1-無表情は無感情ではない
桜は身支度のために鏡を見る。
この習慣ができたのは、皇帝となってからだ。今では随分と慣れたそれだが、いつもと変わらない仏頂面。正直、毎日見る自分の感情を表出しない顔に飽きてしまった。身支度をしているだけなので、飽きるも何もないのだが。もっといえば、身支度に何かを感じるようなこともない。
――だが、こうも変わらなければ見飽きるものだろう
特別変わりもしない表情。鏡の前で笑顔になる練習をしたことはあるが、指で表情を作ることばかりで結果は出ていない。理解できる感情を表に出そうと努力したことはあるが、結局上手くいかなかった。
大人しく感情を言葉にする努力をしている。凜夜をはじめ、他の仲間達はそれで構わないと言っていた。ならば、そういうものだろう、と桜は理解している。
ただ、なんとなく、仲間達はこの顔を見飽きてしまうのではないか。そんな風に思ったのだ。
彼等から見飽きた、と言われたことはない。だが、桜であればこの顔をずっと見ていると飽きるだろう。感情を読むことのできない顔は、面倒臭いはずだ。
むしろ、毎日顔を合わせているのに、と思っている。全く変わらない表情は、いつも代わり映えしない。酷く退屈な顔だ。くわえて面倒事を引き起こすことがあることを知っている。
「凜夜の顔の方が有意義だと思う」
「急にどうされました、桜様」
傍でずっと桜の行動を見守っていた小百合が首を傾ぐ。桜に属する侍女の中で最も近しい存在だ。専属侍女を必要としていなかったが、こうして彼女がいると楽なのは確か。周りの者達の進言に従って良かった、と今は思っている。
小百合は静かに桜の言葉を待つ。桜も彼女を静かに見返すと、少し考える様子を見せる。桜も彼女へ渡す言葉を探すが、すぐに思う付くことはない。ならばそのまま伝えようかとも思ったが、表情が変化して見飽きないと言うのは、あまり褒めているようには聞こえないだろう。
「兄上と何かありましたか?」
桜が言葉に迷っていると察してくれたらしい彼女は、首を傾げつつ言葉を紡ぐ。
――これは
何かあったか、という問い。彼女のこれは、ただの問いかけではないことを知っている。この問いかけは、何か困りごとが? という意味ではない。彼女の兄――凜夜が桜に粗相をしていないか、ということの確認だ。
彼の行動が、桜に何某かの不利益を被らせたのか、と。
それを確認するための質問。桜が凜夜の名前を出したら必ずと言っていいほど彼女から返される問いだ。意図が読めなかった最初の頃、毎回意味を聞いていたので、覚えてしまった。今ではこの質問に限り、その意図を聞かずとも理解することができる。
「凜夜の表情は見ていて飽きない、と思ってね。それに、感情が伝われば面倒も少なそうだ」
桜の言葉に小百合は少し考える様子を見せて、首を傾ぐ。それから桜へ視線を寄せると、思いついたように頷いて見せた。
「兄上は桜様の前でだけ表情豊かですからね」
それ以外では基本的に『怒』か『無』ですよ、と彼女は言う。
生前から仕えてくれている凜夜は、桜の前では酷く穏やかな表情をする。穏やかに微笑んでいるか、パッと花を咲かせるか。笑顔の種類だけでも見ていて飽きない。泣いている表情も、怒っている表情も。生前から今まで、たくさん見てきている。
桜は彼の表情で楽しませてもらっているが、では。
――凜夜は?
こんな朴念仁といて、彼は楽しいのだろうか。生前からほぼ毎日彼と顔を合わせている。桜ですら見飽きるこの顔、表情を毎日見ている彼が、飽きないはずもないだろう。
なにより感情が表出しないことは、何かと面倒事を引き寄せた。素直に言葉として音に出しているとしても、誤解が生じることだってある。
凜夜はその点、自分の感情を周りに伝えることが上手いと思っていた。
「そうかな? 彼は案外、表情が変わっていると思うけど」
笑顔だけでもいろんな感情を伝えようとしてくる。桜には笑っている、としか分からないが、仲間達が「幸せそうだ」「楽しそう」「不機嫌かな」と教えてくれるのだ。それだけではなく、笑っていたと思えば雰囲気が一気に暗くなることもあった。
「それは桜様がいらっしゃるからですよ」
笑顔の小百合はそう言った。
「でも僕の変わらない表情よりずっといい」
ムニムニと自分の顔に触れながら伝える。筋肉が固いから表情が変わらないのかと思って、マッサージをしたこともあった。悲しいほど効果は認められなかったのだが。
「僕は普段から、退屈なわけではないよ」
周りの者達が許してくれることに甘えている。できるだけ感情を言葉にはしているが、よく分からないものは言葉にできない。伝えることができないそれを、周りの者達は上手く感じ取ってくれているようだ。桜には分からないけれど、彼等は桜以上に桜の感情に敏感である。
彼等は感じ取ってくれているが、この顔を見飽きるだろう。
そんな風に考えて言った先の言葉を、小百合は理解したらしい。少し目を丸くしていたが、それから穏やかに微笑んだ。
「存じておりますよ。桜様が我々を想ってくださっていることも」
だから桜が心配する必要はないのだ、と小百合は言う。チラリと彼女へ視線を寄せれば、穏やかな視線が寄せられた。本当にそう思っていることは、桜も理解できる。桜は周りの者達の嘘を見抜けないわけではないし、彼女達は桜に嘘をつかない。
「桜様が苦手なことは我々が代わります。ですから、桜様は御心の赴くままにお過ごしくださればよろしいのです」
ふわっと笑う小百合に桜は小さく頷き返した。
とはいえ、そのままでいいとは桜は思っていない。できる限りの努力はするべきである。考え付く限りの努力をしたうえで、できなければ仕方がないだろう。それはもう諦めるべきことだ。才能がないことに、それ以上努力することはできない。
だが、この世界にはたくさんの技術と才能と知識がある。妖術や魔法、魔術など、桜の知らない世界があるのだ。
それを利用しない手はないだろう。
もしかしたら、桜ももう少し感情を理解できるようになるのかもしれない。気持ちを表情に出して伝えることができるようになるかも。
そうすれば、対人関係のトラブルも減り、凜夜達の手を煩わせることも減るはずである。
方向性が決まれば、あとは突き進むのみだ。
自身の寝室のある宮を出て、門前にて出迎えた凜夜と共に執務室へ向かう。今日の予定を確認しながら、のんびりとした歩調で。早足で歩いても構わないのだが、それをすると他の皇帝達が微妙な顔をするのだ。
だから、凜夜が意図して歩調を緩めてくれている。
それを桜はとても感謝しているのだけれど、あまり伝わっている実感はない。感謝の言葉も結局表情が動かず、淡々と述べただけ。これでは言葉をもらう側が良い印象を得ないだろう。
「考え事ですか、桜様」
眉を下げた凜夜がこちらを伺う。不安そうな表情に落ち着かない。彼はいつも穏やかに笑って楽しそうに過ごしていれば良いのだ。
――そう、凜夜には平穏が似合う
武器など似合わぬし、戦場に立つよりも似合う場があるはずである。
「まだ考え事の整理ができていない」
「伝えて良いと判断されたら、おっしゃってくださいね」
ふわっと笑う凜夜に頷き返せば、彼は満足したらしい。再び話を今日の業務へと戻した。集中していないのは彼に失礼だ。今は感情だ表情だという話は置いておいて、業務に集中しなくてはならない。
なにより、感情が読みにくいからと、業務や公務に支障が出たことは今まで一度もなかった。もしかすると気にする必要のないことなのかもしれない。
「桜ちゃん、珍しいね。会議中に上の空なんて」
オーレリウスの声に桜は顔を上げる。会議中なのでちゃんとメモを取っていた。彼の言葉の意味が分からず首を傾ぐ。いつも通りメモを取って、発言もしている。
「おい、桜様はちゃんと会議に参加されている」
不快だと凜夜がオーレリウスに言う。表情も少し怒っているようで、彼を睨んでいる。それから桜の方を見て、眉を下げた。悲しんでいるとは違う気がする。今の状況的に考えて、彼は困っているのだろう。
「気にされる必要はありません、桜様。いつも通りです」
凜夜の言葉に桜は周りを見渡した。困った時、凜夜が桜を庇う言動をする時は、周りを確認する。それをすることで、他の仲間が何かを教えてくれることがあるのだ。
――今回もそれらしいな
どうやら桜が上の空だと思っているのは、オーレリウスだけではない。もしかしたら、凜夜も庇ってはいるが、彼等と同じ考えなのかも。
「考え事をされているように感じますね、桜嬢」
「うん。それは俺も思った」
ファーレンとハイリッヒの同意。その隣にいるベントゥーラも言葉にしないが、頷いている。つまりは、彼等は揃ってそう思っているということなのだろう。
「なんかあるんやったら、言い。上手く言えんでもええで」
パッと笑うベントゥーラに桜はペンを置く。
「皆、桜様のことを心配しているだけですよ」
眉を下げて補足してくれる凜夜に、桜は頷く。最近は補足されなくても、ちゃんと理解できている。凜夜はそれを承知の上で、桜に正解を教えてくれているのだ。
「僕、感情を表情に出したい」
結論としてはそれだ。
努力が実を結んだことはない。だが、少しでよいのだ。今よりも周りの者達に理解できる、感情の表出がしたかった。この国の皇帝として、民にももっと分かりやすい存在に。感情の表出が下手ゆえに起きるトラブルを回避できるようになれたらいい。
完全な回避は無理かもしれないが、減らすことができるかもしれないだろう。
「その結論に至った経緯を、私達も知りたいのですが」
穏やかに微笑んでファーレンが言う。
「毎朝、この顔を鏡で見ている」
この顔も見飽きる。感情は動いている自覚があるのに、変わらない表情。変えようと努力しているが、上手くいかない。引き攣ることはあれど、思うような表情になっていないのが現状だ。
くわえて、その表情で周りに誤解を与えることも少なくない。それに伴うトラブルも少なからず存在している。その手間を省くためには、感情の表出は必須課題だ。
桜の説明に彼等は真面目な表情で聴いてくれた。反論をするようなこともなく、ただただ桜の考えに耳を傾けてくれる。
「僕は、少しでも役に立ちたいと思っている」
「桜様が役に立たないわけないじゃないですか」
凜夜の反論に、桜は首を横に振る。彼ならそう言ってくれると思っていた。だが、そうではないのだ。彼がそう思ってくれるのは嬉しいし、桜は満足している。
ただ、それでは足りない、というだけの話で。
「感情が読めぬからとトラブルになることはある。それを減らすために、感情を表情に出せるようになりたい」
ずっと言っていることだ。
だから、凜夜は少し苦い表情をする。桜が苦手なことだと分かっているから。苦手なことを無理にする必要はない。それが彼の主張だ。昔から変わらないその主張を、そのまま受け入れてはいけない。その分のしわ寄せはすべて、凜夜が請け負っている。
彼が気にしていないと言っても、桜はとても気にしていた。自身に仕える従者達に楽をさせてやりたいと願っている。だが、結果として願うだけになっているのだ。
「それは――」
「ストップ。凜ちゃん、それ以上はダメだよ」
オーレリウスは凜夜の言葉を止めた。
珍しく言葉を素直に飲み込んだせいで、桜は凜夜の気持ちを理解できない。ジッと凜夜を見るが、飲み込んだ言葉を教えてくれるつもりはないのだろう。決して桜の方へ視線が寄らない。
「せや、桜」
沈黙が落ちたそこに、ベントゥーラの声が響く。彼を見れば、少し視線を外し、泳がせていた。
ジッと彼の方を見て言葉を待てば、静かな視線と合う。
「ちょっとしんどいかもしれんのやけど」
そんな前置きをされた。凜夜がそれに反論をしようとしたので、彼の手に触れて止める。ピクッと震える彼は、桜を鋭く見たが止める言葉はない。
「感情の感度を上げる魔法を使えるヤツがおる」
目の前が開けた気がした。