無情なヒロイン(1)
莉乃達4人は長い道中を超え、天上につかんばかりに積み上げられた本の塔が幾つもある部屋に着いていた。彩音が意識のある莉乃と剛介へドリップしたコーヒーを振る舞っていることからも、ここが彩音京也の研究室で間違いないだろう。
「ミルクとガムシロもそこにあるから、遠慮せず使いたまえ。私の好みを押しつけるつもりは無いからね」
彩音はマグカップを回し、香りを愉しむように鼻孔へ近づける。剛介は言われるまでもなく、真っ黒なマグカップの中へミルクとガムシロップを溢れんばかりに入れまくっていた。
「それ、逆に身体に悪そう」
莉乃は特に何を入れるでもなく、年不相応にブラックコーヒーを真顔で飲む。一方、剛介はガムシロップの層を崩すように混ぜる。
「苦いもん甘くして何が悪いんだよ。それに俺は何飲んでも食っても超健康体を維持出来るんだからな」
「傷は治っても好き嫌いは直らないんだね、ウケる~」
微塵も表情を変えない莉乃に剛介は溜め息をつくと、ガムシロップの層が残ったままコーヒーを満足げに飲む。
「織原くん、面白いこと言うね。確かに好き嫌いは直らない……いや、これは物の例えに過ぎず実際は適応の可不可。だが健康を指標にすれば矯正も……でも苦味は生物の生存本能が……」
莉乃の何気ない一言に彩音は過剰に反応する。またもや1人の世界に入っていく彩音に、餌を与えてしまった莉乃も乾いた笑いをする他ない。絶え間なく独り言を発しながら本の山へ突入して何かを探し始める。すると、山積みの本が崩れ出し莉乃と剛介、部屋の隅でぐったり立てかけられている澪にも猛威を振るう。
「先生! ちょっと! あぁもう、だからあれだけ人が来る前くらい片付けろって! おい! 彩音!」
「一応お姉さんと部屋から出とくから、阿古さんガンバ」
「織原ぁぁぁぁぁぁあああ!」
驚異的な身のこなしで澪を担いで部屋から離脱する莉乃、本の波に呑まれて悲鳴を上げる剛介。本題に入るのはいつになるのやら、彩音京也は非常時ですら普段と変わらぬ変人っぷりを発揮していた。
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「――いやぁすまんすまん、気になると周りが見えなくなってね、でもさっきのは織原くんもいけないと思うよ? とても良い所を突きすぎじゃない?」
「先生、人のせいにしないでください。みっともないです」
莉乃の冷静なツッコミに、彩音は手を叩いて爆笑する。この男はいつでもどこでも上機嫌だが、もう少し頭のネジが外れてなくても良いだろう、と言わんばかりに剛介が虚空を見つめている。
彩音が笑い終えると、一呼吸置くこともなく彼の声のトーンが変わる。
「失礼したね。織原くんは野比くんから真の史実を聞いているよね?」
「あっ、はい。日本がこの世界の実質の支配者って事ですよね」
「ド直球な言い方だね、その通りだ。」
彩音は口角を上げるが、その眼は先程爆笑という爆笑をしていた男と同一人物とは思えないほどに微動だにせず、まっすぐ莉乃を見つめている。莉乃はあまりの迫力とギャップに思わず唾を飲む。
莉乃の緊張は伝わっていただろうが、彩音はクールダウンを挟むことなく続ける。
「これを創り上げた超能力は日本固有の戦略兵器だったんだけど、形式上世界がひとつになった事で情報も漏洩してしまったんだ。今は名もなき旧諸国の研究者達が報復と好奇心から手を出し、その矛先がここに向いてるわけだね」
彩音は背もたれのついた椅子へ腰をかけ、今の国立神経科学研究センターの置かれている状況について詳細を莉乃へ伝える。
かつて猛威を振るった超能力者達は旧日本国領土内にある複数の研究施設をと送られた。兵器として開発された彼らの出生は様々であったが、例え家族がいようとも殺戮兵器と化した我が子を平和で世界を抑えつけている支配者から奪い返そうという気概のあるものはいなかった。
超能力者達の大多数は、命を尊重されることもなく研究者達の好奇心によって殺されるばかりであった。彩音京也の父と母もその研究者達の1人であったという。両親が自分と同じ年頃の人間を何の躊躇いもなく実験し、処分していた事に強く疑問を抱いた。彩音は大学院へ進学し、後に両親が執着した超能力というブラックボックスの封を開けるまでに至り、血は争えず魅入られてしまった。
だが、それでも彩音は優しい男だったのか、あるいは真に外道であったのかはわからないが、新たな形態で超能力者を受け入れ、研究に没頭した。
かつて兵器と恐れられ、人権の欠片も無かった者はもちろん、今の時代に生を授かり、無意識のうちに能力を発現し得る子供達も含めた全ての超能力者を保護し、適切な力の使い方を覚えさせようとしたのだ。その過程で、剛介のような若干非人道的な実験――これもひとつ、彩音と剛介の信頼関係が成せる事ではあるが――も超能力者当人の健全な選択の権利を確保した上で了承を得て行う。そこから彩音は、望むならば能力は得る事も消す事も自在である世界を目指す事に尽力することになった。
しかし、日本という国の業は酷く深い。彩音の理念を聞いて多くの超能力者が集まったが、彩音の研究施設及び研究それ自体への悪意も集まるにようになった。幾度とない襲撃が訪れ彩音の命も脅かされたが、彼の仲間であった超能力者達がそれを良しとしなかった。
だが、若き超能力者達は能力を有している以前に1人の子供であった。それ故に突きこまれる隙はあまりにも多く、それぞれの出生への寝返りが後を絶たず散り散りになってしまった。そこから漏れた彩音の研究実績が多くの暗躍する機関を生みだすに至った。
この背景事情を全て彩音の罪とするのは馬鹿げているが、そうしないとやりどころの無い怒りや憎しみがこの世界に、若き才能溢れる子供達が多く生まれてしまったのだ。彩音はそれを受け入れいた上で、再度真に平和な超能力者達の居場所を設立しようと努めている。
彩音の話を聞いた莉乃は俯いてしまう。彩音京也の研究に対する好奇心は言われずともわかっていたが、責任を取ることを厭わない真摯な姿勢は未だ16歳の彼女にはあまりにも重かった。
「だから、私は君達を救いたい。能力を有するもの全員だ、誰ひとり例外は無い」
莉乃が目を反らしても、彩音は自身で紡ぎあげた言葉を、ただひたすらまっすぐに投げかける。それは全てをわかって貰おうという事ではない。自分をさらけ出すことで信頼を勝ち取るという、彩音がこの使命を自身に化してから身に付けた彼の能力なのだ。
「……なんで先生は日本の助けを借りるの?」
絞り出すように莉乃は彩音へ問う。その疑問は最もだろう。彩音は自身で日本のした数々の所業に対する贖罪とならんと言わんばかりの行動をしている。それも、憎しみの象徴たる日本の後ろ盾を借りているのだ。
「私が無力だからさ。だがこのままでは終わらんよ、絶対に中からこの世界を変えてみせる」
力強く言葉を放つ彩音に、剛介が立ち上がり莉乃へと歩み寄り肩を叩く。
「俺らは先生なら出来ると信じてんだ。この人には、世界をそうさせるんじゃないかって決意と熱意がある」
剛介の言葉に彩音は目を伏せ、笑みを浮かべる。多くは語らずとも、彼らの信頼関係の強さが想像を凌駕するものだということを人生経験の乏しい莉乃でも察することが出来た。
「ペテン師が……ウチは、お前を……!」
3人は思いもよらぬ事態に、勢いよく声を主へと目をやる。彩音の長話の間に坂上澪が意識を取り戻していたのだ。だが澪は立ち上がることもなく、肘で這いながら彩音を睨みつけていた。
「手厳しい評価だ。だが私は、それも覆さなければならないよね」
「……先生、こいつどうすんだ?」
ニヤつく彩音に剛介が間を置き投げかける。敵意をむき出しに、ついさっき殺そうとしてきた相手へも慈愛の眼差しを送る彩音を剛介は刺すように見る。
「もちろん、実験に協力してもらうのさ。それは即ち、私が生涯助けを差し伸べることを意味するよ」