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イップスな彼

作者: 春名功武

 彼を一言で表すと、非常識で不条理でシュールな男。とにかく普通ではないのだ。


 どのように普通ではないかは、彼の日常生活を見れば一目瞭然である。


 彼の朝は早く、6時には寝床から起き出る。寝間着を脱ぎ、家着のスエットに着替えると、今度は今着たばかりの家着を脱いで、背広に着替える。間違ったわけではない。彼は一旦家着を着ないと、背広を着られないのだ。そういったルーティーンなのか、体質なのか、何なのかは分からない。ほら、普通ではないだろう。


 背広を着る手順も独特で複雑だ。まず靴下を片方だけはいて、もう片方の靴下を残したまま、肌着を着る。次にワイシャツを羽織ると、ボタンを留める前に、背広に袖を通す。そこでもう片方の靴下をはき、スラックスをはいて、ワイシャツのボタンをとめる。最後にネクタイを結んで出来上がり。彼にとってはこの手順が一番しっくりくるらしい。


 寝室から出ると、リビングで朝食を取る。朝食のメニューはいつも同じ。食パンに鮭の切り身にスムージーにシリアルに納豆にコーヒー。朝食の定番をこれでもかと集めている。冷蔵庫の物を寄せ集め、無理矢理食べているのではない。好んでこのメニューにしているのだ。


 朝食を終えると、次は洗面所で歯磨きをする。歯磨き粉を手にした彼は、歯に直接歯磨き粉を塗り込んでいく。まるでキャンバスに絵の具を直接絞り出す技法のように。歯に歯磨き粉がいきわたったところで、ようやく電動歯ブラシを使い磨く。電源OFFのまま、手動で。これではただの重たいだけの歯ブラシだ。電動歯ブラシも最大のメリットを使ってもらえず、歯がゆいことだろう。


 支度を終えると、そろそろ家を出るのかと思えば、そうではない。必ずここでトイレに行く。出掛ける前にトイレに駆け込む人は少なくないだろう。


 しかし彼はトイレの前までやってくると、せっかく着込んだ背広を全部脱ぐのだ。彼は全裸でないとトイレ(大便)が出来ない。いくら便意があっても、服を着ていると、リラックス出来ず、ぎゅっと肛門が締まったまま開かない。それは会社でも出先でも同じ。彼がトイレで個室に入るところを見掛けたら、中で全裸になっていると思ってもらっても構わない。


 トイレから出て来ると、また一から背広を着込む。もちろん手順は例の通り。靴下を片方だけはいて、もう片方の靴下を残したまま、肌着を着る。次にワイシャツを羽織ると、ボタンを留める前に、背広に袖を通す。そこでもう片方の靴下をはき、パンツをはいて、スラックスをはいて、ワイシャツのボタンをとめる。最後にネクタイを結んで出来上がり。


 7時半になると家を出る。急いでいるわけでもないのに、最寄り駅まで羽振りよくタクシーを使う。自宅は駅まで徒歩10分の距離なので、1分もしないうちに最寄り駅に到着する。


 そこからは電車で向かう。駅までタクシーで駅から電車。何がしたいか分からない。


 会社までは電車を2度乗り換えて40分程かかる。健康の為に、会社の最寄り駅の一駅手前で降りて歩く。健康を気にするなら、自宅から最寄り駅も歩けば良かったではないか。


 最寄り駅の一駅手前から会社までは、何度も歩いている道だというのに毎回必ず迷う。何とか始業時間の9時半までには到着するが、身体中に痣や擦り傷を作ったり、びしょびしょに濡れてやってくる事もある。いったいどんな道を通ったらそうなるんだ。都内にそんな茨の道があったか。不思議でならない。


 そんな彼は、保険会社に勤めている。とあるショッピングモール内の保険ショップに所属しているコンサルタントだ。来店客のライフスタイルや将来設計、マネープランなどをヒアリングしながら、最適な保険商品を提案するのが主な仕事だ。


 仕事ぶりはと言えば、お察しの通り無茶苦茶である。前にこんな事があった。年配夫婦が、保険の見直しにやってきた時の事だ。彼は何を思ったのか、既に子供が巣立ったその夫婦に、熱心に学資保険を勧めたのだ。

「お客様にピッタリな商品がありまして。学資保険といって、子供の教育資金を準備するための貯蓄型の保険なんです。大切な子供の将来のために…」


 またお客様を説教した事もあった。相手は社会人になったばかりの若い男性で、保険の加入に前向きだった。それなのに彼は、何が気に食わなかったのか怒り出した。

「保険に入りたいだと。ふざけるな。何かあったら誰かに助けてもらおうなんて、甘いんだよ。保険なんかに頼らず、もっと自分自身の力を信じて頑張れよ」勧めるどころか、追い返してしまった。


 会社員としてあるまじき行為だ。だけど驚きなのは、こんな仕事ぶりでも、彼の営業成績は全国一位なんだ。そこもまた無茶苦茶だろう。


 仕事が終わると、たいがいは真っ直ぐ家に帰るのだが、ごく稀に合コンに誘われる事がある。


 もちろん合コンでも普通ではない。乾杯もしてないうちから、王様ゲームを始めようとしたり、取り分け用の菜箸で食べたり、自己紹介で40分も喋ったりする。トイレに行って戻って来ないと思ったら、勝手に家に帰っていた事もある。あと、女性と連絡先を交換することになった時、勘違いして携帯電話自体を交換した事もあった。


 それでも、彼はよくモテる。いつも一番人気。理由は簡単、彼はかなりのイケメンなんだ。鼻筋が通り、ブラウンカラーの瞳には目力がある。男性にしてはきめ細かい肌は色白で、手足が長く、筋肉も程良く付いている。母性をくすぐる無邪気さと、大人のセクシーさが入り混じった外見は、誰が見ても魅力的に思うだろう。


 家に帰ってきた彼は、背広を脱いで家着のスエットに着替える。ソファでゆっくりとテレビでも見るのかと思いきや、お風呂場へ向かう。お風呂に入るために、今着たばかりの家着を脱いで、全裸になる。


 全裸になったら、まずドライヤーで髪の毛を乾かす。濡れてはないが、とにかく髪の毛を乾かす。ドライヤーが終わると、いよいよお風呂場に入る。


 シャワーを使い身体を軽く洗い流してから、乾かしたばかりの髪の毛を濡らす。そして石鹸で髪の毛を洗い、シャンプーで洗顔をして、コンディショナーで身体を洗う。最後に浴槽に浸かる。「ああ~、良い湯だな。癒される」などと、くつろいでいるが、浴槽にはお湯どころか水すら溜まってない。


 お風呂から出ると、バスタオルで身体を拭く。一般的には一枚のバスタオルで済ませるものだが、彼は細分化している。フェイスタオルで顔を拭き、ハンドタオルで手を拭き、足ふきマットで脚を拭き、ヘアータオルで髪の毛を拭き、バックタオルで背中を拭き、ヒップタオルでお尻を拭く。胸部、腹部にもそれぞれ専用のタオルを使う。そして歯磨きをしてから、洗面所を後にする。


 リビングで就寝前の時間を過ごす。社会のしがらみから解放された至福のひと時。自由で何をしてもいい。彼はアイスを食べる。何をしてもいいとはいえ、アイスだけは駄目だ。歯磨きを済ませているのだから。確かにお風呂あがりのホカホカ温まった身体で食べるアイスは最高だろう。だけど、歯磨き後にアイスを食べる事を許される人間などいない。


 そんな事をしているから、彼にはちょくちょく虫歯が出来る。虫歯が出来ると、どういうわけか耳鼻科に行く。いつも「虫歯なら歯医者さんに行って下さい」と丁重に返されてしまう。


 アイスを食べながら、彼はのんびりとテレビを鑑賞する。といってもテレビ番組ではなく、テレビ本体を鑑賞する。テレビ本体のフォルムが好きなようだ。それが終わると、今頃になって朝刊に目を通し、今日も終わろうとしているのに、占い本で本日の占いをチェックする。


 0時を過ぎた頃に寝室へ向かう。ベッドに敷いた掛け布団の上に横になり、敷布団をかけて、頭の上に枕を乗せて、眠る。


 というのが彼の一日だ。彼がどうしてこんな風になったのか?いつからこんな風なのか?生まれてからずっとこんな風なのか?彼は過去を語りたがらない。


 彼と前に付き合っていた女性が、精神科医に相談したことがあるんだ。その精神科医に彼の日常生活を隠し撮りした映像を見てもらったら、首を捻ったまま固まってしまった。それでも精神異常を測るテストでは、まともだという診断結果が出た。


 ただその時、精神科医が呟くようにこんな事を言ったんだ。「イップスかもしれない」と。


 イップスとは、それまでスムーズに出来ていた動作が思い通りに出来なくなる運動障害の事である。ストレスの多いアスリートや音楽家、作家、芸人などに症状が現れる事があるという。


 しかしイップスが発症して、日常生活の動作が思い通りに出来なくなるなんて、信じがたい見解である。


 だけど本当にイップスが原因だったら、誰の身にも起こり得ることかもしれない。誰もが彼のように、普通でなくなるかもしれない。人生なんて何が起こるか分からないものだ。では、皆さんどうぞお気をつけ下さい。


 彼の朝は早く、6時には寝床から起き出る。寝間着を脱ぎ、家着のスエットに着替えると、今度は今着たばかりの家着を脱いで、背広に着替える。今日も彼の普通でない日常生活が始まった。


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