2-愛情とは溢れ出るものである
小百合は主人を注意深く観察する。
事の始まりは、主人が感情を表に出したいと願われたこと。今までも大層努力されていたが、成果はまったくない。表情は変わらないので、気持ちを言葉にする訓練をするに至る。
少しずついろいろな経験をして、経験を通した感想を言葉に変換。それから気持ちの答え合わせを少しずつしていく。
最初の頃は経験の感想ですら、事務報告だったという。やった事実だけを述べ、そこに伴うはずの感情が伝えられることはまったくない。他の皇帝達が質問をして、主人が答える。その繰り返しだったようだ。
今では感情や気持ちを言葉にすることに慣れてこられたところだ。自発的に、自分はこう思う、考える、と発言されることが増えた。例え、上手く言葉に言い表せないことも、伝えようと努力してくださっている。
小百合達従者は、それだけで満足だった。
主人が小百合達のためにそこまで努力してくださる。それだけで胸がいっぱいになった。小百合達に報いようとされるだけで、充分だ。
だが、主人はそれで満足されなかったらしい。
『桜が望んだんやで』
事の次第を教えてくれた皇帝ベントゥーラはそう前置きした。
曰く、表情に感情を反映させるために、気持ちの感度を上げている、という。脳は感情を大げさに感知し、それを利用して大きく感情を動かし、表情を動くようにする。
それが皇帝ベントゥーラの計画らしい。
説明した皇帝へ、半目を向けてしまったのは仕方がない。彼等だって、主人のことはよく知っているはずだ。小百合よりもずっと長い時間を、彼等は主人と過ごしている。
――感情の感度を上げるなんて、
普段感情を抑制している主人への負荷があまりにも大きいのではないか。
小百合の懸念を、皇帝ベントゥーラは正確に理解したらしい。彼も同様のことを考えていたようだ。しかし、それでも小百合達の主人の願いを優先したのだろう。今までずっと気にして努力を怠らなかった主人。なかなか思うような成果が得られていなかった。
不思議な力に頼りたくなる気持ちも分からなくもない。
『桜に負荷は大きい。せやから、よう見とたって』
彼はそう言った。主人本人は大丈夫だとおっしゃったと聞く。小百合も主人ならばそうおっしゃるだろうと思っている。別に不思議でも想定外でもない。
だが、主人は我慢強いだけで、無感情ではないのだ。痛覚を感知できないので、それに関することも感知が難しい。
それゆえにどんな無茶をされるか分からなかった。
だが小百合が見ている範囲で、今回の出来事。一番被害を被っているのは、恐らく小百合の長兄だろう。長兄を含めて誰も意図的な行動をしていないのだが、誰もが想定外の結果となっている。
主人の執務室にて。
本日の業務の確認と情報確認を行う。その際に長兄がお茶を用意して、応接テーブルに乗せる。先に座って報告書に目を通していた主人が手を止め、顔を上げてから口を開く。
「ありがとう、凜夜」
そう言って微笑む主人。今までであれば、柔らかい声色だけで主人の喜びを感じていた。だが、今はそのご尊顔には微笑みが。それを真正面から見ることとなった長兄は無表情でフリーズしている。ツーッと垂れる鼻血はとうとう見慣れてしまった。
――そう、見慣れてしまったのよ
日課の鍛錬のために主人の宮殿の門前にて主人を迎えた長兄は、主人から「おはよう」と微笑まれただけでフリーズし、鼻血を垂らした。すぐさま一緒に主人に控えていた次兄がハンカチで長兄の鼻を抑えるに至ったのだ。大事にはならず、すぐに止血したが朝の鍛錬は中止。大人しく、長兄の宮殿にて朝食を済ませたのだ。
その途中も、その後も、長兄は主人の微笑みを正面から受け止めることができずに、頬を染め、鼻血を出す醜態をさらしている。そのたびに次兄か小百合がハンカチを長兄に渡し、止血に勤めてもらっていた。
だが小百合達の主人は未だそれに慣れず、オロオロととても困ったご様子をされる。悲しそうに眉を下げて、小百合に助けを求められるのだ。
今もそれで、鼻血を垂らす長兄にハンカチを押し付ける。それだけである程度回復する長兄に溜め息。大切な主人の視界から見せられない状態の兄を外すために、その手を取った。
鼻血を止めようとしている長兄は、落ち着いてきたとはいえ顔は赤い。
『好いている相手が微笑んでいるんだぞ……平静でいられると思うか……?』
信じられないものを見る目で小百合を見た長兄を忘れない。哀れんでしまったのは、もう仕方のないことだろう。長兄が主人を心から愛していることは知っている。だが、こうして平静を保てない姿は初めて見た。
「凜夜はあまり喜んでくれていないのだろうか」
俯いておっしゃる主人に小百合は視線を合わせるためにしゃがむ。元より主人の方が身長は低い上、今は応接ソファに座っていた。さらに俯いてしまっておられるので、膝を床に付ける。御顔を覗き込めば、ハラハラと落ちる雫を見た。慌てて長兄に渡す用とは別のハンカチを取り出し、主人のお顔にあてる。
――あぁ、なんて
なんて健気な御方なのだろう。そう思わずにはいられない。小百合の主人は、たかが従者の感情に心揺さぶられているのだ。
「桜様のお気持ちが嬉しいゆえに、感情が処理しきれていないだけですわ」
長兄を睨めばハンカチで鼻を抑え、真っ赤な顔のままこちらへ寄ろうとする。
「兄上は汚いまま桜様に近付かないでください」
貴方の血で主人を汚すのか、と睨めばすぐに離れる。長兄も自分が主人を汚すことを良しとしない人格だ。
「さくらさま、おれ、さくらさまが、わらってくださって、とてもうれしいです」
鼻を抑えている所為で聞き取り難い声。だが、主人はちゃんと聞き取られたらしい。バッと顔を上げられ、長兄を見た。そこで初めて主人の顔を見た長兄は、ハッとしたように小百合を向く。
――まぁ、当然ですわね
長兄にとって主人の泣き顔はトラウマそのもの。
「すまない、悲しいわけではないのだが、上手く涙が止まらない」
困った、と言いながら眉を下げて微笑む主人は、本当に幸せそうだ。小百合はそのご様子に微笑みながら、手を引く。主人の気をこちらへ寄せられたことを把握してから、口を開いた。
「無理に止める必要はないのですよ。兄上が桜様を驚かせたのが悪いのですから」
すべて長兄が悪いのだ、と。そう示すと驚いたように目を丸くされる。主人と共に長兄へ視線を寄せれば、兄は大きく頷いた。それを見て、やっと主人は安心されたらしい。軽食の準備を、と声をかける前に次兄が現れ、主人の執務室の応接机に軽食の準備がされた。
置かれた軽食は次兄が作ったものだろう。長兄が作ったものよりも、少し歪な形。それを認めて、主人はとても嬉しそうに微笑まれた。
「今日は清夜が作ったのだな。久しぶりで嬉しい」
言葉で感情を表現されるのは日頃から意識されていることを知っている。それにくわえて、今は表情が付く。
次兄も主人を尊敬し、敬い、愛していることを知っている。主人から渡される今までに無いほどの大きな感情に戸惑ったように視線を外した。頬が赤くなっているのは、仕方がないと小百合も分かっている。指摘しないのは、二人の兄も自覚していることだからだ。
「僕に嫉妬しないでください、兄上……」
主人が喜んでおられるのは嬉しいが、それをしたのが自分ではない。その事実に長兄が耐えられなかったようだ。次兄の諦めたような言葉に長兄を見る。次兄を殺さんとしている鋭さで睨んでいるので、思わず笑ってしまった。
次兄が主人を奪うようなことをしないと、長兄も分かっているのだが。
「お茶は凜夜の淹れた物が良いので、早く鼻血を止めてもらわないといけないな」
楽しそうに柔らかく微笑んでいる主人に長兄の鼻血はしばらく止まらないだろう、と。
――今日の給仕は難しいと思います
今後もこの調子で主人に心揺さぶられ続ければ、主人に仕えるどころの話ではない。もっといってしまえば、長兄本人の業務にも支障が出る可能性がある。主人の給仕をしている暇は、もしかしたら長兄にはないかもしれない。
小百合は次兄を見た。
次兄も同様のことを考えていたらしい。
「兄上が落ち着くまで、僕のお茶で我慢してください、桜様」
苦笑しながら伝える次兄に主人は酷く不思議そうな表情をされている。事実、主人は何もご理解されていない。
「兄上はキャパオーバーです、桜様」
次兄の言葉に続けて補足すれば、主人はご納得されないながらも「分かった」と頷いた。椅子に座ってお茶を楽しまれ始めるので、小百合は長兄へ寄る。
「兄上。いい加減に慣れてください」
このままでは主人の生活に影響する。健気な主人は小百合達従者のために感情を理解したいと願った。少しでも小百合達の負担にならないように、と。
だが、こうして長兄が使い物にならないとなると、主人のご期待の結果とはならない。
――それはそれで不味いのでは?
そう思っているのは恐らく小百合だけではない。
今回の結果が悪いものだった、と。主人がそう判断してしまえば、感情を伝える努力を止めてしまうかもしれない。
今回の感情の増幅は、期間限定である。主人の精神力が認められて、一日持つだろう。そう判断され、今日一日主人は過剰なほどに感情が大きく揺れる。それを無駄だった、と思われるのは悲しいだろう。
なにより、小百合達に感情を伝えることを諦めてしまうかもしれない。無駄なことだと判断されてしまうのは困る。
「さくらさまが、すてきすぎて」
生前からずっと主人をそういう意味で好きな長兄は、普段ならばその精神力で、このような惨事になることはない。主人の感情を正確に把握していながら、兄は決して主人の許容範囲を超えないのだ。
「さくらさまへの、すきがあふれる……」
ハンカチで鼻を抑えながら、照れて視線を外す長兄に小百合は苦笑するしかない。
――兄上は意外と純情だから……
生まれてから今まで主人以外を好きになったことがない人物である。長兄自身も主人の許容範囲に収まらない感情を、持て余しているのだろう。
小百合は大きく息を吐いた。
――仕方ないわね
口の中でそんな言葉を転がして。
「桜様」
兄の妹として、主人の専属侍女として。
「兄上は桜様が素敵すぎて気持ちを抑えられなくてポンコツなんです。決して桜様を嫌っているわけではないのですが、様子が可笑しい兄に慣れていただくことは可能でしょうか」
本来ならば長兄が何とかしなければならない。だが、主人ならば許してくださるだろう。そんな甘えもある。
「なんだ。凜夜に嫌われたわけではないのだね」
微笑んだ主人は長兄へ視線を寄せた。兄はその視線を真っ直ぐ受け止めることができない。
「おれは、さくらさまがだいすきです。きらいになるなんてありえない」
「声が小さいです兄上」
「おれは! さくらさまが! だいすきです!」
鼻を抑えている所為で格好付かない。だが、これで主人の憂いは晴れるだろう。小百合はにこにこと楽しそうな主人のご様子を見て胸をなでおろす。
別にあそこまで大きな声を出してもらう必要はない。だが、この場にいる誰もが知っている事実であるし、下手をすればこの国の国民達は知っている事実だ。長兄も隠していることはないし、主人もご存じである。大きな声での宣言であれど、問題ないだろう。
「僕も慣れる努力はするけど、鼻血は抑えられるといいね。凜夜の近くに居られないから」
そう言って憂いた表情をされる主人に小百合は遠くを見た。
――止めをさしておられます、桜様
長兄は鼻血を諦めたらしい。
「あたらしいハンカチをもらえるか」
しばらく長兄の健康管理は厳しくなるだろうな、と。長兄が不調になれば主人がとても不安に思われる。周りもそうならないように動くだろう、と考えて良いだろう。
だからこその厳しい健康管理だ。
「桜様、男とは愛する者の前では格好悪いものなんです。ご容赦くださいませ」
次兄が説明しているので、とりあえず小百合は長兄をなんとかしなければならないらしい。