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「せっかくこんなに遠くまで来たのに、目的地にたどり着けないまま帰らないといけないなんて、大変ですよね」
「まあ、そうでしょうね」
「せっかく休みを調整して高いお金払って南米まで来て、そんなことになったらすごくショックですよね」
「国には国の事情があるんだから、仕方ないんじゃないですか。自分はそこにたどり着けない運命だったんだって、そう思うしかないでしょうね。」
私はあまりそういうことに巻き込まれないほうだが、一度だけ天候不順のため、大学の研究室の友人たちの結婚パーティーに行けなかったことがあった。飛行機はどうにか離陸して近くまで行ったものの、目的地の空港に着陸できないまま引き返した。みんなが楽しく騒いでいる間、私は一人泣きそうになりながら家に帰るしかなかった。それ以来、そのときの人たちとは徐々に疎遠になっていった。会おうと思えばいくらでも会えたのだが、確かに、初めからそう決まっていたと言われれば、今では素直にそう思えてしまう。当時は一人だけ行けなくて悔しい思いをしたが、もはや私には新たな生活が待ち受けていて、昔の友人たちといつまでもなれ合っているひまはなかったのだった。
「まあ、そうですね」
「うまくいったら、日ごろの行いがよかったんだ、くらいに考えたほうがいいですよ」
何年もここで暮らしている人の言葉だった。
日ごろの行いがいいのか、今のところまだトラブルらしいトラブルには巻き込まれてはいない。予定通り目的地に到着したし、こうして無事帰路についている。周りにいるのはみんな日本語がわからない人たちばかりなので、私たちは傍から見るとさぞかし仲良さそうに見えることだろう。実は敬語を使っていて、それなりによそよそしいやり取りをしていることなど、誰も知らないのだった。
今回の旅行が始まってから、たびたび気になっている歌が、また頭の中で流れている。十代のころに好きだった歌で、その歌には「いくつも町を歩くうちにいつか外の世界は狭くなる」という一節があった。当時、毎日真面目に中学校に通っていた私は、当然ながらいくつもの町を歩けるだけのお金も時間もなかった。山間の田舎町からは最寄り駅へ行くまでは、バスで片道四百円近くかかり、同じ県内にある鎌倉へ行くのでさえ往復千円以上した。東京へ行って街中をぶらぶらしてみたいと思っても、ちょっと電車を乗り継ぐにもいちいち交通費がかかるので、ぜいたくなことだった。遠くへ行きたい、知らないところへ行ってみたいと思っても、ちょっと頑張れば手が届きそうでいながら、しょせんは憧れの域を出ないのだった。ときが経つにつれて、いつしかその歌のことも忘れていた。
しかし、あれから二十年以上も経過してふと気づくと、私はこの歌詞の状況が、当時よりは理解できるようになってきていた。
「きれいだって言われる湖って、どこの国でも近くに山があって森だか林だかがあって、構図が似てるね。水の色も、なんか同じような色に見えるんだよね」
「アンデスの平原なんて、よく見たらリャマやアルパカに草を食べられすぎて、日本の山が鹿に丸坊主にされてるのと同じじゃん。まあ、見晴らしはいいけど」
「どこへ行っても観光名所って似たりよったりだよね。所詮人間の好みなんて同じような枠から大きく外れることはないんだね」
どこへ行くにも、楽しんでいると同時に、口には出さないながらもそんなことを思う自分がいる。いくつも街を歩くうちに、だんだんと新鮮味がなくなってきて、次に出てくるものが予想できるようになってくる。混乱したり戸惑うことは減っても、驚きと無謀の連続で、常に危険と隣り合わせでありながら、未知なものばかりでわくわくしていた十代や二十代のころとは違う。あのころは、お金も知識も持ち合わせていなかった。ただなんとなく自分もいくつも町を歩いてみたい、と思いながらもいつしかその歌のことを忘れていた。しかしここに来てから、昔の友人と再会したかのように、またあの歌が私のそばに戻ってきていた。
外の世界が広がっていけばいくほど、自分が認識している世界がいかに狭いかがわかってくる。物理的に遠くへ行けなかったときに、仕方なしに遠い国のことを本で読んでいたときは、もっと想像の世界は広がっていったはずなのに。実際に見て歩いたら、そこでおしまいになってしまうのか。限りがあることがわかってしまうのか。
十代のころ見たいと思っていた景色。本の片隅に載っていた写真や、人づてに聞いた珍しい景色のこと、私の住んでいた山合の狭い町では想像もできなかったような広々とした場所のこと、ありえないくらい寒い気温、見渡す限りの海や熱帯魚。そういったものを実際にそこへ行って知ってしまったのは、よかったのか、どうだったのか。見た瞬間に、憧れから現実に変わってしまう。二度目以降にそこを通るのは、その景色は決して自分の手中には収められないことを知り、納得する方向へ気持ちを持っていくためになってしまうのか。
憧れのままの景色のほうがよかったのか、現実を知ってよかったのか。ひとつひとつの例を取り上げて仕分けすることは無意味であるが、最近わかってきたのは、結局生活が便利なのは中途半端に都会で中途半端に田舎な場所だということだ。誰もが息を飲むような素晴らしい景色の中で、日々生活したかったら、それなりに不便な中で生きることを覚悟しなければいけないのだ。覚悟なんて大げさなことは言わず、ごく自然にそこに住めるような人でなければ、その土地には適さないということなのかもしれないが。