7 逃亡先の客
リアナはこっそりとエリアスの元を訪れ、別れの挨拶をするつもりだった。
あり得ない時間の訪問客に良くないことでもあったのかとエリアスは緊張したが、それがリアナだと知るとすぐに屋敷の中に引き入れた。
表面だけの笑顔を浮かべるリアナは、身一つで何の荷物も持っていなかった。
「私、ここから出て行くことにしたの。エリアスは頑張って執事になってね」
リアナの言う「ここ」は、ウルバノ領のことだろう。五歳からずっと領で暮らし、十三年ぶりに葬儀のために足を向けた王都にも知り合いはいない。
「出て行くって…どこか行く宛てはあるのか?」
「…何とかなる。大丈夫よ」
「大丈夫なわけないだろう。…ちょっと待ってろ」
こんな時間の訪問が非常識だとわからないリアナではない。それでもどこかへ立ち去る前に自分に挨拶だけはしておこうと思ってくれたのだ。エリアスは、事情はともかく、リアナが自分を訪ねる気になったことに感謝した。
リアナを商家の応接室で待たせ、主人であるドミンゴ・ロメリに事情を話した。
商家の主人が領主に背くことなどできない。迷惑をかけることはできないと思ったリアナは早々に立ち去るつもりだったが、エリアスと共に現れたドミンゴは、
「どんな事情かは聞かないが、若い女の子がこんな時間にどこかへ行こうなんて、危険すぎる。今夜はうちでゆっくりして、これからのことはもう少し落ち着いてから考えるといい」
そう言うと、使用人の部屋を一部屋貸してくれた。
冷静になってみると、確かに夜中の移動は危険だ。遅い時間にもかかわらず親身になってくれ、客室ではなく使用人の部屋という申し出に安心し、リアナは言われるままそこで一晩を過ごすことにした。
翌日になっても、追っ手は来なかった。
少しでもばれないように、と髪をはさみで肩より短く切った時はエリアスに叱られてしまったが、ドミンゴの妻アデラは髪を切りそろえ、リアナの希望するとおり、薄茶色の髪を黒色に染めてくれた。
じっとしていても落ち着かないので、リアナは商家の仕事を手伝った。店の掃除や、品出し、従業員の子供達に計算や文字を教えているのをドミンゴが見かけ、聞いてみると帳簿をつけたこともあるという。その日の納品伝票を見せると難なく処理し、ドミンゴは感心して、
「ただ働きさせるのは、私のポリシーに反する」
と言って給金も出してもらえた。まずは日払い、続ける気があるなら週払いにする代わり、もう少し弾むと言われた。
移動の元手もなかったことに今更ながら気がつき、ドミンゴの配慮に感謝した。リアナは給金がある程度貯まったら、この領から出て行くことにした。
特に追っ手がかかることもなく、二ヶ月ほどが過ぎたある日、店内の品出しをしていると、店の客としてファビオが訪れた。
リアナは眼鏡をかけ、髪色を変えていたが、相手は騎士隊の小隊長をしているような人だ。自分のことはすぐにわかり、無理矢理連れ戻されると覚悟していたが、気がつかなかったようだ。
何かを買ってそのまま去って行った。店番の日じゃなくて良かった、と胸をなで下ろした。
その三日後、またしてもファビオが現れた。しかも店番をしているときに。
「これを」
指さされたインクをあえてうつむき気味になって取り出し、いつもより低い声で金額を告げると、黙って支払いを済ませ、出て行った。
…本当に、ばれていない?
扉が閉まっても、窓に映る姿がこちらを振り返ることはなかった。
悪いことをしているようなドキドキした気持ちがいつまでも残った。
それから三日に一度くらいのペースで店に来て、マッチだとか、封印用の蝋とか、一品買って帰っていく。
特に話しかけられるわけでもないが、自分がリアナだとわかって来ているのは明らかだった。二度目からは自分が店番をしている時にしか来ていないのだから。
様子を見に来ているのだろうか。そう遠くないうちに連れ戻される、そう思うとどうしても緊張してしまう。
しかし、連れ戻すどころか世間話さえもなかった。
屋敷を抜け出して三ヶ月。ファビオが店に来るようになって一月。
どうにも気になって、リアナは思い切ってファビオに聞いてみようと思った。自分のことに気がついているなら、どうして見逃してくれているのか。
しかし、自分から自分がリアナだと話しかけるのは何だか変な感じがして、結局
「あの…」
から先の言葉は出なかった。
すると、ファビオの方から
「休憩時間は?」
と聞いてきた。
「お昼の鐘が鳴ったら…」
「じゃあ、噴水の所で」
それだけ言うと、買った物を手に店を出て行った。
お昼に街の真ん中にある噴水の所まで行くと、ファビオが待っていた。
「髪…、短くしすぎだ」
そう言って、横髪を一房手に取ると、感触を確かめるようにゆっくりと手を動かし、髪がさらりと手から抜けていった。
やはりファビオは、最初からリアナだとわかっていたのだ。
「ごめんなさい」
あれだけ反抗心しかなかったのに、気がついたら謝っていた。
「俺も悪かった。家でろくに守れもせず…。前の領主の館でおまえはもっとのびのびと、やりたいことをやっていた。作法は…まあひどかったが、自分のやっていることに自信を持ち、胸を張って生きていた。それがうちに来てから笑わなくなり、食も落ちていたと聞いた。ちゃんと見ていれば気がついたはずなのに…」
「…いいんです。どうせ王家の血以外、何の価値もない私ですから。知らないところだろうと言われるままに嫁いで、王家の血を引いた子供を管理すれば、きっと王様も安心するでしょう」
気がついたら、笑っていた。自分のことを自分が嘲笑している。
「親からも捨てられた私には、もったいないほどの好条件です。着るものにも、食べるものにも困らず、暖かい部屋で過ごせるんですから。感謝しなきゃ、いけないって…思え…。思えるわけ…」
うっかり思っていることが口に出そうになり、まずいと思ってうつむくと、
「…思えるわけ、ないよな」
溜息と共に聞こえてきた同意に、リアナは顔を上げ、ファビオを見た。
自分の膝の上に肘をついてこっちを見ているファビオは、かつて館で一緒に飲み明かした時のように近しい存在に思えた。
「おまえ、どう見ても行儀作法とか苦手っぽいしな。でも知っておくのはいいことだぞ。目標を嫁に行くことにしなくても、いざというときに力にできる。作法を知らなければ、王城に行って伯父さんに直談判することもできない」
伯父さん。それはリアナの伯父である王のことだろうか。思わず吹き出してしまった。
「…母が、褒めていたよ。行儀以外は、勉強も自分なりにしてきたんだろうって。行儀作法も、やる気はみられないがましになっている。筋は悪くない、と」
嘘だ、と思った。あんなに厳しくて、常に見張られていて、自由がなくて。出かけた先でも揶揄されるほどうまくできない自分のことを呆れているんだと、そう思っていた。
「母はおまえに恩返しをしたいそうだ。おまえが生まれたおかげで、妹がバカな王族の元に嫁がされなくて済んだと」
王族の元に嫁がされなくて…。
それは、もしかして何とかいう侯爵の令嬢…。父の言う真実ではない愛の相手、それがファビオの母、センディノ侯爵夫人の妹だった?
もしそうなら、それをありがたいと思うのもわからないでもない。しかし、そこに「恩返し」という言葉を充てられて喜ぶほど、リアナは単純ではなかった。
自分はそのバカな王族の娘なのだ。
「…真実の愛に生きるって言ったら、侯爵様は、…王様は諦めてくれるかな。あの、『真実の愛』の『結晶』だけあって大バカ者だって…」
そうつぶやいたリアナは、うつむいたまま、じっと足元を見ていた。まるでつま先に敵でもいるかのように、その眼には妙な迫力があった。
そして、ひらめきをそのまま口にした。
「私、真実の愛の相手のところに行こうと思います」
「そんな相手がいたんだ」
はなから信じていないような口調で向けられた返事に、
「ええ。そうは見えないでしょうけど」
と淡々と答えた。
「どんな相手だ?」
「ずっと好きだった人です」
嘘をついているにしては、すんなりと答えが返ってきた。うろたえる様子もない。
「ファビオより少し背が高くて、細身で、アッシュグレイの髪が似合っていて…。少しつれないですが、私のことをよくわかってくれる、…とても素敵な人です。もし、真実の愛に生きるって言ったら、侯爵様は縁談を諦めて…」
「言ってみればいい。直接」
何てないことのように、ファビオは答えた。
「一緒について行ってやるよ。父に会えるよう話をするが、少し時間が欲しい。一週間以内には返事する」
まさか、自分のこんな意見が通るとは思わなかった。もしかして罠だろうか、と疑いを持った。
「領主様の家に戻ったら、…捕まえて、閉じ込められたりしない?」
「そんなことがないよう、父に約束してもらおう。父が約束しないなら、無理に家に連れて行くことはない」
リアナは少し考えて、こくりと頷いた。
このままドミンゴの店に世話になっていても、いつかは迷惑をかけてしまう。そろそろ、きちんと話をしなければいけない。
「…今、おまえは体調がすぐれず、屋敷で休養していることになっている。むやみに外に出ないように。できるだけロメリの家で過ごすんだ。いいな」
ファビオに家まで送ってもらった後は、店には出たが、極力屋敷の外に出ないようにして過ごした。