第八十五話 準備が出来たようでした
「…さん…イキさ…ハイキさん!」
「…ううん?」
ぼんやりとした視界に誰かの顔が視える…
とても綺麗な人だ…
頭の上には見慣れたゴツゴツゴーグルが乗っていて……
「!?」
俺はすぐに【音駆け】から落ちないように足を踏ん張ろうとしてーーー
「あれ?」
自分がふかふかのソファーで横になっている事に気づいた。
「…ここは。」
周りを見ると何度か目にした事のある机や椅子、窓に、明るい朝日の光…
「朝!?」
飛び起きると、サイラさんの顔が目の前に---
「っ、あ、あ、ご、ごめんなさい!?」
俺はすぐにソファーから転がり落ちたまま、ジャパニーズ土下座スタイルで頭を下げた。
「はい、お元気そうでよかったです~。」
サイラさんは動揺など全くしていない様子で、テーブルに置いてあるティーポットから紅茶を淹れてくれた。
「……あ、ん?」
寝起きだからかまだ頭がぼんやりする。
言葉もさっきからうまく出てこない。
…ってか、なんだ『ジャパニーズ土下座スタイル』って。
土下座でいいじゃん、土下座で。
…まだ、頭が働かないな。
よし、まずは思い出そう。
ええと…
確か、作戦がうまくいってアシトさんに任せた後、俺はサイラさんと【音駆け】に乗って…
「………」
サイラさんが本気を出させて…
…
……
………うん、そこから覚えていない。
本当に。
…『落ちたら死ぬ』って言葉だけなんとなく浮かんでいるけど。
「…あの、ここは。」
サイラさんから紅茶を受け取って俺がもう一度尋ねると、
ガチャリ
と、部屋のドアが開いた。
「おはようございます、ハイキ様。」
部屋に入ってくるなり笑顔で挨拶をしてくれたのは
「…ギルゼさん?」
ユーランの商業ギルド支部長のギルゼさんだった。
「ギルゼさんがいる…って事は。」
俺はようやく自分がどこにいるのか、理解した。
「ええ、ハイキ様。計画は全てうまく行きました。あとは、最後の仕上げです。」
力強く言うギルゼさんに合わせるように、サイラさんも頷いた。
「と言う訳で、こちらに準備してます~。」
サイラさんがテーブルに置いたのは、手の平サイズの白い四角い箱だった。細かい模様がたくさん入っていて、美術品のように視えるけど…
「では、少し待ちましょうか~。」
部屋に飾ってある時計を眺めてサイラさんは自分で用意した紅茶を口に運んだ。
******
「おお、待っていたぞ!」
日も昇り、街が活気出した頃、シュラート家の応接室では頭首であるチャミル自ら来客を出迎えていた。
「遅くなり、申し訳ありません。少しばかり立て込んでおりまして。」
深々と頭を下げる来客…シャマトが謝罪するが、当のチャミルは上機嫌のままだった。
「よいよい。来てくれただけで充分だ。ささ、まずは一杯。どうだ?」
そう言うと、チャミルはテーブルにドン、と酒瓶を一本置いた。
その銘柄は有名なもので、庶民はそう簡単に口に出来るものではなく、ましてやこんな朝から出されるようなものではない。
「…いえ、この後も控えておりますので。残念ですが。」
シャマトは断りながらも一つしかない部屋の出口と窓に軽く目をやった。
「それで、ご用件とは?」
シャマトはシュラート家とそこまで縁がある訳ではない。
アニオス商会の幹部と言う立場上、顔を何度か遭わせた事はあるがそれだけだ。
チャミルが触れ回っていた【再開発計画】に対してもシャマトは一切関係していない…それどころか、関わる事さえ避けていた。得られるモノと失うモノを天秤にかければ誰もがその選択をとるだろう。
シュラート家の使用人から『アニオス商会の幹部であるシャマトに早急に来て欲しい』と書かれた手紙を渡されなければこうして足を運ぶ事もなかった。
だからこそ、チャミル自らが出迎えをし、高級酒を振る舞われているこの状況は異常だった。
「…ふむ。では率直に話そう。」
チャミルは気分を害す様子もなく、静かにそれを言う。
「まさか、アニオス商会の幹部がBランクの商人を迫害していたとは…ゆゆしき事だ。」
「…おっしゃっている事が分かりませんが?」
シャマトは丁寧に答えながらも内心ため息をついた。
(…予想していたとは言え、ここまであからさまだとは。)
チャミルはそんなシャマトの心情を知るよしもなく、得意げに言葉を続ける。
「しらばっくれても無駄だ。お前が【旧市街】に出入りし、『ハイキ商店店主の殺害依頼』と『アームズ工房への襲撃依頼』をした事も調べがついている。それに『商店街の住民を扇動し、個人経営の金融機関へ暴動と盗みを指示した事』もだ!」
「…身に覚えがありませんね。」
シャマトは身につけている金色のアクセサリーに軽く手を触れ、もう一度出入り口と窓を視た。
(…合わせて十人。隠れているつもりでしょうが、さっきから気配が丸わかりです。逃げるのは簡単ですが…)
いくら落ち目とは言え、貴族の権力はそれなりの力がある。
チャミルの表情から余裕が読み取れる以上、やってもいないあらゆる罪をなすりつけられる手筈は整っているのだろう。
警備隊への根回しも含めて…
「どうも誤解をされているようです。私にはハイキ様を虐げる理由もありませんし、それをしたとしても得はありません。」
だから、シャマトが出来るのは時間を稼ぐ事だ。
今はまだ。
「この後に及んでも認めようとはしないとは…つくづく見苦しい。」
嘆息するチャミルだが、その行為すらも挑発の一つなのだろう。
「認めようにもそもそも何もしておりませんから。」
シャマトは口だけを動かし、身体を動かさない事に力を入れた。
指先一本でも動かせば、即座に捕らえられるかもしれない。
『自首を勧めたが、激高し襲いかかろうとした』とでも言って。
「ところで、チャミル様。私からもお一つよろしいですか?」
「なんだね?」
シャマトが予想と違って動かない事に苛立ちが出たのか、チャミルの顔が少し険しくなった。
(…ここ、ですかね。)
シャマトはとっておきの爆弾をぶつける事にした。
「カメス様が商店街の方々にかけていた【支援魔法】は解除させていただきました。」