02. 少女
今日は卵が安かった。オムライスを作ろう。
玄関に荷物を置き、買ってきたばかりの卵を冷蔵庫に入れる。ご飯の準備はOK。オムライスなんて五分もあれば作れる。後は妹の帰りを待つだけだ。
俺は主夫になったつもりでリビングのソファに転がった。対面にはテレビ。壁沿いには本棚が置いてある。ちなみに我が家は安アパートの一室なのでそれほどの広さはない。
さて、テレビを見ようか、本でも読もうかと考えていると、玄関の方で何かがぶつかるような音がした。
「鍵、閉めてたっけ?」
俺は小首をかしげる。
妹は疲れていると玄関のドアを開けることすら億劫になり、兄である俺を小間使いのように使うことがある。玄関の鍵を開けさせることだって珍しいことではない。
「たまには自分で開けたらどうだ?」
俺はそう言ってやろうと鍵をひねり、ドアノブに手をかけた。
おかしい。ドアが、重い。まるで何者かにドアを抑えつけられているようだ。
「どうした卯花? 力くらべのつもりか?」
どうせ妹のいたずらだろう。俺は深く考えずにドアを押し開けた。
途端、ドアの抵抗が軽くなるとともに、重いものを床に落としたときのような重低音が聞こえた。
――アサガオ、が見えた気がした。
開ききったドアから見えるアパートの廊下には鮮血が広がり、真っ赤な血液で彩られた花弁の中心――アサガオで例えるなら茎へと繋がる部分――には、花の妖精を思わせる美しい少女が横たわっていた。
幻想的な、光景。
まるで童話の世界に紛れ込んだみたいだった。
だが、鼻をつく鉄臭い空気が、ここは現実なだということを認識させる。
「は? え? お、おい? なんだこれ? つ、通報? いや救急車か?」
止まっていたような時間が動き出すとともに、混乱が頭を支配した。
これほどの量の血を見たことがない。
少女は、指先すらも動かない。固く結ばれた両目の上、白磁を思わせる真っ白な額には一滴の汗が浮かんでいた。
「と、とりあえず安否確認か?」
殺人現場に無暗に立ち入ってはならない、と昔のドラマで見た考えが頭をよぎるが、混乱した頭では深く考えることもできない。俺は覚束ない足取りで少女の方へと歩きだした。
横たわる少女の傍らに片膝をついて、血に濡れた口元に手をかざす。指先に微かな生温かさを感じた。どうやら息はあるようだ。強張っていた体の力が、安心感からか思わず抜けた。
一先ずは大丈夫だろうと思い、俺は陰陽官に連絡しようとして自分のポケットへ手を伸ばす。
すると、伸ばしたはずの腕に妙な違和感を感じた。
「お……おんみょう、かん……は、だ、め……」
下を見ると、弱弱しく制服の袖を握りながら少女がこちらを見つめていた。出血のためだろうか、少女の声はかすれている。
その声は痛々しさを感じさせるとともに、思考の迷宮へと俺をつき落とした。
陰陽官はだめ、という言葉。この言葉を考えるに少女は十中八九面倒ごとに関係しているのだろう、と俺は考える。国家権力を恐れる者にろくな奴はいない。
さて陰陽官を呼ぶべきか、呼ばざるべきか。俺は自問する。
冷静になれ、俺。
まずは陰陽官を呼んだ場合はどうだ?
この女は陰陽官に保護されるだろうし、俺は事情聴取をされるぐらいですむはずだ。
しかし、この女がなにか大きな組織の犯罪がらみか何かだったらどうだ?
俺が陰陽官に引き渡したと思われて後からお礼参りかなにかをされるかもしれん。
「つっ!」
発想が飛躍しすぎそうになったところで、少女が呻き声を上げる。
俺はそれを聞いて正気に戻った。
陰陽官云々の前にまずは手当だ。
通報はそれからでも遅くないだろう。
いくら落ちこぼれだといっても応急処置程度ならば習っている。
身体能力強化術を併用して身体の回復力を高めるぐらいなら、たとえ俺でも可能に違いない。
考えをまとめると胸の前で軽く両手を合わせ、少女の腹部に掌を重ねた。
「……術式、発!」
赤黒い明滅が少女の体を包む。
術が正常に作動した証拠だ。
「あっ! ぐぅっ!」
傷口から血が勢いよく流れ出し、少女が呻く。
しばらくの間血は、少女の体を濡らしていったが、時間とともに血の勢いは弱まって、やがて泥のような感触の血栓へと変わっていく。
それに伴って、少女の回復力自体も上がっているようで、依然として少女の顔は青白いが、幾分かは先ほどよりもましになった気がした。
さて、救急箱でも取りに行こうか、と腰を上げると少女の大きな瞳が俺を捉えているのに気が付いた。
少女は俺の制服のすそをつかみ、上体を起こそうとするが、力が足りずに床へ倒れる。
手助けをしようとして少女の背中に手を添えると、中途半端な姿勢のまま、息も絶え絶えに彼女は話を始めた。
「あ、なたは、そう、か。そう、ですね。陰陽、術を使えるん、です、ね。わた、しのはなしを……きい、てもらえま、せん、か?」
傷がある程度治療されたとは言ってもまだ痛みは抜けていないのだろう。
言葉の節々が途切れて、聞き取りづらい。
話か厄介そうだな、どうするかな、と俺は目の端で少女を見ながら考えた。
彼女は俺の制服を掴む手とは逆の手を握ったり開いたりしている。
すると、満足したかのように小さく「うん」と頷くと胸の前に両手を持ってきて、呟いた。