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013. 目覚め


 ******

 俺の頬を、なにか液体のようなものが流れていく感触で目が覚めた。

 液体は雨だろうか。血だろうか。それとも鬼の腹の中の胃液かなにかなのだろうか。


 「しきさか」

 俺は眼を開けて、隣に座っていた人物に声をかける。

 この液体は涙に違いない。軽やかに頬を撫でていくそれの感触で俺は確信した。


 「よかった。気が付いたんですね。美影さん」

 式坂は柔らかく微笑んだ。

 涙は俺が声をかける直前に拭ったようで、今は瞳に溜まっていない。


 「なにが……あったんだ?」

 式坂の目の下には、半端に途切れた涙の跡がある。彼女の大きな瞳は真っ赤に充血していた。


 「覚えて、いないんですか?」

 式坂は驚いたように、眼を何度もしばたかせた。


 「覚えていないもなにも。なにが、なんだか……」

 俺は身体を起こそうとして、気がついた。

 ――激痛。

 いや、激痛だけならばどれだけ安心できたことだろうか。

 俺は何故か横たわっている自分自身の身体を起き上がらせるために腕に力を込めようとする。


 「ははっ。なんだよ、これ」

 腕に力を込めようと、いくら頭の中で念じたとしてもそれは無意味だった。

 腕の感覚がない。正確に言うならば、首から下の身体の感覚――存在しているということが全く認識できなかった。

 唯一“ある”ということを認識できる首より上の部分には起きたころからずっと、黒板を爪で引っ掻いたときのような音の耳鳴りを伴うひどい頭痛が襲っている。

 その痛みは今の俺から正確な思考能力を奪うことに加えて、混乱に陥って現在のわけのわからない状況から逃避することすら許してくれなかった。

 しかし、その鈍痛は同時に俺に、冷めたような、現実を現実として認識できないようなそんな気持ちにさせた。


 「っ!」

 俺はいつもの寝起きよりも何十倍にも重く感じられる頭を持ち上げて周りをゆっくりと見渡し始めた。

 九畳ほどの小さな部屋。

 黒を基調にした、背もたれ付きの簡素な椅子。

 白の布団で統一された柔らかなベッド。

 黒の板版に所々白があしらわれた本棚。


 ベッドの上には俺が寝ころび、その光景を椅子に揺られながら式坂が見つめている。

 本棚の上では球をモチーフにしたようなぬいぐるみが三つほど、仲良さげにその身を寄せ合っていた。


 「式坂。お前の部屋か?」

 これという確証があったわけではない。ただ、なんとなくそう思った。


 「ええ。そうです」

 式坂は頷く。

 俺はもう一度頭を上げて、式坂の眼を真っ直ぐに見つめた。


 「なあ、教えてくれ。何が、あったんだ。

 ――俺は、何者なんだ?」

 式坂と向き合うために力んでいた首から力を抜く。

 首元に置かれていた枕は、全てがどうでもよくなりそうになるほど柔らかく俺の頭を包み込んでくれた。

 なんだか、安心する香りがした。

 俺の顔を一目見ると、式坂は俺の足先から首元までかけられていた布団を無言で、静かにめくった。

 俺の上半身があらわになる。


 「あなたは、鬼です」

 式坂は震える声で静かに、言った。


 「まるでさつまいもだ」

 自分の上半身を眺めて真っ先に出た感想が、悲嘆するよりも狂騒するよりもまずなによりもそんなふざけたことだった。

 俺の上半身――首より下の部分はさつまいものように、いや正しくはさっきまで目の前にいた鬼のように赤黒く変色している。


 地割れのように深く割れた腹筋と、力も入れていないのに山のように隆起した力こぶが、およそ人間の身体とは呼べない代物であるのだということを想起させた。

 式坂の表情を見るに、下半身も同じような状態であることを想像することは難しいものではなかった。

 俺が身体の状況を把握したことを確認すると「右腕が……」と式坂が先ほどよりは小さくない声で話し出した。

 俺は無言をもって続きを促す。


 「鬼の右腕が振り下ろされたとき、私は死を覚悟しました。

 正直そのときは美影さんのことは何も考えていませんでした。

 ただ、私が巡兄さん――いえ、白城先輩に裏切られていたこと。

 ただそれだけで頭がいっぱいだったんです。嘘だと思いたかった。

 私が白城先輩の言っている言葉の意味を理解し、その願望とも呼べる独りよがりな思いを口に出したときです。

 ――美影さんは、雄叫びをあげました」

 式坂がいったんそこで言葉を区切り、俺の顔、いや髪を見た。


 「私、とても驚きました。私の絶望も、願いも、そんなものは全て関係がないと言っているような、この世のものとは思えない、それほど大きな叫び声だったんです。

 巡兄さんも驚いたようで、美影さんを見つめていました。

 それで私、その声を聞いて思ったんです。

 ああ、美影さんを巻き込んで本当に申し訳ないなあって。

 美影さんはこれから先だって生きていけたはずなのに、私と関わったせいで死んでしまうのかって。

 本当に自分が不甲斐なくて、美影さんを死なせてしまう自分が悲しくて、私は白城先輩を見つめて祈りました。

 どうか、美影さんだけは助けてください。私の命は差し上げますからどうかお願いします、と」

 そこまでを聞きながら、やはり、こいつは……、と俺は式坂に出会ってから今まで頭の隅で秘めてきた考えを確信した。


 俺は式坂の話の続きに耳を傾ける。

 「白城先輩を見ていたら、飛んで行ったんです。

 ――鬼の、右腕が。

 ちょうどひじの辺りから引きちぎられた大きなそれは陸上選手のやり投げのように真っ直ぐ飛んでいったかと思うと、鬼の左肩に立っていた白城先輩に直撃しました。

 私はその光景だけでも息を飲んだのに、まるで何が起きたか理解できないとでも言いたげに苦痛で顔を歪める白城先輩目がけて、もう一つの物体が突っ込んでいきました」

 式坂は、一つ息を吐くと、細く、白くしなやかな指を俺の顔に向けた。


 「美影さん、あなたです」

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