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17-主人の不調は心臓に悪い


 早朝。小百合は主人の異常を察知して、すぐに主治医を呼んだ。彼はミモザ宮の侍従寮に在籍している。これは兄の取り計らいで、主人に何かあった時のために主治医はミモザ宮の侍従寮(女医であれば侍女寮)に属することになっていた。

 すぐに主人の寝室に現れた主治医は、寝起きの主人の問診を行う。一つ二つ質問をしたあたりで、彼は主人をベッドへ横にして休ませた。

「桜お嬢様、今日はベッドで休んでください」

 後で説明はするので、まずは準備を。そう言われ、小百合はすぐに言われた通り氷枕を用意した。主人の頭の下に入れ、主治医が納得したのを見る。その間に次兄も寝室に現れていた。主人が寝台にいる時間はこの場所に立ち入らない次兄だが、主治医に呼び出されたようだ。

「さて、状況を説明しましょう」

 悪い話ではないと信じたい。だが、主人は自分の体調不良を感知することができないのだ。もしかしたら、見ている以上に悪いご容態の可能性もある。昨日は何ともなかったご様子だったが、先ほどの問診の様子では、あまり思考が回っていないようだった。

 ――あの、頭の回転の速い桜様が

 返事はワンテンポ遅れていた。言葉の内容もなんとなくずれているような気もして、どうしても不安になってしまう。

「桜お嬢様、思考が許容範囲を超えておられます。なんとなく、ぼんやりする感じ、ではありませんか。もしくは考えがまとまらない、など」

 いつもよりずっとゆっくりと音になる言葉に、小百合は主人の様子を確認する。横になっている主人は、主治医をジッとご覧になっていた。何かを話すご様子はなく、主治医から視線を宙に寄せる。パクパクと何かおっしゃりたいご様子であったが、ゆったりと主治医へ視線を戻し、頷く。

 どこか億劫そうなご様子なので、体調があまり良くないのだろう。先ほど氷枕を頭の下に入れる際、主人に触れたが発熱をされている様子はない。

「今日は何もせず、ベッドでお過ごしください。凜夜には私から報告を入れておくので、ご心配なく。もしかしたら昼頃発熱する可能性もあります。いつもと違うことを感じた場合、すぐに侍女に知らせてください」

 淡々と説明する言葉は小百合が覚えている。主人はぼんやりとしながらも、頷かれた。

 思考ができていないと言うのなら、主治医の言葉は入っていない可能性が高い。次兄も覚えているはずなので、何も問題はないはずだ。

「清夜、小百合。桜お嬢様に何かあった場合はすぐに報告を」

「はい」

「分かりましたわ」

 主治医は道具を片付けると立ち上がる。

 いつもはもう少し主人と話してからだ。

 主人と彼は旧知の仲。少しの雑談くらい許されるべきだし、彼と話すことを主人も楽しみにしている。彼自身も主人と話すことを楽しみにしているし、この時間が最も穏やかに時間を過ごすことが可能。それ以外は長兄が傍に控えている時間が長い。主治医であろうと、主人に近付くのは容易ではなかった。

 皇帝である長兄に遠慮している主治医。その配慮を主人は把握していないが、あまり近付かないようにしていることには気付いておられる。そのため、積極的に主治医を呼び出すこともない。ただただ主治医の小言が嫌だ、というもあるかもしれないが。

「れんたろう、ありがとう」

 退室前の挨拶をする主治医に、主人は声をかけられている。

 どこかぼんやりした声色は、主人の様態を示しているのだろう。

「小百合さん、少し」

 すれ違いざまに伝えられた言葉に、扉を開けようとする次兄を静止。小百合が扉を開け、主治医を追って一度退室する。次兄が主人の傍に控えているので問題ない。小百合が主治医を送ることもあるので、主人には不審がられることはないだろう。

 廊下に出た主治医は出口に向かわず、扉を閉めた小百合を振り返る。日も上り始め、ミモザ宮も動き出す時間が近い。

 今日は主人が宮で朝食をとるので、それを厨房へ知らせに行く必要がある。主治医の話を聞いてから、厨房へ行けば丁度良いだろう。

「なんでしょう、蓮太郎さん」

 静かな視線を寄せる主治医に小百合は視線を返す。

「桜お嬢様は常に思考されておられます。考え続けなければ奪われるしかなかったあの時を想えば、当然のことでしょう。しかし、それでは直るものも治りません。ゆっくり休めるよう整えていただければと思います」

「それは……随分と難しいことを言いますね」

 主人は空いている時間に読書をすることや、侍女侍従達と会話することで時間を潰す。ぼんやりと過ごすことは悪いことで、何かを奪われても文句は言えない。

 ここが主人の大切なものを奪うようなことをしないと、主人はご存じだ。だが、ずっとやっていた習慣や癖は、そう簡単にやめることはできない。

 何も考えないことは主人にとってとても難しいことだ。

 それは主治医も分かっている。

 小百合の返事に苦笑しているのが良い証拠だ。

「分かっています。ですが、桜お嬢様のためなので」

 どうか努力を。

 そう言われて断れるわけもない。なにより、最初から受け入れるつもりではあった。難しい話なのは彼も承知の上。できずとも誰も責められることはないだろう。

「目を閉じて、ゆっくり呼吸してもらってください。目を閉じるだけでも、情報量は減ります。音はどうしようもありませんが、オルゴールなどの音楽を聴いていただくのも良いかもしれません」

 主治医に言われて主人の持ち物にオルゴールがあることを思い出した。確か、皇帝達の合作だったはずだ。長兄に金物加工の技術があることは知らなかったが、他の皇帝達に教えてもらいながら作ったと聞いた。とんでもない執着だ。

 ――それを……?

 ぼんやりしている主人に悪影響があるのではないか、と疑ってしまうのは仕方がない。だが、皇帝達の愛情の形なので、主人は大切にしている。

 枕元に置けば喜ばれるかもしれない。

「分かりました。そのように」

 それからも主人の様子や注意しなくてはならないことを聞きながら、出入り口まで送る。その背を見送ってから、厨房へ。

 主人が本日業務を休むこと、一日この宮に滞在する旨を伝える。

「後ほど兄上がいらっしゃるかもしれません。ご迷惑をおかけしますが、厨房に入れていただけると助かります」

 残念なことに小百合には家事をする才能がなかった。料理はあまり得意ではない。主人に仕えるために身の回りのことはできる。だが、料理の才能だけは恵まれなかった。

 長兄は何でもできるので、主人が倒れたとなればこの宮へ来るだろう。もしかしたら、他の皇帝達も来るかもしれない。そうなった時に彼等が必ず占拠する場所は厨房だ。普段から食事は彼等が最もこだわるもので、決して他の者に手伝わせない。

 お立場的に彼等はそんな雑務する必要はないのだが、警戒心が強いのだろうか。口に入れる物はご自身達で作りたいとお思いだ。

 もともと主人が毒見係なしで食事できなかった過去がある。そのため、主人が食べられるようにご自身達で作っている経緯があるらしい。

 今ではその必要はないのだろうが、彼等は今でも食事は自分達で作る。それを楽しんでいることを知っているので、周りは何も言えないようだ。

「もちろんです。リン様だけじゃなくて、他の陛下達もいらっしゃいますよね、きっと」

 普段はここに立ち入ることはない皇帝達。女性の領域に入るのは良くないと言っていた。事前に報告してもらえれば問題ないのでは、と伝えた時も頑なに断られている。彼等は仲間内であっても女性に対して、とても紳士的だ。

 これだけは長兄にも言えることである。

 長兄も、このミモザ宮だけは決して近付かない。ここは主人の個人空間であり、長兄が荒して良い空間ではないと言った。あの長兄が主人の宮殿を荒らすとも思えないが、長兄なりの配慮なのだろう。毎朝、鍛錬前の迎えも、必ずミモザ宮の正門前で待っている。

 ――今日も、もしかして……?

 そう思わなくもないが、早朝に女主人がいる宮に突撃してくることはないだろう。様態を把握している主治医が報告に言っているのもある。彼なら長兄が納得する説明をするはずだ。

「問題ないかしら」

 突撃されても、追い返してもらえばいい。他の侍女侍従では手に負えないようならば、小百合や清夜が表に出れば良いだろう。

「桜様、小百合、ただいま戻りました」

 ノックと共に名乗る。主人の返事が聞こえないことに首を傾ぐ。しかし、次兄から入室許可の声を聞き、静かに扉を開いた。ベッドカーテンが閉められているので、主人は眠っておられるのだろう。わずかに聞こえるオルゴールの音に首を傾げてしまったのは仕方がない。

「桜様は今お休みだよ。オルゴールは桜様が欲しいとおっしゃったからお出しした」

「そうでしたか」

 そっと近づけば主人の穏やかな呼吸が聞こえる。疲れておられたのだろうか。昨晩眠れなかったのかもしれない。

 主治医はただ許容範囲を超えただけだと言う。今のところはぼんやりしていること以外に不調は見受けられなかった。だが、もしかしたら様態は変化するかもしれない。そんな風に言っていた。休むことが最も必要で、考えないように働きかけろ、と。

 ――眠っていれば考える必要もないわね

 ほぅっと息を吐いてしまったのは仕方がないだろう。どうやって主人に休んでもらおうか、と頭を悩ませていたのだから。

「蓮太郎さんから伝言です。桜様にあまり考え事をさせないように、とのことです。思考労働はできる限り禁止。目を閉じて情報の制限も有効、と言っていました」

 小百合の言葉に次兄は静かに目を閉じた。それから腕を組むと「うーん……」と低く声を漏らす。難しい表情で考えている次兄に小百合はそっと声をかける。

「オルゴールも休むことに有効である、と言っていました」

 出そうと思っていたオルゴールは既に出ている。

「しかし、桜様は――」

「はい、考えることを止められないでしょう。蓮太郎さんも言ってました。なので、目を閉じるなどして桜様の得る情報を制限させよ、とのことです」

 身体を休ませること、頭を休ませること。それが主治医から言われたことである。今のところゆっくり休んでくださるだろう。この後、起きてからのことが問題だが。

 ――あぁ、なんて御労しい

 本来であれば、家に仕える者達のことを考え、家の運営だけを考えればよいお家柄だった。思考し続けなければ大切なものを奪われる。そんなこと、決してありえないような、お立場の尊い御方。それが小百合達の主人だ。

 すべて奪われてなお、主人は彼女に付いた者達を守るために思考した。

 ――見捨ててしまえばよかったのに

 小百合達従者は使い捨ての駒にされても構わなかったのだ。そんなことをされない、と分かっているのだけれど。



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