4-溢れる愛情は止まらない
「魔法が成功したのはええんやけど、そんでリンが鼻血だしてパニックになったんやと」
珍しく早い時間に皇帝6人で使う執務室に現れたベントゥーラが言った言葉に、ハイリッヒはコーヒーを挽く手を止めた。今日のおやつはファーレンの作ったクーヘンが出る。それに合うコーヒーを淹れようと準備していたのだが。
「それ、オルとファルにも言った方が良いやつ……」
皇帝6人の中で最も仕事が早いのは桜。次点で凜夜である。東洋人二人は生真面目で、仕事も早い。それゆえに、その片方が体調不良ともなれば、業務に偏りが出る。ハイリッヒ達もサボっているわけではないが、どうしても得意不得意は存在していた。
休憩時間の確保は、そんな彼等が無茶をしないようにするためのものだ。
「リン達来る前に伝えとかなと思うて。今から言ってくる」
のそのそ歩く彼が扉にたどり着く前に、廊下から扉が開いた。
「おはよー! 昨日の魔法成功してるのかな?」
楽しみだねー! とニッコニコの笑顔で入室してきたのは、皇帝の一人であるオーレリウス。桜にかかった魔法の成功を誰よりも楽しみにしていたのは彼だ。桜が感情を表情に出したいと願った時も、最も様々な提案をしていた。
彼女の願いを叶えたいというよりも、ニッコリ笑う桜を見たい、という彼自身の願いだが。
それでも、今回の方法に希望を見出していた桜と同じく、オーレリウスもその成果をとても楽しみにしていた。例え、表情が動かなくとも、感情の動きを感じられるようになると良い、と桜と話していたのを知っている。
「事件や、オル。リンが壊れたで」
「ヒュォ」
意気揚々と入室して来た彼は、ベントゥーラの言葉に固まった。
オーレリウスと凜夜は何かと折り合いが悪い。
問題は凜夜の方にあるのだが、生理的に受け付けない性質の相手、というのは存在する。凜夜にとってそれがたまたまオーレリウスだった、というだけの話。オーレリウスに対しては当たりの強い凜夜、というのは広く知られている。
それゆえに詳細を話していないが、彼にとって不幸が訪れる可能性を示唆されたと把握したのだろう。動きを止めたのか、硬直しているのか、はたまた機能が停止しているのか。
オーレリウスは執務室の扉の前で立ち尽くしている。
――なんて声かけよう……
変に凜夜を刺激しなければ問題ないかもしれない。だが逆に、ハイリッヒ達では手が付けられない状況なのかも。ハイリッヒは詳しい状況を知らないので、何も言えないことがとても歯痒く感じる。ハイリッヒも早く状況を掴まなければならない。そう思ってベントゥーラを見れば、彼はその大きな手で癖っ毛の茶髪をガシガシとかいた。
彼の様子から緊急性はなさそうだ。緊張感のない雰囲気である。
「桜に微笑まれて、リンが鼻血だしとるんやと」
簡潔に伝えられた言葉に緊張の糸が緩む。
「え?」
オーレリウスの声が沈黙の執務室に落ちる。だがそれは、ハイリッヒの気持ちも代弁してくれたものだ。オーレリウスを見れば、彼もハイリッヒを見ていた。丸く開かれた瞳が信じられない、とハイリッヒに訴えてくる。
――でも、ベンが嘘を言っているようには見えないんだよね
のんびりとしたたれ目がこちらを見ているが、取り繕う様子もない。
ハイリッヒ達の様子を見かねたのか、彼はおもむろに口を開く。
「桜に微笑まれたリンが鼻血だして、セイとユリに桜取りあげられたらしいわ」
「わぁお……」
おどけたような言葉だが、表情は沈んでいる。凜夜の機嫌が悪ければ、何かと目の敵にされるのはオーレリウスだ。思わないことがないわけではないだろう。
――でも、
ハイリッヒは凜夜の気持ちも分かる。
好きな子に微笑まれて心躍らないなんてありえないだろう。ハイリッヒだって、かつて恋したあの子に微笑んでもらえたら、凜夜のことは言えないかもしれない。彼ほどあからさまに鼻血を出すことはないとは思いたいが、好きな子の笑顔は何物にも代えられないものだ。
初恋のあの子は、ハイリッヒの顔を見ると怯え泣いていたのだけれど。
貴族の令息であったハイリッヒと、使用人として家に仕えていたあの子とは立場が違う。仕える相手に怯えるのは仕方のないことだ。だから、あの子がハイリッヒに怯え泣いていたのは仕方がない。そう諦めたことだ。
だから、凜夜の気持ちは分かる。
見られないと思っていた、好きな子の笑顔を見ることができた。それだけで、胸がいっぱいだろう。桜は表情がないわけではないが、なかなか動かない。気持ちを伝えようとはしてくれているので、きっと凜夜は想像以上に桜からの感情を受け取ったのだろう。
表情がほとんど動かない普段ですら、凜夜は多くの感情を桜から得ている。感情が表出しているというのなら、恐らく想像以上の柔らかな愛情を彼女から与えられているのだろう。
「桜が取りあげられるのは可哀想だ。リンは大丈夫なのか?」
凜夜は桜のことが好きだ。好きな子と引き離されるのは辛い。初恋のあの子と別れた時は、ハイリッヒも辛かった。
ここでは今生の別れとなることはない。
それは分かっているが、それでも。
――離ればなれは辛い
凜夜は桜が傍に居ればそれはそれで幸せを感じられる。だが、引き離されてしまえば、そうもいかない。ただただ傍に居られないことを感じるだけだ。
「桜に奉仕するのを禁止したんやと。同じ空間にはおるで、あんまり深刻な問題やないと思う」
それはそれとして、いつもやっていることができない。それは凜夜にとって大きなストレスとなるだろう。
――さすが、兄妹
凜夜が辛いと思うことを的確にやってくる。隔離されていないだけマシだろう。
「私も詳しく聞きたいのですが」
呆れたような声にそちらを見れば、ファーレンがクーヘンの大皿を持って扉を開けていた。彼が入室してくると、お茶の準備をし始める。その傍でベントゥーラが先ほど話していたことと同様の内容を彼へ伝達。
凜夜の桜への奉仕の禁止を伝えられると、ファーレンは目を丸くした。
「それは……さすがユリさんですね。リンには有効な罰です」
「せやろ。さすが妹。容赦ない」
ファーレンの言葉にベントゥーラが笑いながら同意する。他の皇帝達も同じ反応をしていたので、まぁそういうことだ。
完全に引き離していないのなら、ハイリッヒも文句はない。一緒に居られるのなら、凜夜も暴走することはないだろう。それでいてちゃんと凜夜への罰にもなっている。
「でもさ、いくらリンちゃんが血気盛んな子でも、鼻血ずっと出してるのは不味いんじゃ……?」
オーレリウスの言葉に沈黙が落ちるのは仕方がない。
凜夜は誰もが認める桜狂いである。彼女に関わることであれば、様々な感情を表す。
逆に桜が関わらなければ、静かな男だが。感情が怒か無しかないのではないか。そんな風に言われていることもある。本質的に、彼は桜以外への関心が薄いだけだ。
つまり、桜の関わることであれば、沸点低く怒り狂うことが多々ある。血気盛んに喧嘩を売り買い、暴れまわることだってあった。
そんな彼でも、さすがに血を流し続けることはない。
何某で怪我を負ったとしても、応急処置はしているし、止血は必須技能だ。
「言っとくが、ずっと鼻血を流し続けているわけではないぞ」
開いた扉と共に言われた言葉にそちらを見る。もうこの場にいない皇帝は桜と凜夜の二人。彼等以外に皇帝が揃っていない状況で、この執務室の扉をノックなしに開けられるのは彼等だけ。
声の主は想像と違わず凜夜。
鼻に詰め物をしているので、格好はつかない。彼の傍にいる桜はいつもと変わりない様子。普段と違うのは、彼女の傍に控える清夜と小百合。恐らく、凜夜の代わりに彼等が桜の身の周りのことを行うのだろう。
――それなら安心だね
好きな子の身の回りを他の誰かに任せたくない、凜夜のギリギリの譲歩なのだろう。
好きな子がいたハイリッヒも、彼の気持ちはとても分かる。
「落ち着いたから来た。遅くなってすまない」
しょぼん、と眉を下げる桜にハイリッヒは目を見張る。
――本当に魔法は成功してたんだ
正直、その成果がどれほどか。ハイリッヒは想像できていなかった。いつもより表情の変化が分かるから成功。そう判断した可能性だってあった。
だが、この桜の様子を見るに、本当に感情の大きな変化が表情に影響を与えている。
沈黙が落ちる皇帝6人の執務室。
ハイリッヒ達の反応の無さを、桜は理由を理解できなかったらしい。不思議そうに首を傾げ、少し落ち込んでいた表情から困ったような表情に変わる。
はっきりと感情の変化が読み取れるそれに、ハイリッヒは天を仰ぐ。
――神に感謝を
この国の創造神とハイリッヒ達は言われている。だが、そんなわけはないのだ。ここへ導いた存在は存在していた。その存在に感謝するわけでもないが、良いことがあれば神に感謝をささげる。もともと聖職者であったので、ほぼ反射のようなものだ。
「遅刻を怒っているのか……?」
こちらを伺うような視線に思わず外を向く。初心だ初心だと馬鹿にされて、散々否定してきている。だが、他の皇帝達が普通に彼女に笑いかけているところを見ると自信がない。
「怒ってないよ、桜ちゃん。朝から大変だったね」
「僕より凜夜だよ」
すぐさま桜の傍へ寄るオーレリウスにハイリッヒは苦笑した。凜夜は桜へ寄るオーレリウスを排除しようとして失敗したらしい。彼女に関わる何某を清夜と小百合から禁じられているのだ。彼女へ寄る前に小百合に止められていた。
桜の傍にいる清夜がオーレリウスの行動を注視している。それでも、彼女に触れるのは許容範囲らしい。オーレリウスが両手で桜の両手を握って、先ほど聞いた内容を労っていた。
「リンは鼻血どころじゃなくなってるな」
ハイリッヒが近付きながら凜夜へ声をかければ、鋭い視線が寄る。少しでも桜から気を逸らさなければ、業務どころではない。唇を噛み切っているので、血が流れていた。ここまで流れていると心配になってくる。
止血用にハンカチを彼の口元へ当てれば、少し冷静さを取り戻したようだ。時と場合にもよるが、沸騰も早いが落ち着くのもそれなりに早い。
「サンキュ、ハイン」
「落ち着いた?」
淡々と感謝の言葉を吐いたわりには、ハイリッヒの言葉に返事はない。やはり心穏やかではないようだ。
――そりゃそうだ
好きな子が他の男に手を触れられているのだから。
オーレリウスでなかったら、凜夜はここまで嫌がらないだろう。彼の性質が博愛主義で恋愛脳だから、凜夜は彼が桜に触れるのを嫌がる。自分以外の恋愛感情が桜に近付くことを、彼はとても嫌った。
恋を経験したことのある身だからこそ分かる。これはオーレリウスが悪い。
それでも彼は今、桜に関わる何某をすることはできない。彼女に控えている清夜が、これを許容範囲内だと判断している。
清夜の判断する範囲が、今の桜の許容範囲となるのだ。
凜夜と清夜では、桜に関する許容範囲は違う。恋している凜夜と純粋な敬愛の清夜では、感情の振り幅が異なるのだから当然だ。
「桜の感情とリンの感情は大きく影響し合っているね」
思わず言ってしまったハイリッヒは悪くないだろう。
桜が感情を表に出せるほどに影響を出したら、同じように凜夜の沸点も下がった。桜から与えられるものへの耐性もかなり低い。
今までも、桜からプラスの感情を与えられれば信じてもいない神に感謝するほど喜び、マイナスの感情を向けられれば生活に支障が出るほど落ち込んだ。なお、日課や業務、公務に支障はない。日課や業務に関しては桜が傍に居るので支障を来すような真似はしなかったし、公務に関しては皇帝としての仕事だ。他者の前では完璧な皇帝を演じていた。
そんな彼である。
何かしら影響があるとは思っていた。
だが、正直な話、ここまで取り乱すとは思っていなかったのだ。今まで通り、信じてもいないと公言している神に感謝し、いつも通り日課と業務を遂行するものだ、と。
皇帝の誰もが思っていた。
「桜様の喜びは俺の喜びだ。桜様が嬉しいと俺も嬉しい」
ふわっと笑う凜夜は恋する顔をしている。優しいそれは、桜のためのもの。
「ありがとう、凜夜。僕も嬉しいよ」
にこりと笑うが声をかける。礼儀正しい凜夜は当然、彼女の顔を見ようとそちらを向く。
つまり、桜の笑顔をちゃんと見るわけで――。
「リン……鼻の詰め物、交換しよっか」
ダラダラと鼻血を垂らしている凜夜に新しい詰め物を渡す。鼻に詰め物をしている状態で垂れるほど鼻血を出すとは思うまい。
――これは
一日大変そうだ、とハイリッヒは苦笑するしかなかった。