第七十四話 乱入者
「何故だ…どうしてこうなった…」
シュラート家の屋敷の美術品部屋で、チャミルは冷や汗をだらだらと流しながら頭を抱えていた。
資金源とするはずだった愚民はユーランを出て、商店街の店主達は借金を返済し、土地の権利書と借金の契約書は配下の金貸し業から奪われた。
この時点でこれまでの成果はすべて失ってしまっていた。
むしろ、マイナスだ。
金と手間をかけて行った事を台無しにされ、その負債は尚も増えようとしている。
じわじわと自分の首が絞められていくような事態にチャミルの心は恐怖と焦りに支配された。
「何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ…」
チャミルは多くの貴族と同じように典型的な貴族至上主義だった。
『貴族が存在するから世界は回り、平民もそれを享受する事が出来ている』と本気で信じていた。【商店街の再開発計画】は自分の名誉や地位の向上もあったが、彼なりにユーランの発展を考えての事だった。
商店街の人間達の生活は必要な犠牲だと割り切っていたし、誰もがそれを理解すると思っていた。
チャミルは自分の行いにこれまで間違いを感じた事がなかったのだ。
「…そうか。」
もし、チャミルが『貴族だけでは世界は回らない』、『平民も必要な存在であり、蔑ろにするものではない』と少しでも気づいていれば彼はまだやり直す事が出来た。
「そうだ…すべて…」
だが、彼のこれまでの人生観と沸き上がる負の感情が混ざり合い、導き出されたのは、
「あの男、ハイキさえいなければ全ては元に戻る…!」
最低最悪の答えだった。
「そうだ、あいつがすべて悪い。あいつが私の言う通りに従っていればユーランは更なる発展を遂げた。あいつが他の街に行けば、ユーランは悪評に塗れて、あいつのせいで滅びる。あいつのせいだ。あいつのせいだ。全部あいつのせいだ。間違いだ。邪魔だ。いるだけで悪だ。悪なら…」
自分自身に言い聞かせるようにチャミルはその言葉を吐く。
「殺してもいいんだ。」
チャミルは驚くほど冷静な声でつぶやくと、部屋に置かれている羽ペンをとった。
紙切れに書かれた内容はとても短い一言だけ。
『ゴミ掃除を頼みたい』
自らの手で連絡鳥の足にメッセージをくくりつけると、チャミルは勢い良く空へ解き放った。
「これでいい。これが正しいのだ。私は間違いなどしない。」
そう自分に言い聞かせるように口にして…
*******
「だああかあああらああ!ハイキって男がここにいたかって聞いてんだよ、婆さん!」
「ああ?それが人に物を頼む態度かい、若造が!」
露店通りの一角。
チャミルが余所から雇っている強面の五人組の男達がある露店の前で店主の老婆、レミトと言い争いをしていた。
事の始まりは一つの情報だった。
街中への聞き込みをしていると、とある冒険者のパーティーがハイキらしき男を視たと教えてくれたのだ。
ハイキらしき男は露店通りの薬草店で五分ほど話して、すぐに去っていったそうだが、これまでまともな情報がなかった男達にとっては値千金の情報だった。
薬草を扱っている店を片っ端から聞き込み、最後に行き着いた先がこのレミトの店だったのだ。
男達は「もし、話す気がなくても人数で囲んで脅せば簡単に話すだろう」と高をくくっていたが…
「客なら対応はするが、粋がっている馬鹿はお断りだよ。とっとと帰りな!」
レミトは一歩も退かない態度で男達を突っ返していた。
どれだけ凶悪な表情を見せようが、店先の物を壊そうが、まったく関係がなかった。
それはこれまで気に入らない物を暴力で押し通していた男達にとって屈辱以外の何物でもなかった。
「っ、このババア!」
ついに、男の一人…一番歳の低い十代の男がキレてその手を振り上げた。
相手が老婆であろうと、いや、老婆だからこそ…自分よりも弱いはずの人間が自分より堂々としているその姿に耐えきれなくなったのだ。
「くたばれえ!」
振り下ろされる手はレミトの顔を狙う。
その時だった。
「止めとけ。」
静かな、とても冷たい声が、全員の動きを止めた。
「!」
「……」
ツカツカと靴を鳴らして現われたのは一人の男だった。
青白い肌に、肩までかかっている長い黒髪。
細身でこそあるが、病弱というよりは不気味な雰囲気が漂っている二十代前半の男。
「お、お疲れ様ですジキルさん!」
男達は慌てて頭を下げるが、ジキルと呼ばれた男は気にする様子もない。
「……」
ジキルはレミトと拳を振り上げていた男だけを視ていた。
「…ったくよぉ。」
めんどくさそうな声が聞こえるが、男達は動こうとはしない。
いや、動く事すら出来ない。
あれだけ息巻いていた男達が、全員恐怖で固まっている。
「せっかく散歩している時に、仕事の話が来たから、状況聞こうと思ったのによ。」
ジキルはぼやきながら、レミトの目の前まで近づいた。
「まずはケジメだな。」
ジキルはそう言うと、レミトを殴ろうとしていた男の手を掴んで、
ボキッ
「ぎ、がああああああ!」
一瞬だった。
ジキルはためらいなく男の手をへし折っていた。
公衆の面前で、周囲の視線もざわめきも何も気にする事なく。
「悪いね、婆さん。うちの者が失礼をした。」
「……」
転げ回る男に目もくれず、深々と頭を下げるジキルに対し、レミトはゆっくりと店に置いてある手の平ほどの青い薬草を一束手にとった。
「…アンタがこのガキ共の大将かい?」
ジキルはレミトの問いかけにこくりとうなずく。
「まあね。【獣爪団】ってチームの頭やってる。うちはまだまだ新参者なんで向こうじゃ肩身が狭いんだよ。」
人なつっこく笑いながら世間話をするジキルは数秒前まで仲間の腕を折った男にも、荒くれ者共を率いる男にも視えない。
だからこそ、レミトはジキルから目を離さなかった。
この男の雰囲気と得体の知れ無さからすぐにその正体に気づく。
「…【旧市街】の連中がわざわざこんな所に何の用だい。」
レミトはジキルに視線を向けながらも、今も叫び続ける男に持っている薬草を放り投げた。
「さっさと飲み込みな。治りはしないが、生なら痛み止めにもなる。アンタ達もすぐに医者に連れて行きな。」
涙でぐしゃぐしゃの顔になった男は折れていない手ですぐに薬草を掴むと、かじりつき胃に流し込んでいく。
「……はあ。」
効果が出たのか、男の顔が段々と穏やかになっていく。
「おい、しっかりしろ。」
その顔を見て安堵した仲間達も彼に肩を貸して医者の元へ向かおうとするが、
「…何してんの?」
ジキルの言葉が男達の足を止めた。
「お前達さ、いつ俺が行っていいって言った?なんかショックなんだけど…」
「す、すみません!」
屈強な男達が明らかに自分よりも歳の低い男に頭をさげる。
ジキルは殺気を出している訳でもない。
プレッシャーをかけているわけでもない。
ただの言葉…
それだけで男達の動きを縛っていた。
「…ったく、アンタ相当タチが悪いね。」
レミトは心底そう思いながら、諦めたように頭をかいた。
「『あの怪我をしたガキを医者に連れて行って安静にさせる事』…それを守るなら、話をしようじゃないか。」
レミトがわざわざ『安静にさせる事』と言い加えたのは、ジキルにある種の危険を感じたからだった。
「ん、ならいいよ。」
ジキルは考える素振りを見せたものの、薄い笑みを浮かべた。
「アイツも結果的に、良い仕事をしてくれたし。楽になってもらおう。お前ら、そいつ医者に連れてっていいよ。」
「は、はい!」
ジキルの許可を受け、男達はすぐに負傷した男を担いで露店通りを出て行った。
「じゃあ、さっさと話をしようか。俺も一応あいつらの頭だし、見舞いには行かないと--。」
「…『絶対に殺すな』と言っているんだよ、アタシは。」
二人の視線がぶつかりあい、周囲に緊張が走る。
「…………」
「…………」
先ほどとは比べものにならないほどの張り詰めた空気で二人の間に静寂が続くが、
「分かった分かった。婆さんの言う通り、本当に安静にさせる。直接的でも間接的でもあいつには危害を絶対に加えない…これで、いいだろ?」
先に折れたのはジキルだった。
両手を挙げ、降参の構えまでしている。
「婆さん相手じゃ、俺もタダじゃ済みそうにないし。これ以上は時間の無駄だ。」
同時に空気が一気に緩み、周囲に音が戻ってくる。
「…何を聞きたいんだい?」
未だに警戒を続けるレミトにジキルは真顔で本題に入る。
「婆さんが会っていたハイキって男の事を聞きたい。」