えて散った。座っていたソファから床に落ち、頬が痛い。歯が壊れなかったことが奇跡だ。
原因と思われるそちらを見れば、拳を振り上げた凜夜が立っている。怒っているというには度が過ぎている表情を晒す彼は、殺気が酷い。絶対零度の視線でオーレリウスを見下すその表情は、いつも通りだ。
彼の背後にあるこの部屋の出入り口にはハイリッヒと清夜・小百合の二人がいる。言葉を付けるなら「あちゃー」とでも言いたげな表情をしていた。
「り、凜夜……?」
困惑した桜の声が聞こえる。先ほどの大人しい彼を見ていたからか、いつも通りの凜夜に驚いているらしい。恐る恐るかけられる声に、凜夜が微笑みながら彼女の方を向く。
「今朝は御見苦しいところをお見せいたしました、桜様。申し訳ございません」
綺麗に礼をする凜夜はいつもと変わらない従者の顔をしている。鼻血を出していた今朝とは完全に違う。
「凜夜……?」
オーレリウスにはいつも通りの凜夜だが、どうやら桜は違うらしい。痛む頬を抑えながら彼女を見れば、泣きそうに眉を下げている桜の姿が見える。
「だからどうか、俺を桜様の御傍においてください……!」
切実な懇願だ。
桜に縋りつく凜夜はとても情けない姿をしているのだが、ここには仲間と身内しかいない。もともと格好つけることの無い彼だが、気を使う相手もいないと判断したのだろう。桜の足元に縋りついて泣いて懇願している。
呆然と彼等を見ているオーレリウスに清夜が寄った。その手には布が握られている。
「大丈夫ですか、オルさん。すみません、兄上が」
張れていますね、と言いながら冷たいそれを当ててくれた。眉を下げている彼に笑いかけるくらい訳ないことだ。
「いつものことだから大丈夫だよ」
「兄上はもっと反省した方が良いのかしら……?」
不穏な言葉に声の主を見れば、小百合が困ったポーズをしながら兄である凜夜を睨み付けている。彼はそれを理解しながらも、桜への懇願で忙しいらしい。特別こちらを気にする様子は見受けられなかった。
「勘弁してあげて、ユリちゃん。リンちゃんだって、桜ちゃん関連のことでピリピリしてたから仕方ないよ」
もともとオーレリウスと凜夜は相性が悪い。正確に言えば、凜夜にとってオーレリウスは生理的に受け付けられないのだ。無理にどうこうしてほしいとは思っていない。性格的相性は仕方のないことである。
――桜ちゃんと顔合わせた時の俺の印象悪いしねぇ
悪意はなかったとはいえ、見事に凜夜の踏んではいけないものを踏み抜いた。それから凜夜からのあたりが強いので、もうそれは仕方ないことだと思っている。
「しかし」
「いーのいーの。大丈夫だよ、ユリちゃん」
やはり大きな家柄をまとめてきただけある。第一印象の違い、というのもあるのだろう。最初から心情最悪だったオーレリウスでは、凜夜が納得するにはハードルが高い。仕方のないことだと理解している。
「お、オーレリウス! これはどうすれば良い!?」
泣きそうになりながら助けを求めてくる桜。彼女へ視線を寄せれば、彼女に縋っている凜夜の殺気の籠った目を向けられた。
オーレリウスの傍に立つ小百合が舌打ちしたのを聞いてしまったが、聞かないふりを決める。
「リンちゃんの話をちゃんと聞いて、桜ちゃんがどうしたいかだよ」
朝のことを謝って、捨てないで欲しいと懇願する凜夜。その意図を桜が理解できないのは当然だ。彼女は最初から凜夜を捨てるつもりなどないのだから。
主人である桜にとって有益では無い自分を無価値だと断じる凜夜と、彼が傍にいてくれれば別に気にしない桜。
最初から彼等はすれ違っている。
ただ彼等はお互いに、〈相手の傍にいることを許せる自分〉の基準が存在していた。
今朝の凜夜は桜の傍にいることを自分自身で許せなかったのだろう。
――まぁ、そうだよね
弟妹から主人を取りあげられるほど、彼は何もできなかったのだから。
「僕は凜夜を捨てるつもりなんてないよ。捨てないでって言われても困る。……困るよ、凜夜」
困ったように桜は足元に縋りついている凜夜に触れる。そこでようやっと彼は、顔を上げて桜を見たのだ。