015. 覚悟
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雨は、先ほどまでの勢いとは違って、身体に絡みついて滴っていくような、弱いが鬱陶しいものに変わっていた。
夜というよりも深夜と言うべき時間に、もうさしかかっている。
俺は暗やみの中を走る。路地の所々に設置された街路灯。
照らし出された水たまりが走り抜ける俺の顔を反射していた。
水面に映る俺の顔は濡れていて良く見えない。
――あんな質問をされたらどうしようもないじゃないか。
俺は夜闇を自分の身体で切り裂きながら、思う。
夏もほど近いというのに、雨のせいで冷えた外気が俺の体からどんどん温度を奪っていく。
栄えている地区からどんどん外れ、路地の奥へ奥へと人目が届かないような細い道をどんどんと進んでいく。
走り出してからそれほど長い時間を走ってはいないはずだが、なんだかもう数時間以上も走ったような気がする。
それからもう少しだけ走ると、数本の街路灯といくつかの石灯篭の頼りない明かりによって照らされた、人気が全く感じられない場所にたどり着いた。
「やっぱり、ここにいましたか」
少女が荒い呼吸を繰り返しながら言う。
濡れて額に張り付いた黒髪をうっとうしそうに手でどけていた。
俺は同じように荒い呼吸を繰り返しながら少女の隣に立って、彼女が見ている方向に居るそいつの行動を注視している。
そいつが何をしてきてもいいように。まるで、彼女を守るように傍らに立つ。
――俺は、式坂の式神になった。
「……まさか自分からやってくるなんてね。驚いたよ。
やっと自分の罪の重さに気づいてくれたのかい?
それとも、自殺願望でもあるのかい?
まあ、いいや。
どちらにせよ、僕が君に対してやることは変わらないのだから」
降りしきる雨の中、傘もささずに立つその男――白城巡は静かに言った。
「決着を、つけに来ました」
静かに言い放った後、少し驚いたように息をのんで式坂は続ける。
「お墓、ですか」
こちらを向いた白城のちょうど背に隠れるようにして建っているそれを見て式坂は呟いた。
聞こえるか分からないような、小さな声で言った。
本人はともすれば、聞こえなくてもいいと思っているのかもしれない。
「ああ。母さんの墓だ」
“白城”と簡素に彫られた墓石を後ろ手に撫でながら彼は短く答えた。
式坂を見つめながら「お前の祖父に殺された」と憎悪のこもった重苦しい声で付け足す。
……怯むな。
その隠す気のない純粋な憎悪の念に、一瞬臆しそうになるが、自分を奮い立たせて式坂を憎しみから庇うように、俺は一歩前に出た。
途端、「今気づいた」と言わんばかりに白城の暗くよどんだ眼が俺を見た。
その眼は、俺の姿を正確に捉えるとどんどん細められ“見る”から“睨む”へと変化した。
「お前っ! どうして動いている!
完全に鬼に堕ちたはずだろうっ!
あんな状態から五体満足であるはずがないっ!!」
白城の二人称が“君”から“お前”に変わり、語調が強まったのを見逃さない。
それは俺に対する怒りか、はたまた予想外のものを見て焦っているのだろうか。
俺は何かを言う代わりに、自分の制服の首元を引っ張って、露出させた首筋を白城に向かって見せつけた。
白城はそれを見て、しばらくの間少し驚いたように眼を開くとやがてゆっくりと笑いだした。
「はは。ははは。あははははは!
君は、いやお前は実に馬鹿だっ!
まさか自分から進んであの式坂家の式神になるなんてっ!
式神になるということがどういうことか分かっているのか?
命令を聞き、主人のために尽力し、忠を尽くす。つまりは、主人の狗になるということなんだぞっ!?」
おかしなものでも、見たように俺を見つめて白城は嘲笑する。
ああ、分かっている。
そんなものは痛いほど分かっているさ。
この契約を交わす前に式坂から十分説明を受けたさっ!
俺は首筋の、式神の証――傷で描かれた五芒星を一撫でする。
だがな。
白城、お前は一つ間違っている。
「俺は式坂家の式神になったわけじゃないっ!
俺は式坂冬鳥の式神になったんだっ!!」
俺は叫んだ。
周りにものも人影もなく、何回かの残響を繰り返すと俺の声は夜闇と周囲のいくつかの墓石に吸いこまれて消えていった。
隣を見ると、式坂はばつが悪そうに伏し目がちになりながら髪を指で梳いている。
俺はその動作で、式神契約を交わす前の少女の様子を思い出した。
式坂が死ぬか、式坂の式神になるかをすることで俺が助かるという少女。
式神になるということのデメリットを何度も説明する少女。
俺が式神になる、と答えると何回も考え直すように求めた少女。
まるで彼女は、自分が死ぬことを望んでいるようで、いつも伏し目がちに髪を指で梳いていた。
そんな彼女だからこそ。
――自分の命すら省みない少女だからこそ。
俺は彼女の式神になることを選んだのかもしれない。
彼女は自分に似ている。そんなことを思いながら。
「そいつだからどうだって言うんだっ!
そいつだって式坂の人間に変わりはないだろうっ!
俺の、俺のたった一人の肉親を奪った式坂家の人間だっっ!!!」
白城は叫ぶと、両手を合わせて胸の前で打ち鳴らした。
それは式坂が術を使う際に行う仕草とよく似ていた。
白城の柏手の音が聞こえたかのように、鬼が白城の横に現れる。
しかし、鬼は五体満足の状態ではなかった。
鬼には、俺が引きちぎったという方であろう右腕がひじの辺りから末端に至るまで無くなっており、赤々しい傷口が見てとれた。
「美影さんっ!」
式坂が俺に呼びかける。
「ああっ!」
俺は答えた。
俺は白城に向かって一直線に走り出す。
俺は一つ深呼吸をし、指で鉄砲のような形を作り、走りながら真っ直ぐそれを白城に向ける。
向けた指先からは、空から降ってくる雨粒が集まり拳ほどの大きさの水球を形づくると弾丸のような勢いで白城に向かって発射された。
「よしっ! いけるっ!」
俺は式坂との間に交わしたそれが正確に作用していることを改めて確信する。
それ――すなわち、式神契約が。
「そんな子供だましが通用するかっ!」
白城が鬼に命令を下し、鬼が水球を左手で打ち払った。
細かい水滴となって鬼の足元付近へと落ちていく。
俺は走りながら両の掌を合わせた。
「なっ! まずいっ!」
白城は俺が何をしようとしているのか理解したようで、慌てて鬼に行動を起こすよう命令を下す。
だが、もう遅い。
鬼の足元の地面が膨れ上がり、木の枝が出現する。
突如現れたそれは鬼の足に付着した先ほどの水滴を吸収するように、成長しながら鬼の足に巻き付いていく。
つたのように絡まる木の枝に足を取られ、鬼はうつ伏せに地面に向かって倒れこんだ。
地鳴りのような低い、鬼のうなり声が聞こえる。
これだけでは終わらない。
鬼が倒れた先、頭の部分には式坂が放った鳥型の式神が集団となって待ち構えていた。
「っつ!!」
「させるかよっ!」
白城が慌てて鬼の目の前に防御術式を展開しようとするが、俺が白城に殴りかかって妨害する。
白城と俺が応戦しながら鬼と距離を開けるや否や、式坂は式神を一気に爆発させた。
周囲の空気が一気に焦げ臭くなり、鬼の周辺の雨が蒸気に変化する。
「これは効いただろっ!」
俺は白城に右わき腹に回し蹴りを一発蹴りこむと、再度距離を取った。
回し蹴り自体は防御こそされたものの、一連の連続攻撃はいくら白城といえども応えたようで、追撃はこない。
――やれるっ! やれるじゃないかっ!
俺は自分が使った、人生で初めての肉体強化術以外の陰陽術に身震いを覚えた。
こんな感動を与えてくれるなんてっ!
案外式神になったことも捨てたものじゃないんじゃないかっ!
俺は式坂から教えられた式神契約のメリットをもう一度頭の中でなぞらえた。
式神契約は、主人に対しての忠誠に近い形の隷属をする代わりに主人から力を分け与えてもらうことができる。
それがこの契約の利点だ。
俺が陰陽術を使えた所以は、この式神契約によって式坂の“業”や五要素のを操る力を借りたことに由来する。
「はは。
やるねえっ!
驚いたよっ!
まさか短時間でこれほどまでに式神契約を使いこなしてくるなんてっ!
でも、鬼があの程度の攻撃でやられるなんて思ったら大間違いだよっっ!!」
白城が指をこすらせて軽い音を鳴らす。
すると、鬼の足を拘束していたはずの木の枝が燃え盛り、先ほどの爆発の火の粉を巻き込んで木の枝を黒々とした炭へと変えた。
自由になった足で鬼が立ち上がる。
「甘い。甘い甘い。甘すぎるっ! 相手が利用できる火種を残しておくなんてっ!」
鬼は式坂に向かってまた、肩を前方に突き出して突進を開始する。
すんなり立ち上がったように見えたが、速度自体は以前よりも断然遅く感じる。
しかし、多少遅くなったとは言ってもやはりまだまだ早いことには変わりがない。
肉体強化術で動体視力や反射神経を強化していなければ目で追うことがやっとのはずだ。
俺は式坂を庇うために後方に足を向けた。
「君の相手は僕じゃなかったのかいっ!」
開けていた距離を一気につめて白城が俺の右わき腹に回し蹴りを蹴りこんだ。
俺をなめているのか、複雑な陰陽術は使わず、純粋な肉体強化術しか使っていないようだ。
俺は腹と白城の足との間に間一髪腕を挟み込んだが、威力を完全に殺しきることはできず「ぐっ!」と息が詰まる音が口から漏れた。
「式坂っ!」
続く白城の連続攻撃をなんとか捌きながら、俺は式坂の方を見やる。
潰されてはいないかとひやひやしたが、式坂は鬼の突進を地下での戦いのときのように防御術を使うことで防いでいるようだった。
くしくも、あのときのような態勢で鬼が式坂の結界を殴りつけていた。
「ちいっ!」
体術だけでは互角だと判断したのか、白城が陰陽術による攻撃を織り交ぜてくる。
上から降ってくる雨を利用した水流。
濡れた地面を利用した木の鞭。
足を止めると、土を操って俺の行動を制約しようとしてくる。
幸いなことに天候のおかげで火の要素を使った攻撃は少ないが、A組主席だけあって、今日の演習で戦ったB組の生徒達とは比べものにならないほどの術の多彩さと威力である。
攻撃の合間をぬって、鬼が防御壁を殴り続ける轟音が鳴り響く式坂の方に目を向ける。
式坂はA組に選ばれるだけあって体術や他の陰陽術も人並み以上には得意なのだろうが、どれも鬼に対抗するためには一歩足りないのだろう、一番得意とする式神術を使う機会をうかがっているようだった。
俺はぎりぎりのところで攻撃を躱しながら、次に繋げるための一手を考える。
「くそっ! くらえっ!!」
俺は眼くらましのために、雨を利用して白城の目前に水の壁を作る。
白城が怯んだ一瞬の隙を見逃さずに、すかさず右足でかかと落としを決め、身体を回転させて左足の後ろ回し蹴りへと攻撃をつなげた。
手ごたえありっ!
俺はダメ押しの顎への蹴り上げを放ちながら式坂の方へもう一度目をやる。
式坂は自分自身が攻撃に転じる隙を突かれないために俺が白城を攻撃するときを待って攻勢を始めたのだろう。
鬼が振りかぶった左腕が式坂の防御壁に当たる直前にその壁を消した。
鬼は狙っていた目標物が急に消えたことにより左腕の勢いを殺しきれずに、前方に倒れこんでいくような形でバランスを崩す。
式坂はそれを見越して、手に構えていた三枚の式神型を上空へ散らすと、一瞬でそれらを結合させた。
鬼の三分の二ほどの大きさの、人型の白い式神が鬼の前方に姿を現す。
それは、式神自身の方に倒れこんでくる鬼の顎の辺りに狙いを定めると、アッパーのような形で下方から上方へと一気に打ち抜いた。
鬼の体重も相まって、相当な負荷が鬼の顎に加わったはずである。
「よしっ!」
俺は式坂に近づいて、強力して鬼を始末するために後退を開始しようとする。
しかし、俺の足は動かず、万力のような力で締め付けられていた。
「蹴り、防いでたのかっ!」
俺は痛みで身をよじりながら白城を睨みつけた。
「美影さんっ!」
白城は力を緩め、無言で俺を空中へ放り投げた。
続いて先ほど陰陽術で作りだしたしなる木の枝を利用して、丸太ほどの大きさの木の固まりを俺に向かって射出する。
空中に投げられた俺は、重量を伴ったそれを避けることはかなわず、なんとか腹や顔面のような急所は腕で防いだものの、陰陽術で防御する暇なく直撃を食らった。
俺は元いた位置よりも斜め後方に大きく吹き飛ばされる。
吹き飛ばされている最中にそれを見た。
白城に足を掴まれた俺を見て、式坂が鬼から目をそらした一瞬の隙だった。
式神によるアッパーの直撃を食らい、のけぞるような形で後ろ向きに倒れると思われた鬼だったが、そいつは足を踏ん張り、なんとか態勢を持ち直すと、式神に向けて、自分のつむじの辺りから生える角を使って頭突きをするとともに、前方に突っ込んでいく力を利用して踏ん張っていた足で式坂を蹴りぬいた。
式坂は宙を舞い、大きく後方へと放物線を描きながら飛んでいく。
鈍い音を立てて接地すると式坂は蹴りぬかれた勢いを殺しきれずに、そのまま地面を何度か転がって止まった。
「げふっ! がほっ! ぐっ、うぅっ!」
式坂は背中を強打したせいか、苦しそうな咳を繰り返すと、下を向いて地面へと血を吐いた。
「式坂っ! ……っつ!」
俺は起き上がって、式坂を助けようと駆け出そうとするが、白城に掴まれていた方の足が以上な腫れ上がりを見せているのに気が付いた。
多分、折れてる。
昼間折れてからまだ一日すら時間が経過していない。
平岡の治療を受けたとしても、骨が完全には定着しきっていなかったのかもしれなかった。
出鼻を挫かれたような足の痛みに一瞬怯むが、すぐにもち直して未だ起き上がらない式坂の方へ駆けようとする。
しかし、目前の地面に着弾した水の弾で俺の行く手は遮られた。
「無駄だよ。式坂家の人間は死ぬ。……僕が、殺すんだ」
白城は俺が先ほど行ったように、指で鉄砲の形を作りながら一歩一歩こちらに近づいていた。
距離が縮まるごとに水弾の威力と速度は次第に増していく。
「くそっ! これじゃあ、式坂がっ!」
鬼は左肩を前方に突き出す形をとって、今にも式坂に向けて駆け出そうとしている。
当の本人は、やはり鬼の蹴りの直撃が相当効いているようで、意識こそあるものの中々立ち上がることができず、地面に腕をつきながら鬼の動作を見つめていた。
くそっ! くそっ! くそっ! くそうっ!
どうする?
この場を切り抜けるにはどうすればいいっ!?
やはりあれを使うしかないのかっ!?
俺は戦いが始まる前に式坂と交わした約束を思い出す。
鬼が式坂向けて突進を開始した。
「くそうっ!」
――俺は覚悟を決めた。